第5話
入団式から二週間経った。
例年ならば春も終わりに差し掛かり、夏の気配が近づいてくる時期だけれど、その日はひどく冷え込んだ。五日前から降り続く雨のせいで、どことなく周囲の空気も沈んでいる。
わたしは明後日の初舞台に向けて、朝から稽古に励んでいた。まとまらない髪も、足下から這い寄る寒さも、稽古の間だけは気にならない。時計の針が四時を指し示したところで、講師役のフルーリアさんが一つ手を叩いた。
「うん、ばっちりだねぇ。今日はもう終わりにしようかぁ」
「もうですか。本日の稽古は六時までと伺っていましたが……」
「だって、ヨルはボクが言ったことをちゃんとできてるもの。元々歌自体はとっても上手だしねぇ。学校でよく勉強してきたんだってわかるよぉ」
「ですが」
フルーリアさんの両手が、わたしの右手を包み込む。そのまま手をゆらゆらと左右に振って、彼は穏やかに笑った。
「休むのもお仕事のうちだよぉ。ね?」
「……はい」
妹に言い聞かせるような声音に、わたしは無条件に降伏した。初日に窓から現れたときはどうしたものかと思ったものの、フルーリアさんはとても優しい人だった。舞台の作法や手順の指導以外にも、日常で困ったことはないか、精神面で辛いことはないかと、細やかに気を回してくれる。
突然窓から現れたり、梁から降りてきたり、床下の収納から出てくるのには驚くけれど、それはご愛敬だろう。たぶん。いい人だし。
「本日もありがとうございました。大変勉強になりました」
「大したことは教えてないけどねぇ。ヨルは優秀だよぉ」
「そんなことはありません! フルーリアさんからは学ぶことばかりです。なんて素晴らしい先輩に恵まれたんだろうって、わたしいつも思っているんですよ! 隣で歌を聴かせていただけるだけでも有り難いのに、指導も本当に丁寧にしてくださって」
「ふふ、照れるなぁ。そんなに喜ばれると、教え甲斐があるけどねぇ」
フルーリアさんの歌は本当にすごい。ステライールの看板歌手の名にふさわしいとしか言い様のない歌声は、稽古中だというのに危うく聞き入ってしまうほどだ。ただ、たしかに素晴らしい歌なのだけど、形容するのが難しい声でもあった。どちらかというと、表現力に長けている人、なのだと思う。聞いている人間の感情を内側から作り替えていくような、そういう歌だった。
加えて、彼は人にものを教えるのがものすごく上手い。手を貸すところと、見守るところの線引きが絶妙なのだ。実力と指導力は必ずしも比例しないけれど、フルーリアさんはどちらも優れているという希有な人だった。
「さ、今日はおしまい。ご飯をたくさん食べて、暖かくしてよく寝るんだよぉ」
「はい。お疲れ様でした」
「お疲れ様」
ひらひらと手を振って、フルーリアさんは床下に消えていった。あの床下収納、どういう造りになっているのだろう。一度覗いた時は予備の椅子や掃除用具が仕舞われていて、通路の類いは無かったと記憶しているのだけど。ここも魔法で弄っているのかな。そのうち訊いてみよう。
荷物をまとめて、稽古場を出る。事務室に鍵を返却し、寮へと足を向けたところで、わたしはふと立ち止まった。そうだ。わたし、一人じゃ帰れないんだった。九十七個の『きまり』は、未だ元気よくわたしを苦しめている。『きまり』を紙面に書き留めることは防犯上よくないので(書いた紙をなくしでもしたら大事だ)、ノア先輩に送り迎えをしてもらいつつ解説してもらっているのだけど、これがなかなか手強い。
というのも、『きまり』自体を覚えることができても、どの『きまり』に従って動けばいいのかを判断することが難しいのである。例えば、「窓の外に花菖蒲が見えたら次の角を右、杜若なら左」という『きまり』がある。一見単純なように見えて、このきまりはくせ者だ。なぜなら、花菖蒲と杜若は、花の形や色がそっくりだからだ。他にも鳥とか木とか、この手の類いの『きまり』が山ほどある。
記憶力には自信があるから、頑張ればすぐ覚えられるはずだと思っていたのだが。これはちょっと、どうしようもない。サーカスに就職して、まさか動植物の鑑別を習うとは思っていなかった。
「どうしよ……」
とりあえず、談話室まで戻ろうか。いや、それではノア先輩を困らせてしまうかもしれない。いつもわたしの稽古が終わる時間に稽古場へ迎えに来てくれるから、黙っていなくなったらまずいだろう。書き置きを稽古場の扉に張っておく? 先輩相手にそれは失礼な気がする。食堂へ行くにはまだ早すぎる時間だし……。
「ああ」
そうだ、先輩のお仕事を手伝いに行こう。思いついた瞬間に、わたしの足は動き出していた。ノア先輩は基本的に、劇場か自分の工房でお仕事をしている。今日は明日の通し稽古に向けて会場設営の最終調整をすると言っていたから、きっと会場にいるはずだ。専門的なことは手を出せないけれど、客席や舞台の掃除くらいなら手伝えるだろう。もしお役に立てなさそうなら、談話室にいると伝えて寮へ戻ればいい。その後適当な時間に食堂へ向かって、ご飯を食べた後にノア先輩と合流すればいいだろう。
ステライールの持つ劇場は、真っ赤な屋根と六芒星を戴く銀の旗が特徴的な円形劇場だ。きちんとした造りをしているけれど、装飾はあくまで古典的なサーカステントを踏襲している。ノア先輩によるとこれは団長の趣味で、曰く「それっぽさは観客にとっても演目者にとっても大切」らしい。なんとなく、わかるような気もする。青空になびく銀の旗を見ると、不思議と胸が高鳴るのは事実だった。
「失礼します」
正面口は機材の搬入をしているようだから、裏口からそっと入る。薄暗い舞台裏ではいくつもの声が飛び交っていて、慌ただしい雰囲気が醸し出されていた。
「あれ、なにかご用ですかー?」
声を掛けてきたのは、二十歳くらいの女性だった。黒い作業着を身にまとい、錫色のふわふわとした髪を一つに束ねている。化粧っ気のない顔はあちこち煤で汚れているけれど、それがかえって彼女の精悍な美しさを引き立ててさえいた。
「ノア・アステラさんはいらっしゃいますか?」
わたしがそう尋ねると、彼女は少し難しい顔をして首を傾げる。
「師匠……ノアですか。表で設営してますけど。今は手が離せないみたいなんで、とりあえずお客さんが来てるって伝えてきますね」
「お忙しいならいいんです、急ぎではないので。お客さんでもないですし」
慌てて首に提げた団員証を見せると、彼女は合点がいったように「ああ」と頷いた。
「師匠が世話役に付いてる子っすね。名前は、ええと……」
「ヨルです。ヨルドルヒカ・ジルテ」
「そうそう、ヨルさん。お噂はかねがね伺っておりますよ」
彼女がおどけたように首を傾げた。「かねがね」なんて言われるくらい、ノア先輩はわたしの話をしているのか。あの人、一体何を話したんだろう。なんとも言えない気恥ずかしさを笑顔で誤魔化して、わたしは彼女に尋ねた。
「わたし、ノア先輩のお手伝いがしたいと思って来たんです。なにかありませんか? お掃除とか、片付けとか」
途端に、彼女の顔がぱっと輝く。薄暗い舞台裏に、そこだけ電灯が点いたかのような「ぱっ」具合だった。彼女がわたしの右手を両手で掴み、上下にぶんぶんと振り回す。凜々しい容貌に反して、仕草や表情の可愛らしい人だった。
「本当っすか! いやぁ、助かります。急に大きな変更が入ったから、いろいろ手が回ってなくて……」
ついさっきまでは凜々しい鷹のようだった雰囲気が、餌を見つけた小鳥のように様変わりしていた。深い青色の瞳が、宝石のようにぴかぴかと輝いている。ひどく人懐こい表情で、彼女は「へへ」と笑った。
「なにをしましょうか」
「客席の拭き掃除をお願いしたいっす。二階席の『こぐま』と『さそり』の区域だけでいいんで」
「任せてください」
これ使ってください、と彼女がバケツと雑巾を貸してくれた。水道とゴミ箱の場所を早口で説明して、彼女はすぐに舞台の方へと駆けていった。
「じゃ、頼みます!」
「はい!」
チラリと振り返った彼女に、手を振って了承の意を返した。施設の案内は一通りノア先輩にしてもらったから、客席への行き方は訊かなくてもわかる。早く終わらせようと、わたしは舞台裏の階段を駆け上った。
「わあ……」
飛び交うたくさんの声、大きな音をたてる機械達、組み上がっていく骨組み。今作っているのは、空中ブランコかしら。華やかな「舞台」に変身する前の空間は無骨で、けれどなんだかワクワクする空気感を纏っていた。その空気の中心に立っているのが、赤い髪の少年。ノア先輩だ、と一目でわかった。設計書だろうか、書類とにらめっこしながら頭を掻いている。あ、さっきの女の人だ。彼女を呼び止めてなにか話をしている。
「……」
ノア先輩が、かなり大事な立場にいるのはわかっていた。なにせ、舞台の設営について一手に引き受けているというのだ。他の裏方さんと真剣な顔で話し合っているのを何度も見かけたし、弟ではなく舞台設営の総責任者として頻繁に団長の元へ行っているのも知っていた。
けれど、ふだんのノア先輩はあんまりにも普通の少年なのだ。団員達と楽しそうにじゃれ合って、美味しそうにご飯を食べて、時々わたしをからかってニヤニヤする。本当は八百七十歳らしいけど、十七歳のわたしより年下なんじゃないかと思うくらい、先輩は全うに少年だった。
「差が、すごい」
わたしが見つめている間も、先輩は休むことなく動き回っている。真っ赤な髪がひらひら揺れて、まるで炎が駆けているみたいだった。頑張っていらっしゃるんだな。わたしも頑張らないと。気合いを入れるように腕まくりをして、わたしは掃除に取りかかった。