第2話
ノア先輩と出会ってすぐ後。わたしは彼に先導されて、ステライールの敷地内にある事務棟──応接室や書類用の倉庫があるとノア先輩は言っていた──を歩いていた。なんでも、団長室でテナー・アステラ団長がわたしを待っているのだという。
「兄さんは、新しく入団した人とは必ず初日にお話しすることにしてるんだって。でも契約とか、雇用条件の話は前に聞いたでしょ? だから今日は、ここで生活していく上でのちょっとした注意とか雑談が主になると思う」
「はい」
長い廊下に、二人分の足音だけが響いている。目的地である団長室は奥まったところにあるらしい。事務棟自体に来たことはあるけれど、わたしが入ったことのある部屋は契約書を書いた応接室だけだ。ここまで奥に来たことはない。見知らぬ空間というのはどことなく不安になるもので、背骨のあたりが変に力んで固まってしまう。
「また緊張してる?」
「……はい。少し」
ノア先輩が軽くこちらを振り返って言う。とっさに否定しようとしてから、諦めて首を縦に振った。くだらない見栄を張ったって意味はない。口で否定したところで、どうせ行動は取り繕えていないのだから。
「ま、最初は誰でも緊張するもんな。でも大丈夫。うちの団員はみんないい奴だからさ」
着いたよ、とノア先輩が足を止める。彼に促されるまま扉をノックすると、中から流麗な声で返事が返ってきた。重厚な木製の扉を開いた先には、鳶色の髪をした美しい男性が優雅に微笑んでいた。
「久しぶりだね、ジルテさん。待っていたよ」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑り、男性──『ステライール』団長、テナー・アステラが笑う。
「さ、立ち話もなんだから座ってくれ。今お茶を持ってくるよ」
「いえ、お構いなく……」
片手でソファを示すと、テナーは止める間もなく部屋の奥へ引っ込んでしまう。どうしよう、目上の人間にお茶を淹れてもらってもいいのだろうか。今の自分は招かれた側であるから、むしろ謹んで頂く方が礼儀に適っているのだろうか。呆然と立ち尽くしてしたまま動けないでいたわたしを、ノア先輩が苦笑しながらソファに座らせた。
「兄さんは、この部屋に入った人には自分でお茶を淹れてあげないと気が済まない人だから。お客さんはもちろん、掃除に来たお手伝いさんにまで毎回振る舞ってるんだよ。おもてなしが大好きなんだ。鼻歌を歌っちゃうくらいね」
「はあ」
耳を澄ますと、ノア先輩の言うとおり鼻歌が聞こえてきた。旋律だけの輪舞曲は、今にも踊り出しそうなほど陽気に跳ね回っている。お茶を淹れるだけでここまで喜べるものか、と少しばかり戦慄を覚えた。サーカス団の団長としてはこの上なく素晴らしい性質だと思うけれど、少々行き過ぎではないだろうか。奥から漏れ聞こえる鼻歌がサビを終えたあたりで、団長は上機嫌で戻ってきた。ティーカップをテーブルに置き、彼は上品な仕草でお茶を勧める。
「どうぞ」
「いただきます」
「いただきまーす!」
白い陶器の中で、透き通った桃色のお茶がわずかに波打った。一口飲むと、優しい甘酸っぱさとほどよい苦みが口の中に広がる。果実茶に少し似ているけれど、今まで飲んだことのない味だ。
「おいしいです」
「そうかい、よかった」
素直に感想を伝えると、団長はひどく嬉しそうに笑った。彼は今年で二十八歳になる立派な紳士だけれど、笑った顔は少年のように無垢な幼さを滲ませる。その笑顔にどこか既視感を感じ、すぐに思い当たった。ノア先輩だ。二人とも、幼児のように明るく無邪気な笑い方をする。さすが兄弟だな、と妙な感心を覚えた。
「さてと。お茶も淹れたことだし、さっそく必要な話をしようか」
そう切り出して、団長はテーブル横のチェストから幾つかの書類を取り出した。簡単な契約内容の再確認に始まり、居住環境や団内規則の説明と、和やかな雰囲気で話は進んでいく。白いカップの中身が半分ほど減ったところで、彼がふと首をかしげた。
「そうだ。ノアのことは聞いたかい?」
「はい。わたしの世話係をしてくださる、と」
「その通りだ。普段の生活に関することは何でもノアに訊くといい。この子が知らないことはないと言っても過言ではないから」
団長がノア先輩の頭を軽く叩く。先輩は一瞬嬉しそうに瞳を輝かせたが、すぐに顔をしかめて団長の手を振り払った。
「兄さん、子ども扱いしないで」
「ああ、すまない。つい癖で」
「く、癖とかヨルの前で言わないでよ! 俺がいつも兄さんに頭をなでてもらってるみたいじゃないか!」
「なでているだろう?」
「兄さん!」
小鳥のように騒ぐノア先輩をいなして、団長が鷹揚に笑う。なんとまあ、ずいぶん賑やかな兄弟喧嘩だ。微笑ましくて、思わず頬が緩んでしまう。
「仲がよろしいんですね」
口では文句を言いつつも、ノア先輩は兄になでられた嬉しさを隠せていなかった。団長も、弟への深い愛が柔らかな瞳からにじみ出ている。兄弟仲がよいのはいいことだ。素直に賞賛したつもりだったのだけど、ノア先輩は顔を赤くし眉をしかめてしまう。自分の抗議にも優雅に微笑むばかりの兄にチラリと目をやり、彼は諦めたようにため息をついて口を開いた。
「ここ結構広いし、しばらくは苦労するかもだけど、困ったら頼ってね。俺でも、俺じゃなくても。みんな喜んで助けてくれるよ」
「わかりました。お言葉に甘えさせていただきます」
「ん。そうして」
ソファの背に体重を預け、ノア先輩がそっぽを向く。彼の唇が「兄さんのばか」と動いたのを見つけて、思わず笑ってしまった。可愛い人だ。団長がいじめたくなるのもわかる気がする。
「ヨル、何笑ってるの?」
「なんでもありませんよ」
ノア先輩の平坦な声に、わたしは慌てて顔を引き締めた。
「ふぅん……」
じっとりした目をしたノア先輩が一口お茶を飲む。存外に美しい仕草でカップをソーサーに戻しながら、そういえば、と彼は首をかしげた。
「ね、フルーリアは来ないの?」
ノア先輩の言葉に、団長がふむ、と頷く。
「そうだね、そろそろ呼んだ方がいいだろう。……フルーリア! フルーリア! お待ちかねの彼女が来ているぞ!」
団長が大声で誰かを呼び始める。伝声管でもあるのだろうか。だとしても、普通は受話器に近づいて話すはずだけど。不思議に思って周りを伺っていると、背後の大窓が突然開いた。
「こんにちはぁ」
美しい声がした。恐らく男性だが、どこか女性的な丸みを帯びた響きを持っている。上等な絹糸で織った布のようになめらかな音。これほど心地のよい綺麗な声を、わたしは今まで聞いたことがない。
「こ、こんにちは……」
窓枠に腰掛けた青年が悠然と微笑む。淡い金色の髪をそっと払って、彼はわたしに右手を差し出した。
「ボクはフルーリア・メイジ。ここで歌手として雇われてるよぉ。よろしくね、ヨルドリヒカ」
「あ……ヨルドリヒカ・ジルテです……」
ぼうっと呆けたまま、なんとかそれだけを返した。窓から人が現れたのも驚いたけれど、それ以上に彼の声が衝撃的だったのだ。呆然としたままのわたしに首を傾げて、青年は窓枠からひょいっと飛び降りた。
「よろしくねぇ」
再びそう言って、わたしの右手をぎゅっと握る。その感触に我に帰って、わたしは大慌てで勢いよく立ち上がった。
「失礼致しました! お初にお目にかかります! ヨルドリヒカ・ジルテと申します! 本日からこちらで歌手として勤めることになりました! よろしくお願いします!」
「名前はさっき教えてくれたよぉ」
青年──フルーリアさんがくすりと笑う。美しいけれど、年齢も性別も判断しづらい笑顔だ。彼の両手がふっと離れて、小柄な体がわたしとノア先輩の間にすとんと座った。
「フルーリア、窓からじゃなくて扉から入ってきてっていつも言ってるだろ」
「ごめん、ごめん。外から見るとぉ、どっちがどっちかわからなくてねぇ」
「そんなことないと思うけど」
首を傾げるノア先輩の頭を、フルーリアさんがくしゃくしゃとなでる。先ほど団長になでられた時は抵抗していた先輩だけど、今は黙ってされるがままになっている。許容していると言うよりは、諦めているといった態度だった。
「フルーリア。我々の前では構わないが、彼女はここに来たばかりだ。いきなり窓から人が現れたら驚くだろう」
「そうかなぁ。そうかもぉ。ごめんねぇ」
「わかってくれたならいいさ」
ノア先輩が小さく「絶対わかってない」とつぶやいたけれど、団長は笑顔のまま軽く肩をすくめて見せただけだった。まさか、フルーリアさんが窓から出入りするのは日常茶飯事なのだろうか。
彼も同じ歌手である以上、これから深く関わっていくことは避けられないだろう。いくら美しい声を持っているからといって、あんまりにも行動が突飛な人とやっていく自信はわたしにはない。静かに焦り始めたわたしに、団長は優美に笑いかけた。
「フルーリアは、便宜上ジルテさんの上司にあたる。こう見えて頼りになるから安心するといいよ」
「こう見えて、ってなんなのさぁ」
頭の中を見られていたかのような言葉にわたしは驚いた。でも、言われたフルーリアさんは当然ながら不満げに顔をしかめている。彼はフンと鼻を鳴らして、新緑色の目を冷ややかに細めた。
「すまない、訂正しよう。フルーリア、君はいつだって頼りになる男だ」
「口だけなら何とでも言えますよー、だぁ」
とげとげしい声と共にフルーリアさんは団長に舌を出した。それからうってかわって、ひどく優しい声と表情をわたしに向けてくる。
「生活のことはぁ、ノアに訊いた方がいいけどねぇ。興業とかぁ、演目のことはぁ、ボクに訊いてねぇ」
「俺は舞台周りが担当だから。演目のことに関してはフルーリアに訊いた方が確実」
餅は餅屋に、ということらしい。わたしとしてはあまり手間をかけさせたくないけれど、初めての場所で完璧に動けるわけもない。素直に頷いて、深く頭を下げた。
「はやく一人前になれるよう、精進します」
わたしのつむじ越しに、二人の先輩は同時に笑った。
「ゆっくりでいいよぉ」
「そうそう。俺、できるだけ長く先輩面したいからさ」
ノア先輩が肩をぽんと叩いて、頭を上げるように促してくる。あまり出会ったことのない種類の先輩と上司にちょっと動揺しつつ、わたしは一つ頷いた。親切にしてくれる人には、ちゃんと相応のものを返せる人間でいたい。
「ステライールへようこそ。歓迎するよ、ジルテさん。君のこれからの活躍に期待している」
とびきり優雅に微笑んで、団長が片手を差し出す。鳶色の双眸を真正面から見つめ返して、わたしは彼の手を握った。
「はい。精一杯務めます」
陽光を引きこんで、団長の瞳がきらりと光った。