第9話
「でね、そのお話がすっごく素敵だったんだ」
簡素な木の椅子に腰掛けて、ノア先輩は歌うようにそう言った。
「故郷なんて覚えてない俺でも思わず懐かしくなっちゃうような、いいお話だったんだよ。ねえ、ヨルは知らない?」
「残念ながら、知りませんね」
鏡台の前で化粧の最終確認をしながら、わたしはおざなりにそう答えた。
「『思わず懐かしくなるような話』という情報だけで該当の本を特定できたとしたら、わたしは超能力者です」
「そうだけどさあ」
うん、大丈夫、舞台で歌うのに不足はない。最後に胸元のリボンをぎゅっと結んで、わたしはノア先輩の方を振り返った。
「そもそも、ノア先輩はなぜここに居るのですか?」
緑の煌めく、夏の始まり。満点の星空が彩る夜。今夜は、わたしのステライールにおける初舞台だ。喉の調子は良好、頭も冴えているし、衣装だって最高のものを用意してもらった。後は楽屋で最終確認をするだけ。ほんの僅かに汗ばんだ手で開いた扉の先には、赤髪の少年の笑顔があった。
「俺はヨルの世話役だもん。初舞台を控えているっていうのに、手助けしに来ない理由はないじゃん?」
「その割に、先ほどからお喋りばかりですが」
「いつも通りに誰かと話してた方が、緊張しなくて済むことってない?」
「……緊張のコントロールくらいできますよ。舞台に上がることを生業とする者の、最低限の務めです」
半分嘘で、半分本当だった。
流石に、緊張で声が出ないだなんて無様な真似はしない。今すぐ舞台に立たされても、十分な歌を聴かせる自信がある。ただ、ほんの少し。ほんの少しだけ、コントロールからはみ出した緊張が存在していた。そしてそれがノア先輩とのお話で薄れてきているのは、認めざるを得ない事実だった。
「じゃあ、黙った方がいい?」
「そうは言っていません。ノア先輩とお話しするのは楽しいですから」
わざと本心を告げてみると、ノア先輩はきょとんとした顔をする。「そっかぁ」と弱々しく呟いて、彼はそっぽを向いてしまった。昨日たくさんお話してわかったことだけれど、先輩は素直な賞賛や好意に弱い。
さて、せっかく手助けしてくださると仰るのだから、お言葉に甘えてしまおう。明後日の方向を向いたままの先輩をせっついて、こちらをむいてもらう。
「どうですか、ノア先輩。不備はないですか?」
「ん、ちょっと待って」
背中側を確認してもらったところで、先輩が椅子から立ち上がった。
「髪の……紐?青いやつが歪んでる。左右対称になってないよ」
「あれ、本当ですか?」
「直すからちょっと座って」
言われた通り椅子に腰掛けると、ノア先輩がそっとわたしの髪に触れた。おっかなびっくり、といった風の手つきに、思わず噴き出しそうになるのを必死に堪えた。しゅるりと紐同士のこすれる音と共に、髪の毛が軽く引っ張られる。ややあって、先輩は満足げに「うん」と呟いた。
「いいよ」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。その衣装似合ってるね。すっごく綺麗だよ」
「……どうも」
さっきからかった仕返しだろうか。いや、ノア先輩は直後に本番を控えた人間を(たとえわたしがそんなことでは全く動揺しないと知っていても)、からかって遊ぶなんてことはできない。毒気の全くない笑みから察するに、完全に素で言っているのだろう。少し気恥ずかしいけれど、嬉しかった。
不意に、硬質なノックの音が部屋に響いた。わたしが動くよりも先に、ノア先輩が扉に手をかける。扉を開いた先には、凜々しい風貌の女性が直立不動で立っていた。
「失礼します! 開演十五分前っすよ。そろそろ舞台袖に来てほしいっす!」
にかっと明るい笑み。セトアさんが、わたしのことを迎えに来てくれていた。もうそんな時間になっていたなんて。すっかりノア先輩とのお喋りに気を取られてしまった。本番直前なのに、気が緩んでいたみたいだ。とはいえ、もう準備は終わっている。気持ちも落ち着いているし、喉の調子も最高に近い。このまま舞台袖に向かっても大丈夫だ。了承の返事を返して、わたしは椅子から立ち上がった。
「わざわざすみません。伝声管でもよろしかったのに……」
「いえ、あたしが来たかっただけなので」
「朝から『あたしがヨルさんのこと迎えにいくんですから!』って言い張ってたもんな」
当たり前のようについてきたノア先輩が、妹を見る兄のような目でセトアさんを見ている。
「そうなんですか?」
「えへへ、そうなんすよ。一昨日の、ちょっとした恩返し、的な。ちょっとの間でも、誰かとお喋りしたら緊張が解れることってあるじゃないすか。だから……」
思わず苦笑してしまった。この師弟、同じことを言い出したぞ。親しい相手とは思考回路が似てくると聞くし、会話の節々からも察するに彼らは相当仲がいいのだろう。
しかし、なるほど。彼女が本来の仕事でもないのにわたしを迎えに来てくれたのは、これが理由か。大したことはしていないのに、律儀な人だ。ノア先輩然り、セトアさん然り、このサーカスには真面目で親切な人が多い。
「お気遣いありがとうございます。嬉しいです」
「ねえ、俺の時と対応が違う」
「うふふ」
「笑って誤魔化すなよぉ」
「ほらほら、喧嘩しないで。もう着くっすよ」
通路の突き当たりの通路を開くと、そこは静かな慌ただしさに包まれていた。衣装の衣擦れと、微かな人の声と、機械の操作音が雑多に混ざり合っている。セトアさんが「じゃあ」といいながら振り返って、タコだらけの手がわたしの両手を包み込んだ。
「あたしは照明の方に行ってくるっす。ヨルさん、頑張って」
「ありがとうございます。セトアさんも頑張ってください」
「ありがとっす。師匠はちゃんとヨルさんのお手伝いしてくださいね」
「うん、任せて」
セトアさんが、裏導線の奥に消えていく。準備中の他の演目者に会釈だけ向けて、わたしは控え位置に立った。わたしの役目は開演歌だ。サーカスの始まりを告げる歌。目を伏せて深呼吸をするわたしに、ノア先輩が耳元でささやいた。
「客電が落ちた後の移動だから。わかってるとは思うけど、足下に気をつけて」
「はい」
舞台袖に立っただけで、観客のむせ返るような熱気が伝わってきた。体の内側から、熱が湧き上がっている。反対に、脳は鋭く冷え切っていた。久々の感覚に、思わずため息をつく。楽しい。楽しい。でも、舞台に立ったら、たぶんもっと楽しい。早く立ちたい。早く歌いたい。暴れる衝動を、冴えた頭で上手く操作していく。
カーン、カーンと開幕の鐘が鳴った。客席の照明が落ち、客席の期待は最高潮に膨らむ。ノア先輩が気圧されたように小さく息を零して、でも、真っ直ぐにわたしの目を見た。笑っていた。
「楽しんで」
は、と唇から空気が零れ落ちる。
「はい。いってきます」
一歩踏み出す。舞台脇の階段を上って、中央に進み出る。立ち止まり、顔を上げた。スポットライトがわたしを照らす。会場は水を打ったように静まり返り、全ての視線がわたしへと向けられた。熱を孕んだ静寂。オーケストラの音が、滑るように空気を震わせた。唇に微笑みを乗せて、息を吸う。この瞬間、わたしの舌も、喉も、肺も、歌を歌うための道具でしかない。
そうして、わたしは歌う。楽しい楽しい、サーカスの始まりを告げる歌。観客の視線が四方八方から降り注いで、わたしの身体に突き刺さる。それでいい。見ていろ。聴いていろ。それだけがわたしの求めるもので、それだけがわたしの生きる意味なのだから。舞台に立って歌う以外、本当はわたし、なにもいらない。舞台で生きていくとは、そういうことだ。
幸せだ。今、わたしは世界で一番幸せだ。
なんのてらいもなく、笑みが零れた瞬間に。わたしは『ステライールの歌手』になったのだと、心の底から、そう思った。




