第4話
星空の下、篝火の爆ぜる音と陽気な声が空気を揺らしている。その熱気から逃げ出して、わたしは隅っこに置かれた木箱へぐったりともたれ掛かった。結った髪が崩れている気がするけど、直すのも面倒だ。吐き出した息が、自分でも驚くくらい重く湿っている。疲れた。すごく疲れた。
「ヨル、大丈夫?」
「はい……?」
木箱の後ろから、よく熟れた林檎のような赤い髪が現れた。わたしの姿を見て、ノア先輩は困ったように眉を下げる。
「あんまり大丈夫じゃなさそうだね」
一拍遅れて、わたしは飛び上がった。現在進行形で、ノア先輩にとんでもない恰好を晒している。慌てて姿勢を正したところで、ここが宴会場端の地べたであることを思い出した。今更取り繕っても手遅れである。
「ヨルってほんと生真面目だよね。もっと楽にしてもいいのに」
ノア先輩が、わたしの隣に腰を下ろす。とりあえずスカートは整えて、わたしは誤魔化すために曖昧な笑みを浮かべた。わたしにとって、目上の人や年上の人の前で「楽にする」ことは難易度が高い。むしろ、厳格に礼儀を守っている方が「楽」だったりする。彼はきっと善意で言ってくれているのだし、わざわざこんなことを伝えるつもりはないけれど。
「疲れてない? 部屋に帰るなら送るよ」
「いえ、そこまででは。せっかく歓迎会を開いていただいたのですし、お開きまでここにいます」
夜風が首元を掠めていく。結ったはずの髪が肩から滑り落ちてきたから、諦めて髪紐を解いた。絡まった髪がなかなか解れず、また一つため息がこぼれる。
「ヨル、すごいもみくちゃにされてたよな」
「皆さん親切な方なのはわかるんですが」
「あいつらは手加減を知らないから」
あはは。こぼれた愛想笑いは、天日干しした雑巾のように乾いていた。手元のグラスを持ち上げ、一気に飲み干す。中身の水はとっくにぬるくなっていたけれど、疲弊した体にはそれすら心地よかった。
ステライールでは、新しい団員が入る毎年春に入団式が行われる。わたし達はこの入団式で団長から団員証を手渡され、名実共にサーカスの仲間となるのだ。この式そのものは、そう長くも難しくもない。問題はその後の歓迎会だ。
歓迎会が始まった瞬間、わたし周りには人間の壁ができた。どこの出身だ、ここに来る前は何をしていたと怒濤の質問攻めに始まり、あれを食べろこれを飲めと器や杯を次々と押しつけられ、構い倒された。わたしだって舞台に立つ者として相応の愛想は身につけているけれど、人付き合いは不得手な方だ。上へ下へ右へ左へ翻弄され続け、ようやく解放された頃には疲労困憊だった。
「みんなに遠慮はしなくていいよ。いい奴らだけど、なんていうか、暑苦しいんだ」
わたしを会場まで案内する最中、ノア先輩はそう言って苦笑していた。身内に対する軽口と思っていたけれど、あながち間違いでもなかったらしい。
「大変だっただろ?」
「たしかにちょっと大変でしたが……。嫌では、なかったので。親切な方々でした」
そっか、とノア先輩が頷く。勢いに圧倒されはしたけれど、サーカスの団員達は皆、陽気で気のいい方ばかりだった。嫌いな食べ物はないか、なにか不自由はないか、困ったことはないか……。少しの間言葉を交わしただけで、彼らがわたしを心から歓迎し、気遣ってくれていることが覗えた。それは、本当に嬉しかった。
「ただ、もう少し穏やかに来て頂きたかったな、とは……」
「や、ほんとに、ごめんな」
二人の間に沈黙が流れた。どうにも居心地が悪くて、手の中の髪紐を適当にいじる。無言が続いてしまうとどうすればいいのかわからない。かといって、ここから立ち去るのはもっと頂けない。ノア先輩もそれは同じだったのだろう。困ったように笑って、彼はぴょこんと立ち上がった。
「えっと、俺飲み物もってくるね」
わたしが行きますと言う間もなく、彼は宴会場の中心へと走って行ってしまった。また先輩に気を使わせてしまった。居心地の悪さにため息をついたところで、ノア先輩が二つのカップを手にこちらへ戻ってきた。
「どうぞ」
「すみません、ありがとうございます」
手元のカップからは、ほんのりと甘い香りが立ち上っている。乳白色の液体を一口飲むと、柔らかい甘さの後に強めの辛みが舌を焼いた。ラコ(牛の乳に蜂蜜と香草を混ぜて煮込んだもの)だ。国の北方ではよく飲まれているけれど、王都にほど近いこの場所ではあまりお目にかからない代物だったはずだ。
「美味しい?」
「はい、とても。王都近くでラコが飲めるとは思いませんでした」
わたしの答えを聞いた途端、ノア先輩の顔がぱっと輝いた。
「ラコを知ってるんだ! ヨルは北方出身?」
「はい、トグリの出です。雪の深い地域だったから、冬場に母がよく作ってくれました」
懐かしい味に、わたしの頬は勝手に緩む。ラコは北方で広く飲まれているけれど、地域によって少しずつ味が違う。このラコは、わたしの故郷にかなり近い味だった。もしかして、ノア先輩は同郷なのだろうか。
「先輩は北方の出身なんですか?」
「出身じゃないけど、長い間暮らしてはいたよ。トグリよりちょっと西側の街だったかな。うちには俺以外にも北方で暮らしてた奴が結構いるから、ラコは食堂や宴会でよく出るんだ」
サーカスにはあちこちから人が集っていて、中には国外からやってきた者もいる。だからこの場所は様々な食文化が混ざりに混ざって混沌としているのだ、とノア先輩は楽しそうに語った。
「では、先輩のご出身はどちらなんですか?」
だからわたしは、深く考えずにその質問を口にした。今の話題に沿った質問をしただけだった。これから深く付き合うことになる人について知るための、単なる世間話のつもりだった。
「───」
「え?」
彼が口にした言葉を、わたしは知らなかった。単に聞いたことのない地名だったということではない。ノア先輩が発したのは、明らかにこの国の公用語とは違う言語の発音だった。彼は外国の生まれだということだろうか。わたしはそれなりに勉学が好きな方だけど、彼の話した言語を特定できるほどの知識は持ち合わせていない。どこの国か尋ねるその前に、ノア先輩がにっこり笑って口を開いた。
「この国ができる二つ前の国にあった街の名前」
「は、はあ」
最初は、からかわれているのだと思った。新しくやってきた、世間知らずそうな女の子をからかって遊ぶための軽い冗談なのだと。ノア先輩は感情の読みにくい笑顔で、わたしのことをじっと見つめている。なぜか品定めされているような気分になって、わたしはわずかに身じろいだ。先ほどとは違う、張り詰めた沈黙が堆積していく。つり上がったノア先輩の唇が、ゆっくりと開かれた。
「あのさ。ヨルは『星の子ども』って知ってる?」
「は、はい。何年も少年少女の姿のままで生きている、不老不死の人種ですよね……」
ノア先輩の赤い瞳が鮮烈に輝く。炎だ。轟々と吹き上がり何もかも燃やし尽くしてしまうような。炎だと、そう思った。内緒話をするみたいに、ノア先輩がぐっと顔を寄せてくる。きゅうと細められた双眸の奥で、危険な炎がいっそう激しく輝いた。
「俺は、星の子どもなんだ」
星の子どもとは、永久に少年少女のまま歳を取らない人々である。彼らは生まれてから十代後半頃まで成長すると、時間が止まったかのように成長することをやめてしまう。そのまま何十年何百年と、老いることも死ぬこともなく存在し続けるのだ。加えて不死でもあるから、切り刻まれても、焼かれても、氷漬けにされても、あっという間に肉体が修復される。
彼らの存在が初めて確認されたのが、今から約百年前。平均年齢はおよそ百五十歳で、数は二百人ほどだと推測されている。だから彼らの存在は魔法使いの比ではないくらい御伽話の世界であるし、出会う確率はほぼ皆無だと言って差し支えない。
だが、ノア先輩は、目の前の少年は、自分が『星の子ども』なのだと言う。
「そう、なんですか」
「びっくりした?」
「だいぶ・・・」
ノア先輩がにっこりと笑う。噴き上がるように輝いていた瞳の炎が、今は少し凪いでいた。熾火のようにちろちろと光るそれから目を反らし、わたしはそっと目を伏せる。ちょっとだけ、ノア先輩が怖くなった。
「冗談では、ないんですか?」
「本当の話だよ」
これ、証拠。そう言って、ノア先輩は紺色の手帳のようなものを差し出した。受け取って中を見ると、おおよそ彼のいったことと同じ文章が書かれており、右下には王室の印章が押印されている。この国では、王室印章を偽造することは絞首刑にあたる。ノア先輩はそんな無意味で大それたことをするような人間に見えない。つまり、これは間違いなく本物で、彼の話は冗談でも与太話でもなく真実だということだ。
「では先輩は今、お幾つなんですか?」
先輩の容姿自体は、丁度青年へ変わり始めた十七、八歳くらいに見える。けれど星の子どもである以上、外見年齢は全く当てにならない。喋り方や表情を見る限り、わたしとそんなに変わらないような気がしていたんだけど。恐る恐る尋ねると、ノア先輩は一つ二つと指折り数えていく。左手の中指を折ったところで、彼はなぜか照れたように口を開いた。
「八百七十歳」
「は……え?」
わたしは絶句した。今確認されている星の子どもの平均年齢はおよそ百五十歳。ノア先輩の言葉が真実だとすれば、彼は星の子どもの中でも飛び抜けて長命だということになる。そもそも、人間は八百余年も生きていけるものなのだろうか? いや、不死だから可能なんだろうけど……。衝撃と混乱で、わたしは完全に固まる。そんなわたしの様子をどう解釈したのか、ノア先輩は慌てて両手を振りながら、早口で喋り始めた。
「でも、ぴったり八百七十歳ってわけじゃないんだ。こんなに長く生きてると、自分が今何歳なのか完全には覚えていられないし。そもそも前と今じゃ年齢の数え方が違ったりするし。だから国の機関に調べてもらって、だいたい八百七十歳なんじゃない? って感じで」
「そうですか……」
そもそも「星の子ども」であると言うだけで衝撃なのに、そのうえ八百七十歳ときた。もはや驚くことすらできない、というより現実感がなさ過ぎて反応ができない。八百七十歳。わたしの約五十倍。その途方もない年月を思うと、目の前の少年が急に得体の知れない恐ろしい生き物になってしまったような気さえした。
「……俺のこと、やっぱり怖い?」
穏やかな声の中に、微かな怯えが混じっていた。はっとして、わたしは顔を上げる。上目遣いにこちらを見るノア先輩の顔は、まるきり同い年くらいの男の子そのものだった。少し諦めが滲む微笑に、わたしは頭を殴られたような気持ちになる。そうだ。ノア先輩が星の子どもだろうが、八百七十年生きていようが、先輩が今日わたしにしてくれた親切は何一つだってなくならない。少なくとも今朝から今まで、ノア先輩は朗らかで親切なただの少年だった。怖いわけがあるか。怖いはずがないんだ。こんなに優しい人なのに。
「怖くないです! ちっとも!」
思っていたよりも大きな声が出て、自分でびっくりした。目を丸くしたノア先輩が、ぽかんとわたしの顔を見つめている。羞恥に顔が熱くなった。視線をどこに置けばいいかわからなくなって、わたしはふらふらと俯く。けれど。
「ほんと?」
返ってきたノア先輩の声が本当に嬉しそうだったから、思わず顔を上げてしまった。赤い瞳が水面のように煌めいている。こういうところを見ると、やはりただの少年にしか見えない。
「はい。ちっとも、少しも、これっぽっちも」
「そっかぁ」
やけっぱちで力強く肯定すると、ノア先輩が目を細めて笑った。上体をゆらゆら揺らし、カップをくるくると弄ぶ。なんでそんなに嬉しそうなんだろう。
「まあ俺、そんなに長寿っぽくないもんな」
「長寿っぽさって何ですか?」
「何だろ。威厳とか? 大人っぽさとか? 俺にはないじゃん」
「……わたしより一、二歳年上なのかな、とは思いましたよ」
「そんなもんだよねー」
ちょっと情けない顔でノア先輩が笑った。
「星の子どもは、外見と一緒に精神の発達も止まっちゃう傾向にあるみたい。あと、俺くらい長く生きてると、脳が勝手に記憶の編集をしちゃって昔のことをいっぱい忘れちゃうんだ。本来人間の精神が耐えられない時間を過ごすために進化した結果だとかなんだとか言われてるらしいけど、俺にもよくわからないんだよね」
「へえ」
わたしが星の子どもについて知っていることは多くない。子どもの頃、人種についての本に書かれていたこと以外──世間的に広まっている情報以外は、何も知らない。ノア先輩の話は当然初耳だった。上手いことできているんだなあ、とわたしは感心した。でも、忘れてしまうのは少し寂しい気がする。楽しかったこととか、大事な人のこととか。覚えていたいことも勝手に脳が捨ててしまうとしたら……。ノア先輩の横顔を見つめる。この人がどんな八百七十年を生きてきたのかは、この人ですら完全には知らないのか。
わたしの視線に気がついて、ノア先輩が首を傾げた。咄嗟に言葉が出ないまま、しばらく二人で見つめ合う。先輩が一瞬目を反らして、「えへへ」と笑った。正直なところ、気まずい。元はといえばわたしが悪いのだけど。
「あ、そうだ」
空気を変えるように、ノア先輩がぱちんと手を叩いた。それからと唇に人指し指を当てて、先輩は声を潜めた。
「俺が星の子どもだってことは、あんまり口外しないでおいてくれる?」
面倒なことになるからさ、と彼は苦笑した。
「ああ……大丈夫です。先輩の同意なく口外することはしないとお約束します」
この国は、周辺諸国と比べてかなり治安がいい。先代の国王陛下は慈悲深い名君であったし、今代の国王陛下もその気質を受け継いでいると聞く。ここ七十年、この国は目立った争いもなく平和そのものだ。
けれど、いかに平和な世でも悪い人間は存在する。そのうちの一つが、人攫いだ。容姿の美しい者、優れた技芸を持つ者、特異な体質を持つ者。彼ら基準で「売れそう」な人間を、問答無用で連れ去り売りさばく。数こそ多くはないけれど、その狡猾さと逮捕率の低さから人々に恐れられている。彼らからすれば、八百七十年生きた「星の子ども」は恰好の獲物だろう。
人攫いのことを抜きにしたって、人は異質な存在を排除しようとしたがることがある。これからお世話になる人に、無用な負担を掛けるのはわたしの本意ではない。もちろん、としっかり頷いた。
「先輩が星の子どもだと知っている方は?」
「兄さん」
「他には?」
「いないよ。兄さんだけ」
「……え」
再びわたしは絶句した。想像していたよりも遙かに『外』の範囲が広い。今日出会ったばかりのわたしに話すくらいなのだ。ステライールの団員達には明かしているものだと思っていたのだけど、どうやら違うらしい。長い時間を共にした団員達と比べて、自分がノア先輩や団長からの信頼で勝っているとは思えない。彼の考えていることが、わたしにはさっぱりわからなかった。
「なぜ、そんな秘密をわたしに……?」
「ヨルは俺の後輩だからさ」
そう言って、ノア先輩が照れくさそうに微笑む。今のどこに照れるところが? そもそも答えになってないし。もしわたしが悪い人だったらどうするのだろう。言いたいことはたくさんあったけれど、彼の顔を見ていると反論する気も失せてしまった。他人の秘密を方々にばらまくような下品な趣味は持っていない。ノア先輩が納得して話したのなら、わたしがなにか言う必要はないのかもしれない。そう結論づけて、わたしは小さく息を吐いた。
「わかりました。団長以外にこの話はしません」
「うん。ありがと」
輝く目を細めて、ノア先輩はいたずらっぽく笑った。