第二話
密やかなざわめきは、喧騒よりも耳に付く。
他血族への不信感。
それを許容した王への憂慮。
そしてそれは、彼が側を通ると陰に潜む。
いつもそうだ。
聞こえてないと思っているのだろうか。
ベーディは皆で食事を取っていた集会テントを出て、隣のテントへと移動する。
大きな集会テントと比べると小さなものだが、警備体制は比ではなく堅い。
門番はしかし、ベーディを見ると気さくに声を掛けて扉を捲ってくれた。
ベーディは礼と共にそこを潜り、いくつかの部屋に区切られている内部を奥へと進む。
部屋といっても扉代わりの布がなかったり、布があっても纏められていて開放されているものがほとんどだった。
ベーディは、辿り着いた目の前の布を見上げる。
そこはいつも閉ざされている。
それでも、今まで何度も入室した事があった。
ベーディは横に吊るされているベルの紐を引く。
チリンチリン、と大きくはないが響く音が転がり、中から入室を促す声が聞こえた。
ベーディは布の一部を捲って部屋に入ると、
「!」
そこには、シャロノが居た。
彼女は入り口で固まるベーディを見ていて、その前の机では何かを書いているガイキ。
ベーディがどうすればいいのかと固まって直ぐにガイキはペンを置くと。
「契約書だ」
そうガイキから紙が差し出され、シャロノはそれを受け取る。
「契約のCosa-adiか?」
そう書面ではなく、先程までガイキが握っていた無骨なペンを見詰めると、ガイキはシャロノの視線の先を一瞥してから、
「真実のCosa-adiだ。
過去だろうと、不明瞭な未来だろうと〝真実〟しかかけない。
便宜上、重要な契約事に使用している。
違反することは出来ない強制力がある」
「…なるほど、」
シャロノは頷き、契約書を丸めると肩に乗るネズミが背負う革の袋を取るとその中に、明らかに袋よりも大きな契約書を入れた。
「…入れ物のCosa-adi?
英勇のものか?」
先程とは逆に問い掛けてきたガイキを見る事もなく、シャロノは袋をネズミに戻しながら、
「それの〝切れ端〟だ。
入れ物のCosa-adiは細かく切られて数が出回っていると聞いたことがある。
〝切れ端〟の容量は大したことないがな」
そしてシャロノはベーディを振り向き、思わず姿勢が良くなった彼に、
「怪我は?」
「えっ、」
「私の術は痛みを誤魔化すだけだ。
傷は塞がらない」
ベーディは自分の腹を撫で、予想外の配慮に必死に応える。
「だっ、大丈夫だっ、…です!
そのっ、直ぐに…医療班から治療を…受けたので……」
「…そうか」
彼女はそんな簡単な相槌だけを残し、ガイキを一瞥してからその部屋を去った。
呆然とそれを見送ったベーディだが、ガイキに声を掛けられる。
「こっちに来い、ベーディ。
彼女…シャロノと我が軍は暫く行動を共にする。
…お前に、教えなければならないことがある」
ベーディは、静かに彼の前へと歩み寄った。
堅牢な造りのその机の前に立つと、まだ彼が小さいからかガイキが遥か遠くに居るような気持ちにさせる。
しかしガイキは、いつも二人で話をする時のように自分の椅子の隣にもう一脚引き寄せ、ベーディに着席を促した。
そうしてもらえると、嬉しかった。
遠くに居るように思う彼が、ちゃんと自分を〝ベーディ〟として扱ってくれることに酷く安堵する。
「まず…三血族のこと。
噂とか世間話とかではなく、ちゃんと聞いたり調べたことがあるか?」
ガイキの問い掛けに、ベーディは椅子に座りながら首を横に振る。
「ないよ。
でも、常識的な範囲なら知ってる」
「根拠のない〝噂〟や〝世間話〟を常識と思うな。
命が短く、不平感の強い人の一方的な話は、一心に信じない方が懸命だ」
ガイキのその言葉にベーディは口を噤む。
見知らぬ誰かが彼の言葉を聞けば、偏屈な意見に思うだろうか。
だがベーディは、ガイキが誰よりもそういう〝偽り〟に敏い事もその理由も知っていた。
「その…三血族は…。
〝人〟と〝妖〟と〝魔〟のことで、いきものは血によってこの三血族に分けられてる…だろ…?
昔は、それぞれの王が一国ずつ治めていたから…この世界には、三つの国があったけど…。
今はどの国も残ってなくて、妖と魔は…人との戦いに負けて壊滅状態…?」
これは彼の思う〝常識的な知識〟だが、絶対に間違っていないという自信はなかった。
しかし目の前のガイキは頷き、彼の言葉が正しいと示してくれた。
「そうだ。
三血族は〝血〟…つまり〝体質〟が異なり、〝手にもの〟。
つまり〝性質〟も違う。
人がそれぞれの手に何を持つかは言えるか?」
「あっ…ええっと……。
左手に…〝英力〟?」
伺うように怖々言うと、目の前のガイキが右手を差し出した。
「武器を持つ方が〝力〟と覚えろ。
人が右手に持つのは〝英力〟。
左手が〝想慕〟だ。
とはいえ、これらは血族の性質を表す為の比喩だ。
片手がなくとも、両手がなくとも別にどちらかが欠ける訳ではない」
「…!」
ベーディは、ガイキの顔から視線を移さないようにした。
見えない彼の左腕を見ない為に。
「〝英力〟とは、〝英でた力〟のことだ。
何に秀でているかは知ってるな?」
「不死を殺すこと?」
「そうだ。
右手に持つものは〝力〟だ。
三血族はそれぞれ〝人力〟、〝妖力〟、〝魔力〟を有し、それを使った術を〝人術〟、〝妖術〟、〝魔術〟と呼ぶ。
手に持つ〝力〟はその血族の有する力とは別の力だが、血族の有する力によって威力が左右される。
つまり、人なら人力の扱いが長けていれば長けている程、より強力な〝英力〟が使えるということだ」
ベーディは頷いた。
それは、なんとなく知っている。
ベーディくらいの年齢になれば知らないものは居ないだろう。
「人に種族はないが、妖と魔には種族という、血族よりも更に細かな分類がある。
そして、妖と魔の中には〝不死〟という特徴を持った種族も数多くある。
不死は、〝自殺と寿命以外では死なない〟という特徴だ。
他の誰かがソイツを殺すには、英力を扱う以外に手はない。
だが…人は個々の人力の差による不平感をなくす為に、人力の大きさや技能で強大さが左右される人術を扱ういうことを何百年も前に放棄し、新たな術を生み出した。
それが今やほとんどものが扱う、人力の不要な〝技術〟という術だ。
お前の得意な銃火器なんかは、〝技術〟で作り出されたものだ」
「…うん、」
ベーディは護身用にいつも背負う小銃の気配を確認した。
ベーディの周り、つまり軍の中で人術を使うものはガイキしか見た事がない。
希少な力だと、そんな漠然とした認識だった。
「人術は廃れた。
それに比例し、人力も代を重ねるごとに弱まっている。
使わない力なんて…そんなものだ。
そして、今回俺達と行動を共にすることになったシャロノは、吸血貴という種族だ。
吸血貴は…不老不死の特性を持っている。
不老には細かく分けると種類があるが…吸血貴の持つ不老は〝一定の時期から一切加齢しない〟というものだ。
つまり、吸血貴は〝自殺〟と〝英力による殺害〟以外では死なない。
この軍…いや、この世界の人で彼女を殺せるものは居ないだろう。
彼女がこちらを敵と見做せば、俺達は勝てない戦いに命を差し出すことになる」
彼はつまり、シャロノの機嫌を傾けるなと言いたいのだろう。
ベーディは頷こうとして踏み止まり、眉間に皺を寄せてガイキを見上げた。
「ガイキは?
ガイキは人術のひとつ〝のろい〟が使えるくらい人力があるだろ?
なら、英力が使えるんじゃねぇのか?」
ベーディにとって、ガイキはほとんど完璧な男性だった。
王という席に座ってそれを熟し、武にも秀で、それでいて自分という幼い存在にも向き合ってくれる。
ベーディには、ガイキが何かで誰かに負ける所なんて想像出来なかった。
しかし、目の前の王は、首を横に振った。
完璧なガイキが、そう思い込んでいるベーディに自分の脆弱さを示す。
ガイキが首を横に振っただけで、ベーディの心は驚きで固まっていた。
「英力は、三血族が手に持つ〝力〟の中で最も強大なものだ。
半端な人力ではほとんどの不死には勝てない。
一言で不死といっても、負った傷の自然治癒速度には種族差がある。
俺の英力で…人と同程度の自然治癒速度を持つ不死なら殺せたかも知れないが…。
…吸血貴は妖の中で最も強い種族だ。
妖力の保有量も、治癒速度も妖の中で抜きん出ている。
吸血貴は致死の傷を負おうとも、全て治るのに半刻も掛からない」
ベーディは口を閉ざした。
それを聞いて尚、吸血貴を敵にしようと思うものはそうそう居ないだろう。
居たとして、そんな無謀なものの側には寄りたくないとも思った。
「それと、妖が手に持つもので人と共通するものがない。
考え方が全く異なると思って接しろ。
妖は右手に〝理力〟を持ち、左手には〝自愛〟を持っている」
「え…全部違うのか?
じゃあ…魔も?」
今日初めて見たばかりの他血族の〝手に持つもの〟なんて初耳で、ベーディは勤勉さよりも前に出た好奇心に従って前のめりになった。
ガイキはそんな彼に呆れる素振りもせずに、向かいあったまま言葉を続ける。
「魔が持つもの…。
右手は〝英力〟、左手は〝理力〟だ。
両手共に力を持っている。
三血族でまともに戦えば圧倒的に魔が強いが、魔に関してはほとんど生存していないし、残ったものも血を隠して暮らしているから気に掛けなくてもいい。
なにより魔は性質的に諍いを起こすことはない。
だから今は妖の未知だけを警戒すればいい」
それはなんで?と、ベーディは聞きたかった。
圧倒的な強さを持ちながら生存競争に破れ、性質的に諍いを起こさないとは一体どういう事なのか。
前のめりになった好奇心が、今度は立ち上がりそうだった。
だが、目の前の彼は王だ。
忙しい中、たった一人自分の為に向かい合ってくれている。
既にもたげた好奇心を彼は拾ってくれているし、これ以上はその懇篤を無下にするようで、急に少し怖気づくような気持ちになって聞けなかった。
しかし、ガイキはそんなベーディの機微に、小さく頷く。
「人が持つ〝想慕〟と妖が持つ〝自愛〟。
この二つは所謂〝生存本能〟のような性質だ。
生きる為にどういう行動を取るのか…それを司っている。
だが、肉体的にも力的にも強大なものを持つ魔は、〝生きよう〟としなくとも〝死なない〟ものだ。
…誰かが故意に殺さない限りはな。
だからどちらの手にも〝生存本能〟となるものを持っていない」
ガイキはやはり完璧な男性だと思った。
人の機微に気付くだけでなく、それを気遣ってくれる。
まるで応える事が当たり前というように。
そして、ちゃんと正しい事を教えられる彼は、ベーディにはやはり誰にも負けない完璧な男性に見えた。
「もちろん自分や家族の身に危険があれば反撃もするが、〝生きる為に他のいきものを攻撃する〟という理屈が理解出来ず、想定もしていなかった為に対応が遅れた。
それに、力があれど元々最も数の少ない血族の魔は、人と妖の数の多さに圧倒されたんだ。
人と妖は共謀して魔を殲滅したからな。
魔が一方的に攻撃され、王族が王位を放棄した理由は…それだ」
妖との戦いは、と続けようとして、ガイキはその言葉が喉に辿り着く前に口を閉ざした。
今、目の前に座る彼は何も知らない。
だからガイキは彼を呼び出し、自分の知り得る〝真実〟や身の守り方を教えようとしていた。
ガイキは過去に埋もれた〝真実〟を他の人よりも理解している。
〝自分の記憶〟のように。
だが、今ガイキが続けようとした言葉は〝自分の記憶〟ではなかった。
〝彼女〟から聞いたものだ。
真剣に話を聞く時に口を開いてしまうベーディと同じ癖を持つ女性。
本当によく似ている。
懐かしくて、微笑ましくて、苦しかった。
ベーディの幼さを見ていると、無邪気な彼女を思い出す。
だが、その話はまだ幼いベーディにはしないようにしていた。
言わなければならない時もある。
それでも、ガイキともう一影はその話をあまりしないようにと心掛けている。
他のおとな達は、きっと、小さな彼が押し潰されそうな程にその手の話をしているだろうから。
周りは嫌味で言っている訳ではない。
寧ろ誇らしい気持ちで語っているのだろう。
それでも、その苦心はガイキが一番理解していたから。
この微笑ましい気持ちはきっと、生涯誰にも語らずに終える。
それは別に、苦しい事ではない。
だから言わない。
言えば、目の前の男の子が俯くだけだ。