第3話
「これから寮に案内するね」
団長とフルーリアさんとの話の後、ノア先輩はそう言ってわたしを連れ出した。今日は寮の自室だけだけれど、明日にでも敷地の中を詳しく案内する、となぜかひどく嬉しそうに話してくれた。
「あと、今のうちに渡したい物があるんだ」
そう言って、彼に五つの鍵が付いた鍵束を手渡される。わたしがそれをきちんとポケットにしまったのを確認し、彼はとても真剣な顔で口を開いた。
「それ、作ってるの俺なんだけどね。誰かがなくすと、全部の鍵と鍵穴を作り直さなくちゃいけないんだ。落とした鍵を外部の人が盗っちゃったら大変だから。でも、それってすごく……ものすごーく大変だから、絶対なくさないで」
「わ、わかりました」
重々しく、あまりにも実感にあふれた言葉だった。
ノア先輩に先導されて行き着いたのは、三棟で構成されたコートハウスだった。日に焼けた赤煉瓦の外壁が、ところどころ蔦で覆われている。薄墨色の屋根の上に風見があるのをを見つけて、ふと音楽学校の校舎を思い出した。あの校舎も赤煉瓦造りで、立派な風見鶏が取り付けられていたのだ。
「建物はちょっと古いけど、中は綺麗だから安心して」
わたしの視線をどう思ったのか、ノア先輩がそう言って苦笑した。その言葉に首を振ってから、わたしは再び風見鶏を見上げた。きちんと手入れをされているのだろう。午前の陽光を反射して、金属の鶏はきらきらと光っていた。
「いえ、学校の校舎を思い出しただけです」
「校舎?」
「はい。あそこも赤煉瓦造りで、大きな風見鶏がありました」
「そっか。たしかにここと同じだね」
風の向きが変わる。微かな金属音と共に、風見鶏はわたしの方を向いた。この場所で、これから長く暮らしていくのだ。上手くやっていけますように、と小さく目礼して、わたしはその場を後にした。
「寮には三つ玄関があって、ここが正面玄関。残りは東棟と西当に一つずつ。そこの鍵も、さっき渡した鍵束にあるからね。桜の刻印が正面玄関、薔薇が東棟、藤が西棟だよ」
ノア先輩が扉を指さして、わたしに鍵を差し込むよう促す。重厚な外観とは裏腹に、銀色の鍵は音もなく右に回った。ノア先輩が勢いよく扉を開くと、ほんのわずかに燃え切った蝋の匂いが流れてきた。
「東棟が男子寮、西棟が女子寮。中央は談話室とお風呂だよ。ヨルは女子寮だから、ここを右手側に曲がった先だね」
そう言って、ノア先輩は廊下を歩き出す。彼の後を追いながら、わたしはあちこち注意深く観察していた。窓ガラスには曇り一つなく、床板は丁寧に磨かれているようで鈍く光っている。なるほど、「中は綺麗だから」というノア先輩の言葉は本当のようだ。窓が多いせいだろうか、館内は穏やかながら明るい雰囲気が漂っている。ちらりと見えた中庭には、鮮やかな春の花達がめいめいに咲き誇っていた。時間の流れが緩やかな場所だ。細く静かに息を吐く。
ところが、歩き続けるうちに様子が変わってきた。建物の外観を鑑みると、間取りが明らかにおかしいのだ。
廊下がところどころ蛇のように曲がりくねっているうえ、階段があまりにも多い。その階段さえも長さや形がバラバラで、今自分が何階にいるのかすらもわからない。階段を上ったはずなのに、窓の外から見える地面は近くなっていたときなど、悲鳴が口からこぼれそうだった。
(どうなってるの)
混乱するわたしとは対照的に、先導するノア先輩の足取りには少しの迷いもない。今日は天気がいいだとか、動物たちの機嫌がよかっただとか、他愛もない話をしながらスイスイと進んでいってしまう。どうやら彼は、この迷路のような館の間取りを完璧に覚えているようだ。そう判断したわたしは、思い切って目の前の背中に問いかけてみた。
「ノア先輩、この建物はどうなってるんですか」
「うん?」
振り返ったノア先輩は一瞬不思議そうな顔をしてから、あちゃあ、といった具合に顔をしかめた。
「そっか、そうだよね。初めてじゃわかるわけないよね。ごめん、忘れてた」
困ったように頬を掻きながら、ノア先輩は口を開いた。
「この建物には、魔法がかかってるんだ」
「魔法? ここには魔法を使える方がいらっしゃるんですか」
魔法使い、という存在がいるのは知っている。でも、わたしは人生で一度も出会ったことがない。大陸に二桁いるかいないかくらいの数しかいない種族だから、ほぼお伽話の存在だ。
「ううん、うちにはいないよ。兄さんが王宮で働いてる魔法使いと知り合いで、お願いして特別にかけてもらってるんだって」
「団長、すごいですね。魔法使いと知り合いだなんて」
でしょう、とノア先輩が嬉しそうな声を上げた。ステライールの団長といえば、王都で知らない者などいないくらいの有名人だけれど、そんなところにまで人脈があるなんて思わなかった。
「うちは大勢の客様を相手に芸商売をしてるだろ? ほとんどが良い人だけど、やっぱり中には怖い人もいるからさ。演目者に付きまとったり、嫌がらせをしようとする奴がいるんだ。たいていは警備に引っかかるんだけど、たまに寮へ侵入しちゃう人もいるんだよね。そのために、寮の中を魔法でいじってるんだって。魔法の『きまり』を知らない人は、絶対に『あるのにない部屋』へたどり着くようになってるんだよ」
「あるのにない部屋?」
「平たく言っちゃえば、牢屋。魔法の『きまり』を知らないと、一度入ったら絶対開けられない」
「なるほど。では、その『きまり』というものを教えてください」
「それは、いいんだけど」
ノア先輩が困ったように眉を下げた。それまで明朗に話をしていた彼が、初めて言葉に困っている。なにか不都合があるのだろうか。どうしたのかと尋ねると、視線を斜めに下げて、ノア先輩はおもむろに口を開いた。
「九十七個、あるんだ」
「はい?」
「魔法の『きまり』。九十七個あるんだよね」
きゅうじゅうなな。わたしはぱちりと瞬きをして、オウム返しにつぶやく。ノア先輩は苦笑いをしながら、わたしにこんな話をしてくれた。
曰く、昔は『きまり』もせいぜい十個程度で、ここまで多くはなかったらしい。だが、不逞の輩に魔法を破られ、対策をし、また破られのいたちごっこを何回か繰り返すうちに、気づけば数が膨れ上がってしまったのだ。利便性を犠牲にしてでも、寮の安全を確保した結果が、九十七個の『きまり』だった。と、いうことらしい。
(どうしよう、明日にも牢屋行きになりそうだ)
なるほど、きまりの多さが必要に迫られてだということはわかった。でも、それと覚えられるかは話が別だ。九十七。九十七……。たぶん、覚えられなくはない。ただ今すぐには無理だ。慣れない場所で生活しながら、全部覚えきってこの寮を迷わず歩けるようになるまで、一体どれくらいかかるだろう。一週間か、二週間か……。途方に暮れて黙ってしまったわたしを見かねてか、ノア先輩がことさら明るい声を出した。
「覚えきるまで、俺が送り迎えするよ」
「いえ、そんなご迷惑をおかけするわけにはいきません」
わたしは即座に首を振った。先輩に手間を掛けさせるなんて居心地が悪すぎる。だが、ノア先輩はぽやぽやと笑うばかりだった。
「そんなの、全然迷惑なんかじゃないよ! そもそも俺はヨルの世話役なんだから、ヨルがここでの生活に慣れるまで手助けするのは当然だと思わない?」
「ですが」
食い下がろうとするわたしを遮って、ノア先輩は言葉を重ねる。
「それに、覚えきれないまま無理にここを移動しても、正しい場所には行けないよ。絶対迷子になっちゃう。その度に俺や他の団員に探しに来てもらってたら、その方が迷惑だと思わない?」
返す言葉がなくて、わたしは押し黙ってしまう。全くもってノア先輩の言う通りだ。……仕方がない、仕方がないのだ。新人に多少手がかかってしまうのは、きっとノア先輩だって織り込み済みだろう。自分にそう言い聞かせて、わたしは深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。よろしくお願いします」
「お願いされました! ……意地悪な言い方してごめんね。そんなにかしこまらないで」
ノア先輩がわたしの肩を軽く叩く。この人は先輩で、恐らく年上なのに、気さくすぎてちょっとびっくりしてしまう。上級生と先生の言うことには絶対服従な四年間を過ごしてきたせいか、未だにその感覚が抜けていないのだ。
「ゆっくり覚えればいよ」
優しく笑って、ノア先輩は再び歩き出す。その背を追いかけながら、わたしはできるだけ早く「きまり」を覚えてしまおうと決意した。年上の人に手間を掛けさせたくはないし、優しい人に迷惑をかけるのも、わたしは嫌なのだ。
そうしてわけのわからない廊下を歩き続け、長い螺旋階段を下りきった先。小ぶりなシャンデリアの真下でノアは立ち止まった。
「ここがヨルの部屋だよ」
そう言って、ノア先輩が古ぼけた扉を指さす。よく手入れされているようで、真鍮のノブが柔らかく光を反射していた。扉の上部には、真新しい銀色のプレートがかかっている。彫り込まれた名前は、ヨルドリヒカ・ジルテ。
「開けても?」
「もちろん。さっきの鍵束に、一つ小さい鍵があっただろ? 部屋の鍵はそれだよ」
ノア先輩の言葉に従い、他のものに比べ一回り小さい鍵をつまみ上げる。鍵穴に挿して右に回すと、小さな解錠音がして扉が僅かに開いた。微かな花の香りが鼻腔をかすめる。何の匂いだろう? ノブを回し、一気に扉を押し開けた。
「わあ……」
陽の光に満ちた、明るい部屋だ。正面の大きな窓が開け放たれて、甘やかな香りをはらんだ風が流れ込んできている。香りの主だろう、窓の向こうには見事な薄紫の花が咲き誇っている。陽光を受けて光る花びらが眩しくて、わたしは目を細めた。
「立派な花ですね。藤ですか?」
「大正解」
背後から、ひどく嬉しそうな声が答えた。窓の外に指を向けて、ノア先輩はちょっと得意げに笑った。
「ここの花は俺が世話してるんだ」
「ノア先輩が」
「うん。……綺麗かなあ?」
「はい、とっても」
わたしはすぐさま頷く。こんなに見事な藤を見るのは初めてだと伝えると、ノア先輩はくすぐったそうにはにかんだ。
「ありがと」
こんなことを思うのは失礼かもしれないけれど、可愛らしい笑顔だった。彼は青年の溌剌さに、少女の可憐さを足したような笑い方をする。女の子に好かれそうだ。
「俺、ちょっと外出て仕事片付けてくるね。入団式の前には迎えに来るから、その間荷ほどきとかしておいて」
「わかりました」
右手をひらりと振って、ノア先輩が扉の向こうに消える。そういえば、ノア先輩は舞台の設営を一手に任されているのだと言っていた。きっと多忙なのだろう。長々と付き合わせてしまって申し訳なかった。
「はやく自分の世話は自分でできるようにならないと」
ぎゅっと手を握りしめる。「よし」と小さく気合いを入れて、わたしは持ち込んだ鞄を開いた。