第三話
「…話を、戻そう」
呟くようなガイキの声に、ベーディは難しい顔をする。
何を話していたか忘れてしまったのだろう。
その表情に、堪らずガイキは破顔してしまった。
まったく、本当にそういう顔が彼女と瓜二つだ。
「妖の…特に吸血貴の特徴について、だ」
ああ、と呻くようにベーディは声を漏らし、恥ずかしそうに顔を伏せた。
ガイキの顔が、ベーディの不出来さを笑ったものだと思ったのだ。
ガイキはそんなベーディの頭を叩くように一度撫で、顔を上げさせると、
「一番気を付けるべきは、あの妖力だ。
お前もそうだが、軍の皆が彼女を目の前にして心惹かれていたのは分かっただろう?」
「あ…う、うん…」
シャロノの美麗さを思い出したのか歯切れの悪いベーディに、やはりガイキは呆れるでもなく話を続ける。
「あれは〝妖力衣〟と呼ばれる、妖全員に見られる特徴だ。
自分が保有している妖力の一定量を常に体に纏っている。
妖力と妖術というのは〝自分または他のものに心身的な影響を与える術〟だ。
その妖力を纏うことで、妖は常に自分を本来の姿よりも〝魅力的〟に見せている。
あれは呼吸のようなもので、意識的に止めることもより魅力的にすることも可能だが、長くは続かない。
シャロノのあの妖力衣で魅了されるヤツが多いだろうが、彼女に止めてくれといって止められるようなものではないんだ」
なるほど、と、ベーディは何度か頷いた。
彼女を見て、自分でも異常に思える程に心惹かれていたのはそういう要因があったのかと、なんだかホッとする。
「じゃあ…シャロノが綺麗なのはその術の所為なのか?」
彼女は美しかった。
一挙手一投足が何かの誘惑のように、目が話せなくなってしまう程。
瞬きや、髪の揺れでさえ、まるでシャロノが最も魅力的映す為の飾りのようだった。
「いや、吸血貴は故意的に目麗しいものだけが繁栄していた種族だ。
妖力というのは自分と同程度、または格上の相手にはまったく効かない力だから、同族内では本来の容貌の美しさだけで判断される。
人から見れば、吸血貴の中に〝美しくない〟ような外貌は居ない」
故意的にメウルワシイ?とベーディは首を傾げる。
吸血貴が所謂〝メンクイ〟だと理解はしたが、それだけが繁栄するというものがベーディには意味合いが分からなかった。
そんな彼に、ガイキはそうだったかと気付き、
「妖と魔の中に、〝恋愛感情〟というものを抱く種族はほとんど居ない。
吸血貴も、恋愛感情を抱かない種族だ」
「恋愛感情を…?
誰も好きにならないのか?」
「そういう種族だ。
吸血貴の場合、婚姻には自分よりも地位が上か、美貌を持つ相手を選ぶ。
そういう理由以外に相手を選ぶ〝要因〟がないんだ。
人が持つ想慕とは〝簡単に誰かを好きにも嫌いにもなれる性質〟だ。
だから彼らの婚姻事情に理解し難い所もあるだろうが、妖と魔は誰に対しても特に好意も嫌悪も抱かない。
その代わり、一度誰かに好悪の感情を向ければ一生それが覆ることもない」
なんだか、不器用だなとベーディは眉を寄せた。
例えば、誰かとケンカをしてもその相手を嫌いにならないのだろうか。
仲直りしても好きに戻ることもないのだろうか。
ベーディは自分に関わる相手の事を〝なんとなく〟を含めて好きか嫌いかに感じている。
目の前に居る皆に対して一様に〝何の感情もない〟とは、どんな気持ちなのだろうか。
「好悪は抱かずとも、信用や信頼という感情は向けてくる」
ガイキのよく通る声に、ベーディはいつの間にか俯いて考え込んでいた頭を慌てて持ち上げた。
「だから、ベーディ。
シャロノに対しては〝誠実〟にしていろ。
妖は〝機嫌を損ねる〟ということは滅多にしないし、した所でこちらを嫌悪する可能性はない…、…こちらが彼女の喉を切り裂いて、嫌うか否かといった所だ。
冗談ではなく、本当に」
ベーディは思わず自分の首を撫でる。
そうか、彼女はそんな事では死なないのか。と、思わず苦い顔になった。
自分に置き換え想像し、痛そうだと考えてしまう。
「彼女が居れば、長年燻っているこの戦争を終わらせられるかも知れない。
これ以上の消耗戦になれば、どうしてもこちらが不利になる。
だが、吸血貴と手を組むには、彼女の妖力衣が厄介だ。
こちらの判断能力が鈍るからな。
だから、ベーディ、お前に〝課題〟だ」
「!」
ベーディは背筋を伸ばした。
今まで彼から課題を受けた事は何度もある。
ある時は武器の正しい整備を学んでこいと言われ、ある時は数百メートル先の的に狂いなく銃弾を撃ち込めとも言われた。
応急措置を学んだ事もある。
状況判断力を鍛える課題を受けた事も、近距離戦術も。
ガイキはいつも、ベーディが生き残る為の教育を与えてくれた。
「お前は使ったことがないだろうが…人力を使ってシャロノの妖力衣の効果を断ち切れ」
その手の課題は、初めてだった。
少しの間困惑したベーディだが、イスから落ちそうな程に前のめりになる。
「えっ、人力で…っ?
てか…っ、ムリだよっ!
俺は人力なんて使えないっ、」
「人力がない人は居ない。
それに、お前はそれなりの人力がある」
ベーディはぐっと口を噤み、前のめりだった背を丸めて、
「それは…っ、俺にも、王の血が…あるから…?」
「…さぁな。
人力の保有量は個体差がある」
「ムリだよ…」
ベーディは、俯いていた。
この部屋は、荒野に吹く風の音が遠い。
耳鳴りのようだ。
脳を痛める囀りだ。
「俺は…まだ、〝記憶〟すらない……」
「…別に焦るようなことじゃない。
今はお前が自分で出来ることだけすればいいし、お前はよくやってる」
ガイキは完璧な男性だ。
厳格で、正しく、皆をよく見ていて、なにより優しい。
ガイキは今まで一度だって、ベーディが傷付くような言動を取った事はない。
完璧だ。
血が繋がっているとは思えない程、自分と違って優秀だ。
ガイキが、静かに立ち上がった。
俯くままイスに爪を立てて拳を握るベーディの頭を、叩くように一度撫でて、
「今日はここまでだ。
もう夜も遅い。
また明日の早朝に来い。
人力をどうにかしよう。
妖力衣を断ち切るだけなら、比較的どうにかなる」
はい、と、そう言いたかった。
言うべきなのだ。
ガイキは忙しい。
ベーディの為に今この時間を裂き、明日の朝も訓練をしてくれる。
ガイキはいつも、ベーディが生き残る為の教育を与えてくれた。
ガイキは、いつも、そうなのだ。
そんな彼に比べて、未だ幼い自分が情けない。
幼さに情けないと動けなくなる自分が、本当に、情けない。
俯く先のベーディの手に、ガイキの右手が重なった。
自分に比べて大きく無骨な、それでも綺麗に整えられたその手にガイキを見上げようとしたがそれより早く。
ガイキはベーディの前に屈み、真っ直ぐに同じ色の瞳を見詰めると、
「気を楽にというのは難しいとは思う。
だが、お前は気負い過ぎだ」
冷静なその声が、春風のように柔らかい色でベーディへと辿り着く。
「俺が居る。
アイツも居る。
お前の焦りや苦心は…俺にも分かるよ。
同じような立場に居たからな。
…いや、俺達の所為で、俺の時よりもベーディには息苦しくさせているな」
「…!
ちがう…っ、ガイキたちは…いつもっ、」
いつも、俺の為に、と。
そう続けたいのに、情けなく稚拙な心が躓く。
息を吐いた。
木枯らしを焦る秋風のような、温度のないそれが目の前のガイキへと溢れてしまった。
大丈夫、と、ガイキは言った。
心配するなと、気を楽にしていいと、俺はずっとここに居るのだからと。
ガイキはベーディの心を押し潰すものを退ける言葉ばかりを放つ。
じゃあ、ガイキは?
と。
ベーディは目の前のおとなびた青年を眺める。
ガイキの心を押し潰すものを退ける言葉は誰が放つ。
ガイキの心を押し殺すそのイスにいつまで彼は座っているのだろうか。
平然と、平静に、平王として、彼は常にそこに座っている。
もう、随分前から、たった独りで。
「さぁ…もう寝に行け。
明日は早いからといって手加減なんかしないぞ」
ガイキのその一言。
そのたった一言でベーディは吹き出すように思わず、ぷはっ、と笑うと、
「手加減なんか、してくれたことねぇじゃねぇか」
ガイキはいつも、ベーディが生き残る為の教育を与えてくれる。
死と隣り合わせのこの世界で、正にその真ん中を進むこの軍では、手加減は優しさではなくただのエゴだ。
ガイキはベーディの為に、いつも自分の持てる全てを与えてくれる。
手加減なんてする訳がないのに、いつもは厳格で笑う事も少ない彼の、ベーディの為の冗談が、思わず目尻が濡れる程嬉しかった。
ガイキが自分を愛してくれているのだと、改めて感じる。
ベーディがテントから出ると、乱暴な風が肌やテントを叩いてきた。
星空を眺めても砂塵に霞んでいて、それでもベーディは思い出す。
「…夜の、帳を掬った黒髪…か…」
きっとそれは、砂塵もなく晴れ渡った月明かりの夜なんだろうと、シャロノの髪を思い出しながら考える。
そして、ハッとして頭を振った。
明日から彼女の魅力を断ち切る訓練をするのに、早速シャロノの事を考えるこの頭が恨めしい。
「俺はガイキが誇れるようなヤツにならなきゃなんだ!」
怒鳴る訳ではないが自分にそう言い聞かせて、風の音よりは小さかったその声に足を進める。
自分の寝床に戻り、さっさと寝て、明日はガイキか驚く程に人力を使い熟してやる、と。
理想論だと知りながらもその妄想で自分の背を叩き、ベーディは一つのテントに入っていく。
ただいま!と騒がしいような声を上げたが、テントに入ると風の音がより騒がしく布に声を上げさせていて、ベーディの声はその音の合間に沈んでいた。