第1話
坂を登り切ると、朝はすぐそこまでやってきていた。東の空は鮮やかな橙色に染まり、朝日に照らされた花たちは淡く輝いている。わたしは足を止めて、胸いっぱいに朝の空気を吸い込んだ。春特有の柔らかい風が、汗ばんだ肌をかすめて気持ちがいい。夜明け前から歩き続けた体はずいぶんと疲弊していたけれど、いくぶんか楽になったような気がした。微かな花の香りに、気持ちの方も軽くなる。目指す場所まで、もうさほど遠くはない。もう少し、もう少しだとわたしは自分を励ました。人の気配はなく、辺りは静まりかえっている。まだ夜の気配が溶け残る街を、わたしは一人で歩いていた。
わたしがそのサーカス団を訪れるのは、これが三度目だった。
最初は、一月前の入団試験。合格確実と言われていたにもかかわらず、国立音楽学校声楽科の王宮楽団推薦試験を不合格になったわたしは、就職活動に勤しんでいた。
わたしは、入学した頃からから王宮楽団に行くと決めていた。推薦に必要な成績も実績もあった。教師には「ヨルドリヒカ・ジルテの合格は確実だ」と言われてさえいた。それ以外の選択肢はわたしの中になかった。でも、最後の最後でだめだった。推薦枠を勝ち取るための最終試験に、わたしは受からなかったのだ。
それまでにどれだけ練習と実績を重ねていても、本番は一回だけ。どんな事情があろうとも、何が起きようとも、舞台上では関係ない。その時の結果が全てだ。だから、悔しいけれど仕方がない。わたしは、不合格についてそう割り切っていた。
問題は就職だった。自分の取り柄は歌だけだと、わたしはきちんとわかっている。この四年間、歌ばかり勉強してきた。王宮楽団に行けない以上、どこか他のところに雇ってもらわなくちゃならない。推薦試験に落ちてから一ヶ月、わたしは幾つかの楽団の入団試験を受けた。そのうちの一つがこのサーカス──『ステライール』だった。
ステライールは、新進気鋭の人気サーカスだ。発足して五年足らずにも関わらず、この国に、サーカス団『ステライール』の名前を知らない者はいないほどの知名度を誇る。少数精鋭制らしく、その人気ぶりを鑑みると驚くほど団員が少ない。裏方はともかく、演目者の募集は片手で数えられるくらいしか行っていない。でも運のいいことに、ステライールはこの年新しい歌手を募集していた。
とはいえ、入団試験は決して易しくなどない。難しいだろう、と半分諦めたような気持ちで試験を受けに来たのが、ここに来た一度目。
運のいいことに合格し、契約と入寮のサインをしに来たのが二度目。
そして、正式に団員として働き始める今日で、三度目。
「着いちゃった……」
大きな門の前で、わたしの足はぴたりと止まってしまった。これからは、日々の大半をここで過ごすことになる。わたしは上手くやっていけるのだろうか。自分があまり社交的でないことは、自分が一番知っている。手のひらがじっとりと嫌な汗で湿っていく。いつだって、初めての世界はひどく不安になるのだ。鞄の持ち手を握りしめて、わたしはぐっと息を詰めた。そのときだった。
「ねえ! きみ、ヨルドリヒカ・ジルテさん?」
頭上から、突然声が降ってきた。五月の太陽みたいな声だった。わたしは面食らって、周囲をぐるりと見回す。でも、誰の姿も見えない。
「ここだよ、ここ!」
声のする方へ振り向くと、大きな樫の木の枝に、一人の少年が座っていた。人懐こそうな笑みを浮かべて、右手をひらひらと振っている。歳は十八、九歳くらいだろうか。髪と瞳が、鮮やかに赤く光っている。彼は体重がないかのような身のこなしで木から飛び降りると、わたし向かって駆け寄ってきた。
「ね、そうだよね? きみ、ヨルドリヒカさんでしょ?」
「そうです、けど」
その勢いに押され、思わず頷いてしまう。途端に、少年はルビーのような赤い瞳をきらきらと輝かせた。なんだか、目をそらしにくい瞳だった。
「ヨルドリヒカさんの事は兄さんから聞いてるよ。ずっと待ってたんだ! 会えて嬉しいや」
今にも抱きついてきそうな勢いで、少年は嬉しそうに喋りはじめる。
「遠かったでしょ? 疲れてない? 荷物持つよ。すぐ寮に案内するけど、先に……」
「ちょっと、ちょっと待ってください」
なんとか彼の言葉を遮って、わたしは一歩後ろに下がった。
「あの、あなたは誰ですか。どうしてわたしの名前を知っているんですか。待っていたって……」
「わ、ごめんね」
引き気味にそう尋ねると、少年はハッとして動きを止めた。首に掛けた紐をたぐり寄せ、親指大のプレートをヨルに示す。銀色の金属板に、六芒星のシンボルが掘られている。ステライールの団員証だ、と即座に気がついた。同じ物を、入団契約の時に見せてもらった記憶がある。
「俺の名前はノア・アステラ。ここの団長の弟で、舞台の設営を任されてるんだ。ヨルドリヒカさんの名前は、兄さんに教えてもらったんだ。俺、きみの世話係を任されてるから」
彼がメダルを裏返すと、たしかに『ノア・アステラ』の文字が彫られている。
「な、なるほど」
ひとまず少年の正体がわかったことで、わたしは僅かに安堵した。いきなり詰め寄られた時は流石にちょっと怖かった。たぶん、その怯えが伝わっていたのだろう。少年は申し訳なさそうに身を縮め、俯いてしまった。
「俺、ヨルドリヒカさんと会うのをすごく楽しみにしてたんだ。・・・・・・でも、いきなり知らないやつになれなれしく話しかけられたらびっくりするよね。ごめんなさい」
「いえ」
本当に申し訳なさそうな声に、わたしは面食らった。同時に、ほんの少し肩の力が抜ける。いい人、なのだろう。たぶん。会うのが楽しみだったと、わざわざ外で待っていてくれるような人だ。怖がったりして、申し訳ないことをしてしまったかもしれない。さっきよりもいくぶん上手く笑いかけて、わたしは口を開いた。
「ヨルドリヒカ・ジルテです。今日からよろしくお願いします」
瞬き二つ分迷ってから、右手を差しだしてみた。それを見た少年の顔がぱっと華やぐ。わたしの手を優しく握って、彼は嬉しそうに笑った。
「よろしくね、ヨルドリヒカさん」
無邪気な表情とは裏腹に、大人のような落ち着いた声音だった。柔らかい風が、わたしと彼の間を通り抜けていく。なぜだかざわつく喉の奥を一生懸命になだめて、わたしは口を開いた。
「わたしのことは『ヨル』でいいですよ。本名、長いでしょう。それに、わたしの名前に敬称は必要ありません」
外見から判断すると、おそらく少年とわたしの年齢はそう離れていないだろう。でも、団の先輩かつ団長の弟である彼に「さん」付けで呼ばれるのは居心地が悪い。ああ、学校の影響が激しいなあ。わたしのいた音楽学校は、上下関係に厳格だった。四年間を過ごしたその場所は、すっかりわたしの一部になっている。わたしは後輩ですから、と微笑んでみせれば、少年は屈託なく頷いた。
「わかった。じゃあ、俺のこともノアって呼んで! アステラだと、兄さんもいるから」
たしかに。ぱちんと瞬きをして、わたしは少し逡巡する。そうですね、と頷いて、わたしは口を開いた
「わかりました、ノア先輩」
「せ、先輩……?」
彼の声がひっくり返った。頬を掻きながら、先輩かあ、と呟く。その姿に肝が冷えた。なにか気に触るようなことを言ったのだろうか。頬に変な力が入ってしまう。
「すみません、嫌でしたか」
「ううん、違う違う」
わたしの顔を見た途端、彼は慌てて首を振った。
「先輩なんて呼ばれたことがないから、ちょっとむず痒かっただけ。みんな俺のこと子ども扱いするから」
そう言って、彼は照れと不満の混じった複雑な表情をする。先ほどから、笑ったり落ち込んだりとよく表情の変わる少年だ。顔立ち自体は少し鋭利なつくりをしているのに、まとう雰囲気はひどく親しみやすい。表情の作り方がやや幼いからだろうか。白い頬を丸く膨らませて、彼は「子ども扱い」への不満をつぶやく。
「猛獣使いのレダなんて、俺のこと『坊や』って呼ぶんだよ。兄さんと大して変わらないくせに」
「ふふ、それはひどいですね」
「だろ!?」
その口調がまるきり拗ねた子どもそのもので、思わず頬が緩んでしまう。彼も柔らかく笑い返す。ふわりと目を細めて、ノア先輩は小さく首を傾げた。
「緊張、とけた?」
「え?」
わたしは驚いて目を見張った。そんなわたしの様子などお構いなしに、ノア先輩は顔をのぞき込んでくる。一呼吸分じっと見つめてから、彼は満足げに頷いた。
「うん。なんかちょっと顔色よくなった、気がする! じゃあ兄さんのところに案内するよ」
着いてきて、とノア先輩が歩き出す。その背を慌てて追いかけながら、わたしは彼の発言の真意を考えていた。たしかに緊張はしていたけれど、そんなにもわかりやすかっただろうか。それとも、この少年が殊更鋭いのだろうか。人の機微に敏感というよりは、明るくて親切だけど、ちょっと脳天気なタイプに見えたんだけどな。わたしは内心首を傾げた。
とはいえ、わたしとノア先輩はまだ出会ったばかりだ。たったあれだけのやりとりで、彼の人となりが全てわかるはずもない。ノア先輩は自分の世話役だと言っていたから、これから知る機会はたくさんあるだろう。ノア先輩の背をじっと見つめていると、突然彼がくるりと振り返った。
「あ、そうだ。一つ言い忘れてた事があった」
「なんですか?」
わたしが訊ねると、ノア先輩は弾けるように笑った。
「おはよう、ヨル!」
春の空はどこまでも青く、陽の光はまろく優しい。向けられた彼の瞳がひどく眩しくて、わたしはそっと目を伏せた。
「おはようございます、ノア先輩」