第一話
何故、私たちは〝夢〟を見るのだろうか。
何故、私たちは叶いもしない幻想に揺らめくのだろうか。
何故、私たちは失敗に怯えながらもそれを繰り返すのだろうか。
ここには希望がある。
荒野を進む足取りに。
ここには絶望もある。
死と相対する日々に。
それでも足取りを重んじるのは、私たちの脳裏に〝夢〟が蔓延るから。
その無責任な幻想は、自分自身が無責任に作り上げている。
分かっている、分かっている。
無責任なのは私だ。
分かっている。
ただ、許されるのなら。
願ってもいいのなら。
目覚めている時にしか見れない夢で、貴方の微笑みを眺めて。
そのまま、何も叶わない夢の中でせめて、せめてと願っても許されるのなら。
破裂音がした。
乾いた空気に似合うよく通る音にそちらに顔を向けても、風が巻き上げた荒野の砂埃に視界が邪魔されている。
彼は目を覆うゴーグルを指で拭った。
その指はゴーグルにしがみ付いていた砂で汚れたが、同時に視界が少し回復する。
それでも、やはり煙たい。
彼はその霞んだ先を眺め、瞬きをする。
強風が通り抜けると布のはためく音がして、それが収まってから口を開いた。
「…南東のテントか?」
彼の周りに立ち並ぶテントの中から続々と人が出ては、彼と同じ南東を注視していた。
その数と比例してざわめきが大きくなる中、彼と並んで霞の先を眺める中年の男性が腕を組む。
「銃声がして、それでも警報も鳴らないからな。
大方〝誰かさん〟が戦利品に良い銃を見付けてはしゃいでるんだろう」
息を吐いた。
深い息をすると咳き込む空気に布で口を覆う彼は、溜め息に似たそれを吐き出すと、
「軽率だ。
何度注意すれば分かるんだ」
そう呟くように声を溢し、皆の注目の先へと歩みを進める。
男性も彼よりあからさまな溜め息を、やはり口を覆う布に籠もらせた。
風の強い今日は、まるで曇天の雲の中を歩いているように薄暗く、先が見難い。
男性は苦しい息を助けようと自分の布と頬の間に指を入れて空気の通りを良くしながら、
「ガイキ(鎧旗)、」
彼を呼び、息を吸うと、咳き込みそうな空気が肺に飛び込んできた。
男性は静かに布をまた肌に押し付け、埃っぽい喉を鳴らす。
その咳払いに気分を害するでも急かされるでもなく、男性の先を行くガイキは右足を止め、次いで左足を止めると半身を捻って男性を振り返り、
「あまり叱ってやるなよ」
あれでも、アイツは。
そう続ける男性の言葉を最後まで聞かずにガイキは眉を寄せ、さっさと前を向いて歩きを再開させてしまった。
やれやれと、男性は先程よりも大きな溜め息を吐く。
それでも男性はガイキの後に続き、暫くすると目の前に周りよりも一回り大きなテントが現れた。
そのテントの入り口に立つ青年はガイキを見付けると直ぐに一礼をし、扉代わりに垂らされた布を捲る。
ガイキは少し頭を下げてそれを潜ってテントの中に入るとゴーグルを外し、口から布を引き下げ、
「銃声が聞こえたぞ。
まさかここで銃をブッ放すバカなんて居ないだろうな?
ベーディ(塀掟)?」
「!」
ガイキの声にそのテントの中の全員が彼を見たが、その中で一等顔色悪く、如何にも〝しまった〟という表情の少年は手にしていた小銃へと視線を落とし。
後ろ手に隠そうか床に置こうかと悩んで結局手にしたままガイキを見詰めて、叫ぶように焦りの声を張り上げた。
「空砲だっ、空砲だよ、ガイキ!
見てみろよ!
テントのどこにも穴なんて…」
そう言いながらも不安なのか、自分が〝ない〟と断言しようとする穴を探すように辺りを見渡す少年にガイキは歩み寄ると、
「ベーディ」
銃声のように良く通る声だった。
その音に噤んだ口角を不安に下げる、幼くも立派な少年に。
ガイキは素早く彼にゴーグルを付けさせ、口が隠れるように彼のネックカバーを引き上げた。
ベーディという名の少年は無理矢理付けられたそれらの違和感を直そうとしたが、それより早くガイキに腕を持たれ、そのままテントの外へ連れて行かれると、
「軍の皆を不安にさせるな」
「…!」
少し斜めに掛けられたままのゴーグルで、ベーディは目の前を見詰めた。
テントから顔を覗かせるのは、年齢も性別もバラバラで、ゴーグルをしているかどうかもバラバラで、それでも皆の表情は一様で。
ベーディは、手元の銃に目を落とした。
とても造りの良い銃で、砂による目づまりも殆どない。
補強の為に貼られている銃のプレートには装飾が何もなかったが、そこには自分の顔の一部と、周りの景色が映り込んでいた。
このプレートは、後で艶消しをしなければならないだろう。
光に反射して自分の位置を誰かれ構わず知らせてしまうだろうから。
これは敵が居る時に、敵に向かって構える殺戮の道具だから。
ベーディは重い頭を持ち上げる。
テントからこちらの様子を伺う数が減っていた。
周りから、ああなんだベーディか。びっくりしたなぁ。等と談笑が微かに聞こえ、揃っていたあの表情が柔和なものに変わっていたから。
ベーディは居た堪れなかった。
それでも、彼の片手はまだガイキに掴まれたままで、それを振り払うなんて試した所で無駄だと理解しているし、そうすべきではないとも分かっている。
ベーディはやっと自分のするべき事を実行しようと、力が抜けるように頭を下げた。
「ごめんなさい…。
おさわがせ、して……っ、」
頭を下げると、乾いた地面と自分とガイキのブーツが見えた。
両方共砂埃がこびり付いていて、そんな距離すら砂を運ぶ風がいたずらっ子のように霞ませている。
その意地悪な砂塵とは違い、頭上ではやはり柔和で談笑混じりの声が聞こえた。
「おお、偉いな、ベーディ。
ちゃんと謝って!」
「次からは気を付けろよー」
快活な笑い声に褒められ、自分がとことん子供扱いされているのだと自覚させられる。
それがまた居た堪れなくて頭を上げられないでいると、漸く腕からガイキの手が外れた。
彼も自分を許してくれたのだろうかと上目がちに、怖々とガイキを見上げると。
ガイキは、ゴーグルを付けようとしていた。
口に布も巻いていない。
ベーディは、乱雑に掛けられたので髪が引っ張られて痛い自分のゴーグルの中で目を伏せ、息の苦しいネックカバーの下で口を結んだ。
頭を下げるまでにどれ程の時間が掛かったかは分からない。
それでも、〝優秀〟ではなかった事くらい分かっていた。
自分がもたもたとしている間、ガイキはこの砂埃と火薬の舞う乾いた空気を目と肺に入れていたのだ。
居た堪れなかった。
その場から動けなかった。
それでもガイキは口に布を当てると、ただベーディの隣に立っていた。
どこにも行かず、何も声を掛けて来なかった。
きっと、ベーディは早くガイキに謝り、彼と共にテントに戻るのが正解なのだろう。
ベーディ自身もそう思っている。
だが、それが正しいという自信と、それを実行する勇気が持てなかった。
結局ずっと俯いたままのベーディの肩に手を置いたのはガイキで、彼はここまでベーディを引っ張って来た時とはまるで違い、優しい手付きで幼さの残る〝銃撃手〟をテントへと誘った。
ベーディはひたすら自分が情けないのと、この銃の艶消しをしなければというのと、早速そんな事をしたら反省してないと思われるのではないかという悩みで。
ガイキがテントのおとな達と話し、出て行くまで、ベーディは泣きそうな瞳を堪える事しか出来なかった。
ガイキに呆れられたらどうしよう、と、今度はそんな事を考えて。
周りから慰められると、やはり自分は子供なのだと惨めになった。
「戦利品のリストよ」
そう目の前に突き付けられた紙に、ガイキは自分の前に立つ彼女を一瞥した。
ガイキは椅子に座ったまま、机越しにそれを受け取って文字の羅列に目を落としながら、
「わざわざお前が届けにくるなんて珍しいな」
「ベーディに変な叱り方してないでしょうね」
紙に書かれたリストには多くの銃器が今、自分達の懐にあると示されていた。
無感情に羅列されたその武器の名と、目の前から投げ付けられた無愛想な言葉の塊はとてもよく似ている。
「武器を使ってバカをしたんだ。
然るべき事をした。
お前にとやかく言われる筋合いはないはずだが?」
彼女の顔を見ていないが、怒気が上がった事くらいは分かった。
彼女は言葉を放とうと口を開き、息を吸い。
ベルの音が聞こえた。
大きなテント内で区切られた一室であるここへの入室への伺いである〝ノック音〟に彼等は布の掛けられた扉代わりのそこを見て、
「入れ」
ガイキがそう言うと、男性が顔を出した。
「お話中失礼します…」
「終わってるから気にするな」
ガイキはそう言いながらリストに何かを書き込んでいる。
男性はそんなガイキから彼女へと視線を移すと、
「リリィロ(利々膂)さん、少しよろしいでしょうか」
少し、静かな時間があった。
それは寸の間だったが確かに存在していて、そして彼女、リリィロは直ぐに扉へと近付くと、
「どうかしたの?」
「北方で気になる事が…」
そんな声がガイキから遠ざかっていく。
男性はガイキに退室の言葉を述べていたが、リリィロは振り向く事すらしなかった。
ガイキも、男性の言葉には応えたが、リリィロの背中に興味すら向けていなかった。
ガイキだけが残る部屋に、紙に文字を書き込む音だけが響いて、それだけが立ち込めては滞留して。
また、ベルが鳴る。
そして、先程とは違う男性が入室し、
「ガイキさん、」
ガイキはリストの下部にサインを書くと、目の前まで歩み寄って来たその男性を見て、
「どうした、ハイロー(杯朗)」
目の前で姿勢良く、態度も良く、敬意を込めて立っているハイローは口を開き、冷静な声で告げた。
「北方で〝彼の国〟の補給部隊と思われる集団を確認しました。
偵察部隊と軍師らの協議では、ほぼ確定だと。
今夜の野営場も特定してあります」
ガイキは背もたれに寄り掛かった。
なるほど、リリィロが出て行ったのはこの話を自分まで上げるかどうかの会議の為か。と。
宙に考え、直ぐに椅子から背を離したガイキは卓上を整理しながら、
「よし、奇襲部隊を組め。
俺も先行する」
ガイキの前で、ハイローが首を横に振った。
「ガイキさんは先の戦いにも出たばかりでしょう。
それに、わざわざ軍の最高戦力を割く程の相手ではありません」
ガイキはハイローを見上げ、また背もたれに体を任せる。
体格の良いハイローが手を後ろに組んで姿勢良くしていると、なんだか窮屈そうに見えた。
顔に刻まれたシワの所為で厳つく老けて見える年上のハイローに、ガイキは机に頬杖を付くと、
「…お前そんなに白髪あったか?」
ハイローは険しかった顔を弛緩させ、それから元から刻まれている眉間のシワを一層深く寄せると、
「アンタがオレに苦労掛けなきゃ、オレだってもっと若々しく居られると思いますよ」
「ああ、苦労掛けていたとは、悪かったな」
ハイローは自分よりも一回り以上年下の上官を見詰める。
そういうムカつく程に悪戯気な言動は、まだ彼が若いのだと思い出させた。
そして、その若さには荷が重いのではと、思ってはしまうが決して口には出してはいけないと理解しているその役職を、ハイローは口に出す。
「気持ちは分かりますが、次に備えて大人しく戦いの疲れを癒やして下さい。
貴方は、この軍の長であり、王なのですから」
無闇に、死の側を走らないで下さい。
ハイローの言葉に、ガイキはただ一度頷いた。
慣れる程長く就いているその立場の上で、若さ故に軽率な自分を諌める。
そして、薄暗いテントの端を見詰めると、
「…補給部隊か。
この近くに…彼の国の戦闘部隊でもあるのか?」
その問いに、ハイローは答えなかった。
憶測で放つには、相手の地位が重すぎた。
「物資を多く持っていたから補給部隊と思ったけど、実際には資源を確保する為の遠征の部隊だったようです」
ガイキは、机の上に広げられた地図を一瞥した。
そしてまた直ぐに自分の剣の手入れに戻りながら、ハイローと共に並ぶ報告をした彼女に言葉を促す。
「スイヒ(水飛)、この荒野で何が取れるんだ?
ここらを更地にしたのは彼の国だろ」
「Cosa-adiが、奴らの所持品から」
ガイキの手が止まった。
そして、彼はハイローとスイヒを見上げる。
真剣なその顔は、少し雷に似ていた。
風と共に嵐となって敵を駆逐する力を帯びている。
ピリリと、その予兆のような痺れが部屋の中を這い回り、ガイキの瞳に入り込むと息をするように促してきた。
そんなガイキではないものに向く敵意が、あまりに高いが故に漏れ出ている彼等の前でガイキは笑ってみせる。
「Cosa-adiか…。
それはそれは、部隊を組んででも取り合いをして正解だったな。
何に加工されている?」
すると、この部屋に来てから初めてハイローとスイヒが顔を見合わせた。
そして、これはハイローから告げられる。
「棺桶だ。
キレイで高等な、貴族のミイラでも出てきそうな棺桶だよ」
「外装のデザインからすると、百年以上前のものかと思われるが…。
Cosa-adiだからな。
老朽化もしないから正式な年月は計れん」
棺桶の隣に座り込み、様々な道具を持ってそれを詳しく見ていたらしい古老がそう言った。
ガイキも彼の隣にしゃがみ、艶の消された黒が滑らかな棺桶に手を突く。
温もりも冷たさも、何も感じなかった。
「Cosa-adiで棺桶とは…昔は豪勢な使い方をしたんだな」
「今は大抵、彼の国が掻き集めて…武具に精製し直しているらしいしなぁ」
ポツリと呟くように言う古老は懐からタバコを取り出すと、静かにそれを口に銜えた。
それから白衣の上から体を叩いて何かを探す古老に、ガイキは自分のポケットからマッチを取り出して手渡し、
「人払いは出来てる。
発動させるぞ?」
「おー、頼むよ、大将。
Cosa-adiは適合したヤツじゃねぇと反応しねぇのが大抵だが、アンタの一族に掛かれば名折れだわな」
火の付いたタバコを片手に床に座ったまま上機嫌な古老に、もっと下がれと促してからガイキは立ち上がると、
「この血はただの飾りじゃないってことさ。
こんなことも出来なければ軍の皆に顔も向けれない」
古老はズリズリと座ったまま壁際へと体を引き摺ると、テントの布越しに聞こえる荒野の風に笑った。
さて、と、分厚いメガネを押し上げる。
「饕が出るか、蛇が出るか…」
どっちにしろ歓迎出来ないな。と。
ガイキは棺桶の上部に右手を突く。
そして、ぐっと力を入れて押すと、繋ぎ目のなかったその〝蓋のない棺桶〟の上部がズレ、それが蓋として〝開く〟という機能を果たそうと動くと、
「!」
ガイキは身を引いた。
そんな彼の後ろ姿に古老は身を乗り出す。
棺の蓋はガイキの手を離れて尚動き、二十センチ程の隙間が開くと、そこから。
手が現れた。
日の光を知らないような、白く細い腕だった。
ガイキは棺桶から身を引き、腰に掛けられた剣を抜く。
古老は慌てたようにテントの布を捲り上げ、
「おい!
戦闘員…、!?」
そこから、白い何かが古老の顔へと突っ走って来た。
避ける間もなく身だけ固くした古老の頬を擦り抜け、白い塊が素早く棺桶へと近付く。
ガイキはそれを見て、眉間に皺を寄せた。
「ネズミ?」
その通りのどうぶつが少し足を滑らせながらも小さな皮の袋を銜えて棺桶へと攀じ登り、そのまま棺桶から天へと伸びる腕に飛び付くとそのまま未だ闇に包まれたままの内部へと落ちていった。
すると、あの腕も棺桶へと戻っていく。
静寂の中、警戒したままのガイキに声を掛けられた古老がまたテントの外へと戦闘員の増援を叫んだ。
幾つかの足音がテント内へと踏み込むと、ガイキと古老を庇うように剣や銃を構えたものが整列した。
その凶器が向く先の棺桶からは中に〝何かがいる〟と知らしめる音が微かに溢れていて、ガイキは剣を構えたまま戦闘員の壁の後ろで、それに加わるベーディを一瞥だけする。
他のおとなと変わらずに勇猛な姿勢で小銃を構えるベーディは瞬きもせずに棺桶へと銃口を向けていた。
そして、遂に棺桶からあの手がまた現れる。
皆の構えが厳しくなる中、今回は控え目に出て来たその手が棺桶の蓋を横に押すと。
音を立てて蓋が、テントの設立の為に確りと固められた地面へと埃は立てずに落ちた。
自由になった細い腕は棺桶の縁を掴み、ぐっ、と力を入れたようだ。
すると、静かに、殆ど音もなく、ゆっくりと。
棺桶から、誰かが上体を起こした。
緊張が張り巡るテントの中で、その誰かだけが動いていて、それは長い髪をあの細い指で梳くと、それから、漸く。
ガイキと、古老と、それらを守る壁へと顔を向けた。
数影が息を呑んだのが聞こえてくる。
そして、そんな中で目覚めたばかりの彼女が息をして、
「驚くほど、物騒な目覚ましだ」
その声に、やはり数影が、その中のベーディも息を止める。
棺桶からこちらを見詰める女性は、美しかった。
だが、それだけではない。
何か、得体の知れない何かが、自覚も感じさせずに自分達の体も心も彼女に惹き込んでいくような感覚に陥る。
そして、それは不快ではなく寧ろ幸福な感情を伴わせた。
武器の殺意の殆どが丸くなる中、壁の向こうからガイキが厳しい声を放つ。
「妖か。
噂に聞く妖力がこんなにも強力とはな」
凛とした上官の声に、鈍くなっていた戦闘員が慌てたように武器の殺気を研ぎ澄ました。
彼女は壁に阻まれて見えない声の主を確認しようとしたのか、静かに立ち上がる。
彼女の動きに合わせて仲良く銃口や刀身が動き、ガイキも彼女を目視出来るようになった。
そして、目が合う。
引き摺られそうな心に絡む彼女の力を断ち切りながら、ガイキは瞬きをする。
美しい女性だった。
そして、それだけでは片付けられない程の魅力を帯びていたが、ガイキはそれよりも特徴として注視すべき容貌に眉を寄せる。
「夜の帳を掬った黒髪と…慈悲深い血流の赤い瞳、」
彼女はガイキが呟いた通りの黒髪を揺らし、赤い瞳を細める。
彼女の白い滑らかな肌に夜と見紛う黒髪が絡むと、なんだか目の前がチカチカと瞬いて気絶しそうだった。
「このご時世、妖だって珍しいのに…驚いたな。
お前、…吸血貴か」
「きゅっ、吸血貴…っ?
あのっ、生き血を飲む妖の…っ!?」
そう最も動揺していたのはベーディで、彼女はそんなまだ幼い彼へと目を向けると。
静かに微笑んでみせた。
そうされるとベーディの心は完全に、体から何歩も前へと這い出てしまう。
「ここにいるは全員…人か…。
幼い子もいるんだな。
お前ほど幼ければ人以外の血族なんて見たこともないか?」
ベーディは、声が出なかった。
畏怖ではなく手放した心を引き戻す事すらも忘れている。
そんな少年の正気を叩き起こしたのは、顔の前に出て来た背中だった。
「彼ほど幼くなくとも、ここに居るほとんどは妖なんて見たこともない。
俺も、〝見たこと〟はない」
「っ、ガイキさん!
下がってくださいっ!」
「危険だ!」
美妙なものへの傾倒よりも優先すべき事を漸く思い出した彼等が騒ぐ中、ガイキは剣を構えたまま彼女の前に立っていた。
彼女はガイキをまじまじと眺めると、小首を傾げ、
「ああ…この匂い、〝零〟の血…いや、それよりも薄いか?
妖力に惑わされ難いのは、その血のお陰か」
「…驚いたな。
吸血貴は血に敏感とは聞いたが、匂いで分かるのか」
「……ああ、そうか。
この棺を開けたのもお前か。
〝零〟より薄くとも、Cosa-adiを掌握しているとは…驚いた」
互いに驚異の欠片もない表情で言葉を交わした二影の空気は、月夜の湖のようだった。
冷たく、静かで、薄暗く、神秘的だが。
一度その水面を覗き込めば、二度と畔には戻って来れないような。
敵意の隠された、牽制的な態度達だ。
そんな二人の間に割り込み、また壁を作る銃と剣の物騒さに彼女は静かに笑う。
その余裕な態度に、皆は息を呑んで武器を構えていた。
彼女が何故余裕なのか、皆が分かっていたのだ。
妖という血族の中でも、吸血貴は最も有名な種族だ。
彼女が、こんな鉛玉や研がれた鉄なんかで死ぬ事はないのだと、皆が知っていた。
そして、この緊迫の中で、古老の彼がタバコを地面に擦り消し、声を上げて不自由そうな腰を上げる。
痛みでもするのが腰を反らしてから、古老は彼女を見詰めると、
「彼女には武器も緊張も無駄だから解け解け。
呼んどいて悪いが、今はお前らの出番ではないようだぞ」
「トーエモンド(藤衛門土)さん!
しかし!」
「相手は〝不死〟だ。
殺そうと思って殺せるのは…まぁ、ガイキがギリギリ一矢報いるかどうかだろう。
今の人は大抵…〝英力〟なんて握っているだけみたいなもんだからな」
それに、とトーエモンドは言った。
新しいタバコに火を点け、濁った煙を吐き出しながら、
「彼の国の差し金にしては…突飛過ぎるし、自尊心の高い吸血貴がそんな〝おつかい〟を人から命じられておとなしく従うとは思えねぇ。
オレらの敵でないなら、鉛玉の無駄だ」
彼女の睫毛が瞬いた。
未だ武器を構えて緊張する若い戦士達と違い、すっかり呑気にタバコを銜える古老の学士か何か。
彼女は漸く彼等から視線を外し、テント内を眺めた。
外からは、強い風の音も聞こえてくる。
「…〝彼の国〟?
人が…国でも作ったのか?」
ガイキも、瞬きをした。
知らないのか?と問おうとして、先に銃を構えるスイヒが怒鳴るように声を上げる。
「あんなものは人の国ではないッ!
王の血も引かないどこぞの愚かものが成り上がり、勝手に騙っているだけだッ!」
彼女は、スイヒへと視線を向ける。
憎悪か嫌悪か、何れにせよ怒気も敵意も異様に高かった。
彼女は白い指を己の白い顎に寄せ、赤い瞳を伏せて少し考えていた。
その悩まし気な表情も美しい彼女だが、寸の間の考慮の後、
「また人同士の諍いか。
数十年しか生きられない癖に…」
ポツリと呟いたそれは、呆れというより憂いだ。
夏の終わりの木枯らしに耐える枝葉を見るような瞳で、神処で祈りを捧げるような声だった。
ガイキはそんな彼女を眺めてからスイヒを一瞥し、また何か怒鳴りそうなスイヒより先に声を吐き出す。
「彼の国が建国されたのは約二十年前…。
お前はそれを知らないのか?」
赤い瞳はガイキを一瞥し、また思慮深く伏せられながら、
「二十年…まぁ、軽く…それ以上は寝ていたか…」
「寝ていた?」
ガイキは彼女の立つ棺桶を見詰め、それから彼女の身に纏うものを眺めてから、
「二十年以上…〝寝ていた〟?
棺桶の中で?」
彼女の瞳が、ガイキを捉える。
彼は未だに剣を鞘に収めていない。
「…ああ、そうだ」
「殺せないから閉じ込められでもしてたのか?」
「いや、これは私が作らせた棺桶だ。
私が適合しているCosa-adiで作られている。
自らの意志でここに入った」
「よりによって…棺桶に?
何故?」
彼女の瞬きは、魅惑的だった。
華美な衣装を着る踊り子の指先のように、皆の注目を集める程の魅力が揺れる。
「…未だに知らず、まだ与えられるべきではない死を…感じられるかと思って」
彼女以外の皆が、怪訝な表情をした。
彼女は吸血貴で不死ではあるが、死ぬ手段がない訳ではない。
それなのに死の体感を求め、死を拒絶する理由が分からなかった。
そしてもう一つ。
彼女の言動と一致しないそれを眺めると、
「…では、死に装束を着ずに……、喪服を着ているのにも訳があるのか?」
ガイキの言葉に、彼女は笑った。
音もなく上がる口角の挙動すら美しく、柔らかい眼差しは女神を描く信仰画のようだ。
彼女の微笑みはまたも武器を鈍らせ、その中で唯一鋭いままのガイキへと、彼女は言葉を紡ぐ。
「今は…喪服を着る理由が二つも三つもあるのか?」
そう軽く裾を持ち上げた彼女は服は、酷く暗い色をしていた。
黒に近い程に暗い色の服は喪服以外に使われない。
だから彼女が身に纏うドレスは紛れもなく喪服で、彼女もそれを肯定しており、ただ、葬式に出向くには頭から被るべきベールが足りないくらいだった。
ガイキは棺桶の中身をチラリと見て、少なくとも死体も骨も、弔うべきものはないそこに彼女の微笑みへと視線を戻し、
「目的はなんだ」
冷たく静かな彼の声色に、彼女は少し沈黙を作ってから、
「…お前の血が欲しい」
『!』
鈍っていた皆の武器に敵意が戻り、ガイキを守る壁の堅固さが復活した。
彼女はその鋭い剣先を一瞥したが、特段気に留めてはいないようだ。
ガイキはそんな彼女を見詰めた。
少なくとも彼からは、彼女が聡明そうに見える。
「…何故、俺の血を?
彼らの対応から、俺の立場を推測出来ない訳ではないだろう?」
「お前の立場なんて別にどうでもいい。
…その血に、薄くとも感じ取れる程の〝王〟の血が紛れているなら、お前は私の目当ての人だ」
彼女は静かに屈み、緊張する皆の前で、棺桶から日傘を取り出す。
その日傘にはあの白いネズミがしがみついていて、そのまま彼女の腕を攀じ登り、肩に落ち着いた。
「死ぬ程の量を搾取する訳ではない。
グラス半杯の量がもらえれば…私は直ぐにここから立ち去ろう」
「…断れば?」
ガイキの声に、日傘に落ちていた彼女の視線が彼へと戻った。
真っ赤なその瞳は、やはり目眩がする。
「…充分な〝英力〟も持たない人と…吸血貴。
どちらが優位かも分からないのか?」
冷たい空気が、皆の口から溢れ出た。
外の暴風が煩くて、はためくテントが煩わしい。
その時、
『!』
皆が一様に北西へと視線を向けた。
そこにはもちろんテントの壁しかないが、武装した一人であるスイヒが素早くテントの扉を捲って北西を確認すると、
「硝煙!
〝赤〟!」
吸血貴の彼女と対面しているのとはまた別の緊張がテント内に蔓延り、ガイキは彼女を見詰めると、
「交渉は延期しても?」
彼女は、自分の肩を撫でた。
そこに居たネズミのヒゲが指を擽って、
「…まったく、人というのはどうして……」
そう黙る彼女にガイキはその場に居る皆に前線へ行けと命じ、剣を収めると自分もテントから駆け出した。
スイヒは隣を走るガイキを見ながら、
「いいの?
あんな妖を放っておいて…」
「敵意はあまりなさそうだ。
敵意があるなら、あんなことはしないだろう」
「あんなこと?」
ガイキは喧騒へと飛び込み、鞘から剣を引き抜くと、
「自分が優位にも関わらず自らの目的を告げて…俺達に、〝交渉〟の余地を残した」
そのまま、彼の剣は見慣れぬ男の首を切り裂いた。
「ああ、もう、本当に」
息をした。
それだけで苦しい腹を押さえて彼がその声を見上げると、腹から流れる血と同じ色をした瞳がいる。
「人というのは……、まったく、」
そして、彼女の腕が伸びてきた。
その白く細い指先をただただ見ていると。
腹に触れて、そこも真っ赤になった。
「ガイキ!」
彼は己の名を呼ぶよく知る声に振り返った。
こちらに駆け寄るその幼く小さな体躯を見て、息を詰まらせると、
「南はもうへいき…」
「ベーディッ!」
ガイキはその低い肩を掴み、普段冷静な王とは思えぬ顔色で、
「大丈夫かッ!?」
その怒鳴るような声に彼に駆け寄ったベーディは声を詰まらせた。
そして少し声を漏らし、それから思い出して慌てて声を上げる。
「これはッ、大丈夫だ!
そのっ、怪我はした…けどっ、」
「動くな!
安静にしてろ!
治療はっ、」
「止血はしたし大丈夫だ、ガイキっ!
あの吸血貴の彼女が治してくれたんだッ!」
ガイキは、また息を止めた。
そして血の滲む彼の服を見て、それが特に酷い腹部から顔へと瞳を向ける。
ベーディと再び視線が絡んたガイキの表情は、いつものように威厳ある冷静な王だった。
ベーディはただ黙ってガイキを見上げ、ガイキは静かに見詰めたベーディから辺りに視線を巡らせると一点で止めた。
隙のない瞬きをする彼の目は枯れた草と同じ色をしている。
「…思い込みの術か」
「え?」
疑問を零したベーディの後ろから、
「痛みを感じなくしただけだ。
あまり動くなと言い聞かせておけ」
ベーディは振り向いた。
そこには、痛みに呻いていた自分を治してくれた彼女。
そして彼女の頭上には日傘が開いていた。
時折強風が吹くのに、彼女の持つそれは煽られる素振りも見せずに主を日差しから守っている。
「あまりにも情けなく倒れているものだから、哀れに思ってな」
彼女のその言葉にベーディは違うだなんだと顔を真っ赤に慌てていて、それから陰る彼女の顔を見上げた。
「痛みをなくしただけの…〝思い込みの術〟?」
彼女はベーディを見詰めた。
幼さに小さな彼は、両手で銃を抱えている。
使い古された銃だ。
「思い込みの術も知らないのか。
もっとも有名な〝妖術〟なんだが…」
「………、」
ガイキはそんな二影を眺め、それから騒ぎと砂埃が収束してきた辺りに、ベーディの肩に手を置くと、
「ベーディ、夕食後に俺の部屋に来い」
「!」
「それから…お前、」
ガイキは目の前の吸血貴を見ると、肩で蠢くネズミの所為で揺れる髪を一瞥してから、
「お前は直ぐに、同行してくれ」
彼女は静かに笑った。
「随分な物言いだ。
そこらの人が吸血貴に命令するとは」
「…命令じゃない。
懇願だ。
それに、俺の血が必要なんだろ?」
ガイキの言葉に、音もなく彼女の笑顔は奥に沈んだ。
そして、無言のまま頷くと、
「どこに同行するって?」
「…治療用のテントが、少し先にある」
ベーディはガイキを見上げた。
我等が王は、静かな顔をしている。
「痛みを消すだけの〝思い込み〟でいい。
…手を、貸してくれ」
彼女はガイキの言葉に訝しむように目を細めると、
「…お前、〝まじない〟を使えないのか?
それなりに…〝人力〟はありそうだが?」
「使えない」
ガイキはそう呆気なく否定し、
「〝人術〟を使える人は…もう、ほとんど居ない。
俺は…簡単な〝のろい〟しか人術は使えない」
「〝のろい〟が使えて〝まじない〟が使えないのか?
〝まじない〟はもっとも基本的な人術だろう」
「人は人術を捨て、人力の不要な〝技術〟を作り出した。
もう…何百年も前のことだ。
短命の人には…何世代も前になる。
受け継がれない術は、素質があっても使えなくなるものだ」
彼女は黙ってガイキを眺め、ベーディを一瞥してから、
「嘆かわしいな。
人は…〝いきもの〟の中で唯一、他のものを癒す術を持っていたのに」
彼女は荒廃したこの地を眺めた。
「…もう、この世界には、誰かを癒す力なんて…必要ないということか……」
その目は、ベーディがおとな達から聞く妖の目ではなかった。
誰かを愛する事をせず己だけを愛で、不死を誇るが故に痛みや死に疎い。
冷たい血族。
冷血という、彼等を揶揄する言葉もある。
今まで他血族に出会った事のないベーディは、皆が口を揃えて言うそれを信用していた。
だが、彼女のあの目を、ベーディは何度も見た事があった。
〝誰の目〟というものではなく、人なら皆が持ち得る瞳だ。
憂い、という言葉で足りるかは分からない。
だが、少なくともまだ幼いベーディには、それ以上的確な単語は見付からなかった。
恐らく、ガイキなら的を得た表現が出来るのだろうが。
ガイキは、自分の感じたものや考えている事を軽々しく口や態度に出すものではなかった。
ベーディは勿論、この軍の皆がその事とその理由を知っている。
ガイキは、王なのだ。
「理解してくれたか?」
ガイキがそう言った。
「痛みは体力も気力も奪っていく。
長く苛ませれば命が保たないこともある」
彼女は、白い肌に映える唇を撫でた。
思慮するようなその素振りの後、彼女はあまり間を置かずに頷くと、
「…協力しよう。
その代わり、私の願いも叶えるならな」
「約束しよう」
「最終的にはお前の血を貰う。
だが、先に誰か男の血を飲ませろ」
ガイキは少し黙った。
ベーディは余計な事を言わないようにと静かにしていて、彼女は自分の要求の返答を待っていたのでその場は暫し、風と埃の独壇場となる。
しかしそれも長くなく、ガイキはこちらに気付いて武器と共に近付こうとした兵士を手で制してから、
「女ではダメか?
男は全員、兵士か病身か古老か…子どもだ。
血が減ると生死を分かつものが多い」
「吸血貴は同性と同種の血は飲めない。
それに、注射一本分程の血でいい」
風向きが変わった。
そうすると、埃よけのマスク越しに薫る。
血の匂いだ。
先程の戦闘で、敵も味方も死んだ。
血を流して、死んだ。
「…分かった。
採血したものを持ってくればいいのか?」
「それでいい」
ガイキは、手で静止を命じていた戦士達を見ると手招き、内一人が武器を収めて歩み寄ってきた。
ハイローだ。
「ハイロー、心身共に余裕のある男から血を採血しろ」
「…血を?」
ハイローは彼女を一瞥する。
彼女は肩で遊ぶネズミの所為で乱れた髪を後ろに流し、その一梳きで彼女の髪が整う。
「注射一本分で良いらしい。
その後、彼女に治療棟で〝思い込みの術〟で彼等の痛みを緩和してもらう」
「…妖術か」
ハイローは少し間を開けたが、静かに頷いた。
「適当な男を見付けてきます」
「頼んだ。
…ああ、それと、」
ガイキは彼女へとまた視線を向けた。
彼女は日傘の中から翳る瞳をハイローからガイキへと移し、
「…契約は成立ということで構わないか?」
「契約?
詳しい内容を聞こう」
「血を用意する。
だから、怪我の痛みの治療をしてくれ」
「お前の血は?」
彼女の言葉に、ハイローはまた彼女へと視線を向けた。
小柄で細身の女性だが、彼女に殴り掛かり、銃を放った所で勝ち目がないと理解している。
喩え、この軍の皆が束になっても。
もし、彼女が戦闘に通ずる吸血貴なら。
彼等に勝ち目は一切ないだろう。
そのくらい、理解している。
「…分かった。
テントの治療が終わったら改めて契約書を交わす」
「…待て。
この治療では渡さないというのか?」
彼女の真っ赤な瞳の中で火花が散った。
初めて籠もったその不信感に、場が緊張を張る。
そして、ガイキがゆっくりと言葉を紡いだ。
「王の血が欲しいんだろう?
こんなに薄くとも、今やこの血は限られている」
「…そう思うか?」
「この軍が立ち上がってから、十年探した。
だが、少なくとも俺と同等か、より濃い血と思われるものは見付からなかった」
「バカな…」
彼女はそう訝しげにも吐き出すように言った。
そして、静かに思案する。
そんな彼女に、ガイキは先に口を開いた。
「嘘は吐かない。
血に敏いお前にそんな嘘は俺が…俺達が不利になるだけだ」
ベーディは彼女を見上げる。
彼女の綺麗な唇が初めて歪んだが、そうすると彼女の歯の中に鋭く長いものを一対見付けた。
確か〝貫歯〟と呼ばれる吸血貴独特のものだ。
やはり、彼女は吸血貴なのだと、なんだか漠然とした気持ちになった。
彼女の顔が直ぐに冷静なものに戻ると、その歯も唇の奥へと隠れてしまったが。
彼女の慈悲深い血流の色をした真っ赤な瞳が、どこか冷え切った死体のようにガイキを睨んだ。
「吸血貴との交渉で…欲を出すとはな。
肝の据わったヤツなのか、命知らずなのか…」
ハイローの指が、腰に掛かる剣に少し近付いた。
目に見えるかのような彼女の不信感は、彼女の強大な妖力故だろうか。
辺りが緊迫し、今にも武器を抜いて駆け寄りそうな皆を先にガイキが手で制していた。
ガイキは、目の前の吸血貴を見詰める。
ピリピリとしたその空気が荒野の風を不規則にしているが、それでも彼女はこちらに攻撃をしようとはしていなかった。
彼女の欲するものは余程、必要で必要で仕方ないものなのだろう。
だが、それは本当に自分の血だろうかとガイキは考えた。
対峙しているのは吸血貴と人だ。
人に勝ち目はない。
血が欲しければ周りの兵士を殺し、ガイキの肌を引き千切れば良いだけだ。
だが、彼女はそうしない。
それはか弱い人の命の為への慈悲には思えなかった。
彼女は吸血貴だ。
そういう〝性質〟は持ち得ない。
ガイキには、それが分かっていて、彼女の目的は分からなかった。
彼女の不信感は高かったが、吐く息と共にそれを収める。
そして、また冷たい程に静かな顔と声で、
「良いだろう。
お互いに…〝欲〟は高いようだ」
風が吹く。
戦地と染まる荒野を走るそれは、いつも有毒だ。
肺へと入れれば血が詰まり、瞳に入れば光を閉ざす。
即効性はないが、いずれ必ず体に支障をきたすもの。
かつては恵みと言われた風も、吹く時代と土地が違えばただの疫病神だ。
だが、目の前の彼女はその風を〝毒〟と見做していなかった。
外に出ているものは皆が身に着けるゴーグルもマスクもしていない。
妖の中で最も有名な吸血貴である彼女には、身を守るものなど日傘だけで十分なのだろう。
強風にも煽られないそれが作る影は、喪服姿の彼女が忘れたベールのようだった。
「ここは人の王血…平王の軍〝其の国〟」
ガイキが、そう口を開く。
「俺はこの軍の王、ガイキだ」
そう言うと、彼は右手を彼女に差し出した。
彼女はその手を一瞥し、ガイキの顔を眺める。
荒野の中での協定を表す礼を交わそうとする二人に、ベーディはその輪の真ん中から慌ててガイキの後ろへと下がった。
「〝其の国〟…。
名に〝零〟すらも抱かないお前達がそれを名乗るとは……。
なるほど、」
少し、彼女は笑った。
思わずまた見惚れてしまうその婉然とした微笑に、ベーディが唇を噤んでいると、
「シャロノ(白好)だ。
王と名乗るなら、客への礼儀を弁えなければ」
シャロノと名乗った彼女の手が、自分の胸ほど高さへと持ち上げられた。
ベーディにはその意味は分からなかったが、ガイキは直ぐに握手を求めていた手でゴーグルを外してからシャロノの手に添え、腰を曲げてその手に顔を近付けると。
そっと、シャロノの手の甲に自分の額を当てた。
ガイキは直ぐに元の姿勢に戻ってゴーグルを掛けたが、ベーディはただそんな二人を見上げている。
今のが挨拶なのか礼儀なのか分からないが、ベーディには一度も見た事のないやり取りだった。
ただ、滞りなくガイキは元に戻ったし、シャロノも微笑を浮かべたままなのだから、恐らく正しい〝何か〟なのだろう。
「…じゃあ、医療棟へ案内する。
シャロノ…如何にも吸血貴といった名だな」
「私はそこまで知っているお前の名に〝零〟がないのが不思議だよ」
歩き出したガイキに続くシャロノの台詞は、皮肉だ。
それは、ベーディも理解出来た。
二人に続くハイローと共に歩こうとしたベーディだが、ずっと見上げていたシャロノがこちらを振り向いたので思わず顔が赤くなってしまう。
綺麗だと見惚れた相手に視線がバレたのが恥ずかしかった。
だが、彼女はベーディの思いも依らぬ質問を投げ掛けてくる。
「この子の名前は?」
「え?」
明らかに王の側近と見えるのは、ハイローの方だろう。
なのに彼女は、目に見える範囲で何影も居る子供達と明らかな差異のないベーディの名を聞いてきて、
「彼も…王の血が混ざっているだろう?」
「!」
ベーディは、先程の恥じらいが失せた顔でシャロノを見上げた。
思えば、そうだ。
彼女はガイキの血の匂いで彼が王族の遠縁だと見抜いていた。
「…ベーディだ。
〝零〟を持つものはここにはいない」
そう答えたのはガイキで、彼は直ぐに彼女に歩みを促した。
シャロノはその催促に素直に歩を進め、ハイローは俯くベーディの肩を軽く押して彼に歩を促す。
ベーディはそれに従いながらか抱える銃を握り締め、ガイキは辿り着いたテントの扉の布を開けると、
「ここだ」
シャロノは目の前を眺めた。
簡易的なベッドと共に怪我をした人が並べられている。
呻き声。
震える手。
力ない体。
彷徨う生死。
漂う苦痛感。
シャロノは目の閉じる。
隣に座る〝死〟が、皆の潮時を見計らってそわそわしていた。
「血だ」
彼女の目の前に、注射器に収められた赤い血が差し出された。
「苦痛を、紛らわすだけでいい」
ガイキの声に、シャロノは静かに目を開けた。
睫毛で飾られた瞼の幕は、シャロノの瞳と目の前の光景の為に開かれる。
どちらが舞台で、どちらが客席か。
この幕が落ちた所で終演などないシャロノは目の前の血液に手を伸ばし、
「また、とはな…」
白い指が注射器に触れると、もう、そこには。
血など、なかった。