第6話
任された分の掃除が終わったのは、それから一時間ほど後だった。丁度舞台の設営も終わったようで、階下からは互いをねぎらう声が微かに聞こえてきている。円形舞台の真ん中に立っている真っ赤な頭に向けて、わたしは大きく手を振った。
「お疲れ様です、ノア先輩」
「ヨル!? なにしてるの!?」
驚いたように叫んだノア先輩が、凄い勢いで舞台裏へ駆け出した。背中が見えなくなったかと思うと、今度は荒々しい靴音が後ろの階段から聞こえてくる。え、速いな。後ろを振り返った丁度その時、息を切らしたノア先輩が階段から飛び出してきた。
「わ、すごい。先輩足速いですね」
「そうだけど、そうじゃなくて」
渋い顔をして、ノア先輩は赤い髪を乱雑にかき混ぜた。その赤い毛先が、数本束になって黒く汚れている。ペンキかしら。早めに落とさないと髪の毛が痛んでしまう。せっかく綺麗な髪なのに。
「ヨル」
彼の髪に伸びていた手が、不意に肩を掴まれたことで行き場を失う。どういうわけかノア先輩は、熟す前の林檎を噛みしめたような顔をしていた。
「はい」
「何してたの?」
「清掃のお手伝いです」
「稽古は?」
「今日は早く終わりにしようと、フルーリアさんが仰ったんです」
「早く終わったなら、早く寮に帰ればよかったのに」
「わたし一人じゃ部屋まで戻れませんから」
「談話室にいればいいじゃん」
「毎回迎えに来て頂いているのに、無断で稽古場からいなくなるのは失礼じゃないですか」
ノア先輩が大きなため息をつく。なにか怒らせてしまうようなことをしたのだろうか。でも、それにしては声に怒気がない気がする。どちらかと言えば、困っているような。躊躇いつつも彼の名を呼ぶと、ノア先輩は慌ててわたしの肩を離した。
「ごめん」
「いえ」
「今度こういうことがあったら、談話室で待ってて」
「わかりました」
「よろしい。……手伝ってくれてありがとね」
ノア先輩がにっこりと笑う。考えてみれば、今まで就業の時刻が全く同じだったことの方が不思議なのだ。これからわたしが公演に出演し始めれば、今回のようなことはどんどん増えるだろうことは容易に想像がつく。もっと早くに、終業時刻がずれた場合についてお話しておくんだった。なんだか最近、目先のことで手一杯だ。もっと先のことまで考えて動かなくては、と内心反省する。ぎゅっと手を握ったところで、ふと足下の掃除道具のことを思い出した。寮へ帰る前に道具をあの女性へ返さなくては。名前を訊きそびれてしまったけれど、容姿の特徴を言えばノア先輩ならわかるだろうか。
「ノア先輩、お訊きしたいことが」
「なあに?」
「お会いしたい人がいるんです。背が高くて、ふわふわした錫色の髪の……」
ノア先輩に質問しようとしたその時、女性にしては少し低い、よく熟れたオレンジのような声が降ってきた。
「師匠、お疲れ様っす!」
声のした方を見上げると、三階席に黒い作業服の女性が立っている。わたしに布を貸してくれた、あの女性だ。彼女はぶんぶんと片手を振り、客席脇の階段を駆け下りてきた。錫色の髪がひょこひょこと揺れている。
「お疲れ、セトア」
「お疲れ様です」
「ヨルさんも! お疲れ様っす。お手伝い、ありがとうございました。すごい助かったっす」
そうか、彼女はセトアさんというのか。満面の笑みのセトアさんに、ぎゅっと両手を握られる。その人懐っこい表情に、わたしは実家の馬を思い出した。あの子も凜々しい顔付きとは裏腹に、懐っこくて愛嬌のある子だった。見ているだけで頬が緩んでしまうような雰囲気も、どことなく似ている。
「セトアとヨルって知り合いだったの? いつの間に?」
目を丸くして、ノア先輩が不思議そうに首を傾げた。
「さっき会ったばっかりっすよ。ヨルさんがお手伝いしてくれるって言うから、有り難くお願いした次第で」
「セトア……お前……」
セトアさんの説明に、ノア先輩が呆れ果てたような呻き声を放った。両手を腰に当て、先輩はセトアさんをジトリと睨み付ける。
「ヨルは稽古後だったんだぞ。拭き掃除なんて頼むなよ」
「そうだったんすか!? それは申し訳ない、すみませんでした」
セトアさんが勢いよく頭を下げて、錫色の髪がぶうんと弧を描く。わたしは大慌てで彼女に顔を上げるよう促した。勝手に手伝いを申し出たのはわたしの方だ。彼女が謝る理由はどこにもない。
「わたしが無理を言ってお手伝いさせてもらったんです。それに、あれくらいのお稽古でそんなに疲れたりしません。わたし、体力には自信があるんですよ」
わざと得意げに胸を張ってみれば、ノア先輩とセトアさんはおかしそうに笑った。
「そういえば、ヨルは王都からここまで歩きで来たんだっけ。そりゃ、体力あるに決まってるよね」
「王都から! そりゃすごいっすね。普通は馬車で来る距離っすよ」
「ふふ、でしょう?」
「でも! 稽古の後は特別な理由がない限り、休息にあてること。フルーリアが早く稽古を切り上げたってことは、『今日はちゃんとお休みしなさいね』って意味でもあると思うよ」
「はい。以後気をつけます」
「うん。そうして」
疲れたあ、とノア先輩が大きく伸びをする。その拍子に、先輩のお腹の虫が元気よく鳴き声をあげた。わたしとセトアさん、二人分の視線を受けたノア先輩は、恥ずかしそうに頬を掻く。
「俺、もうお腹ぺこぺこ。ちょっと早いけど食堂行こ」
「そうですね、そうしましょう」
「あたしもご一緒していいっすか?」
「俺はいいけど、ヨルは?」
「もちろん。是非」
「やった! 最後の片付けだけしてくるんで、ゆっくり歩いててください。すぐ追いつくっす!」
長い髪をなびかせて、セトアさんが駆けていく。彼女の足音が心底嬉しそうに跳ねていたものだから、思わずノア先輩と顔を見合わせて笑ってしまった。
「可愛らしい人ですね」
「セトアは人懐っこいから。いい奴だし、ヨルも仲良くしてくれると嬉しいな」
「是非ともそうさせて頂きたいですね」
客席脇の階段を降りて、劇場の裏口から外へ出る。辺りはすっかり夜の空気に包まれ、まばらに点いた電灯が建物の影を浮かび上がらせていた。降り続ける雨は衰えることを知らないようで、大きな水たまりをいくつも作っている。
「このところ雨続きで、嫌になっちゃいますね」
「ねー。湿気で髪の毛がぼさぼさだよ」
「わたしも朝が大変です。なかなかまとまらなくて」
「ね。困るよね」
「困りますね」
本館へと続く渡り廊下はわたしと先輩以外誰もいなくて、冷たく静かだった。雨音が何もかも食べてしまうせいで、わたしと先輩の声だけが不安定に浮いている。先輩と出会ってから二週間経った。だいぶ打ち解けてきたとはいえ、二人きりの静かな空間ではどうしても会話のぎこちなさが目立ってしまう。せめてもう一人いれば。ああ、セトアさんはまだかなあ。意識が背後へ向いていたところで、急に先輩がわたしの名前を呼んだ。
「お願いがあるんだけど」
「なんでしょう?」
「明日の夜、一時間付き合ってもらえないかな? 連れて行きたいところがあるんだ」
その顔があまりにも真剣だったものだから、わたしは思わず身構えてしまった。今までも時折先輩に食事(と言っても本館の食堂だけど)や散歩に誘われたことはあるけれど、こんなにも重々しい誘い方をされたことはない。なにか大切な話でもあるのだろうか。
「連れて行くとは、何処へ?」
「うんとね、それは秘密」
「目的は?」
「それも、秘密」
ノア先輩は、ばつが悪そうに苦笑いした。断られると思っているのだろうか。たしかに、目的地も目的も告げず夜間に女の子を連れ出すのは褒められたことではない。わたしも人によってはお断りするけど、相手はノア先輩だ。加えて、あの真剣な表情。私的な用事よりは、なにか仕事や寮生活についての話である可能性が高いだろう。
「構いません。ただ明日は総稽古ですから、あまり遅くなるのは困ります」
わたしの返事に、ノア先輩は一生懸命頷く。
「消灯時間の前には部屋に送る! し、風邪も引かせないし怪我もさせないよ!」
「お気遣いありがとうございます」
えへへ、とノア先輩が嬉しそうに笑う。もはや少年というか、ちょっと少女じみた笑い方だった。
「夜の九時に迎えに行くね」
「わかりました」
「おまたせしましたー!終わらせてきたっすよ!」
とびきり明るい声と共に、セトアさんが駆けてきた。小鳥のようにぴょんぴょん跳ね回りながら、彼女はノア先輩の背をぐいぐいと押す。
「早く行きましょ、お腹空いたっすよ」
「わかったわかった、そんなに押すなって」
三人分の足音が、雨音を跳ね返すように響く。楽しそうなセトアさんに相槌を打ちながら、わたしは明日の約束について考えていた。一体どんな用事だろう。最初は仕事についてのお話だと思ったのだけど、了承の意を伝えた時の表情が気になる。防寒するように言われたから、外出をする可能性は高いと思うけれど。
「雨、止むかしら」
「ん、なんか言った?」
「いえ、なんでもありません」
窓ガラスの向こうでは、相も変わらず雨が降り続いている。そろそろ晴れ空がみたいなあ。分厚い雲の向こうを想って、わたしは少し目を細めた。