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藍色の宝石

作者: 入野れん

 EFFO(持続的世界構築機構)シリーズ。東京・四谷で洋菓子店を営む西村裕次のもとに、パリに本部がある国際機関で働く従兄のリチャードが訪ねてくる。現代国際政治・NGO・天下取り・自分探し・農業・限界集落・一切れのケーキが世界を変える話。

「やあ、ユージ。繁盛してるか?」


 西村裕次が東京・四ツ谷で開いている小さな洋菓子店に、からん、と可愛らしいドア鈴の音がして、客が入ってきた。


 「リチャード! 久しぶり。いつ、日本に?」


 リチャードは裕次の従兄で、日系アメリカ人だが不自由なく日本語を話し、持続的世界構築機構(EFFO)という国際組織に勤めている。裕次より十歳以上年上だが、毎日、ケーキを食べて腹まわりのかっぷくがよくなってきた裕次より細めで、同年齢ぐらいに見える。


 「ゆうべのフライトで」


 イートインコーナーに座ったリチャードに、アルバイトの女性が水を出した。


 「いや、まいったよ。空港に外務省の役人が待ち構えていてさ」


 「大物(VIP)と一緒だった?」


 裕次が尋ねた。EFFOの幹部には、世界的な政治家や有名人がぞろぞろいて、リチャードは長年、その世話役をしていた。


 「いや、僕一人だったんだが」


 「今度はいつまで日本に?」


 「東京は二、三日かな。何かお薦めはある?」


 ケーキやタルトのならんだショーウインドウをながめるリチャードに、裕次は赤黒い果実がのったカップを示した。


 「これはどう? 新作、フランス直輸入のブラックベリー・ムース」


 ブラックベリーはゼリーでコーティングしていて、つやつやしている。


 「きのう、パリから来たんだが」リチャードが苦笑した。


 「こっちのタルトのイチゴなら国産」


 「じゃ、それをもらおう。それと、エスプレッソ」


 アルバイトの店員が、タルトとコーヒーを運んでくる。


 「なんか疲れてないか?」裕次が聞いた。


 「まあ、いろいろな。周りでごたごたあって」


 リチャードはちょっと笑って、イチゴをフォークで突き刺した。「イチゴの旬って六月だっけ?」


 「露地ものなら五月から六月。でも、今はハウス栽培が主だから、冬が旬みたいなものかも」


 「そうか」


 リチャードはそれきり、だまってケーキを食べ終わると、じゃあまたな、と言って店を出た。



 「裕次、元気?」


 リチャードと入れ違いに、ほっそりした三十代の女性客が、店に入ってきた。


 「咲子」調理台でケーキの飾り付けをしていた裕次は、顔を上げた。


 「何か食べていくか?」


 「時間ないから、いい。これを渡そうと思って」


 咲子が一年ほど前、初めて店でモンブランを食べたとき、美味しい、美味しいと感激し、裕次の手を握って喜んだ。それからこの店の常連になり、半年ほど前から裕次とつきあうようになった。新宿の小さな企画会社に勤めていて、ときどき、外出がてら店に寄っていく。咲子は、バッグからカラーのパンフレットを取り出した。


 「何か新しいことがしたいって、言ってたでしょ。こんなの、どうかと思って」


 「何?」


 パンフレットには、「シェフ、パティシエの方へ 自分で食材を栽培しませんか?」とある。裕次が大判のパンフレットを開くと、山あいの畑で野菜や果実を栽培、収穫の様子などの写真が並んでいる。ざっと見て、場所が山梨県北杜市とあるのを目にとめると、裕次はパンフレットを閉じた。


 「どう? そこのNPO(非営利団体)はまえから知っているけど、結構、面白いことやってるの」


 「うん、ありがとう。考えておくよ」


 裕次は、笑顔で咲子を見送ると、調理台でクリームの飾り付けにもどった。


 咲子にはああ言ったが、この忙しい時期、貴重な週に一日しかない休みに山梨まで行く気にはならなかった。



 その数日後、裕次は朝のしこみをしていて、できあがったイチゴショートの味見をした。


 まあ、うまいとも言えるが、これぐらいならどこにでもある味、その辺のデパ地下でも買えそうな気がした。自分が客なら、金を返せと怒りはしなくても、あえてまたこの店で買おうと思うだろうか。


 東京の一角に小さな店を構えて三年たった。その一年前に一念発起してパリで挑戦したパティシエ・コンクールで銀賞を取ったこともあり、店のことは雑誌やテレビでもちょくちょく紹介され、客も少しずつ増えていった。だが、店を開いてから増えていた売上げは、ここ半年ほど伸び悩んでいる。人手を増やしたいが、今のままでは踏み切れない。


 裕次は今年で三十五歳で、そろそろ結婚しようかとも考えていた。だが、咲子と結婚するにしても、もう少し、店の経営が軌道に乗ってほしい。


 そもそも自分は何がやりたくて、店を開いたのだろう。


 それまでは、都心に店を持つのが夢だった。それがかなった今。店を大きくしたい? 店を増やしたい? それは「手段」であって、「やりたいこと」そのものではない気がする。


 店を持てたのは嬉しいが、それで何がしたかったのだろう。美味しくて嬉しくて、食べた人が幸せな気持ちになる洋菓子をつくりたい、というのは今も変わらないが、何か足りない気がする。


 どこででも買える、ありきたりなケーキを毎日つくること、ではない何か。これではない、何か。そんなものが、本当にあるのだろうか。砂漠の蜃気楼のようなものかもしれない。


 ふと横を見ると、咲子が持ってきたパンフレットがあった。


 もう一度、開いてみる。なんだかこの、子どもたちのわざとらしい笑顔や、いかにもよいことづくめの予定調和のような雰囲気がいやだったが、このさい、一回行ってみるか。気分転換ぐらいには、なるかもしれない。



 三 月



 一カ月後、裕次は山梨の山のなかにいた。中央高速で東京から一時間、高速を降りてから車で四〇分、しだいに細くなる曲がりくねった山道のどん詰まりの、廃校になった中学校が、集合場所だった。東京から二時間でこんな山奥になるのか、とちょっと驚いた。かろうじて舗装されている細い道の両脇に、いくばか残る田畑とまばらな家々が見え隠れする。


 「ここはいわゆる『限界集落』で、住民の平均年齢は六十歳を超えています。農家の高齢化で、耕作放棄地も多くなっています。私たちのNPOは、農地を借りて、都市の人と有機作物をつくっています」


 精悍な顔つきの、若いNPOスタッフが説明する。


 山のなかで陽光を浴びるのは、ずい分、久しぶりな気がした。子どものころ、琵琶湖のそばの田舎で育って、毎日そとで遊びまわっていたものだが。実家に帰るのも最近はせいぜい年一回、法事のときか正月ぐらいで、たいがい二、三日で東京にとんぼ帰りだった。


 今は毎日、夜明けから仕込みをして、週に一日だけの定休は、昼まで寝て、自宅で新作の研究をしたり、資料を読んだりしてすごした。最近は、前日から泊りにきた咲子と街に出てスウィーツの食べ歩きをして、終わった。


 春だというのに、日ざしはまぶしく、目に痛いほどだった。


 ざわざわと風が木立をゆらす。街の木は人に植えられたものだが、ここの木々はこぼれた種から自分で勝手に生えてきた、野生の木だ。


 「あ、こちらです」


 NPOのスタッフが、声をかけた。今日集まったパティシエは四人。一人は顔見知りだった。


 「この区画が、みなさんの畑になります。西村さんの希望は、ブルーベリーでしたね。ハイブッシュ種の苗を用意しました」


 ゆうべの雨を吸って、地面が柔らかい。土の匂いがする。土の匂いなんていつからかいでなかっただろうか。子どものころ以来かもしれない。


 裕次たちはスタッフの指示を受けて、軍手をし、スコップで穴を掘り始めた。


 「ブルーベリーは、日射と肥料で出来が決まります。これは、うちでつくった腐葉土です」


 スタッフが軽トラックから枯れ葉の入った腐葉土を降ろした。裕次たちはスコップですくい、掘った穴まで運ぶ。


 日が高くなり、気温が上がってきた。日差しもきつい。汗が流れて、目にはいった。裕次は首にかけたタオルで汗を拭いた。眩しくて、三月だというのに日に焼けそうだ。最近はドラキュラのような生活だからな、とちょっと自嘲する。


 最後に苗木を植え、水をかけた。


 「お疲れさまでした。これで今日の作業は終了です」スタッフが言った。


 水筒の氷水がのどにしみる。うまい。たまにはこういうのもいいかもしれない。頭上の宇宙まで続くような深い青空を仰いで、裕次は思った。



 四 月



 それから裕次は月に一回、律儀に山梨に通った。


 四月になると、ブルーベリーの白い小さな花がたくさんついた。毎日、ブルーベリーを扱っていたが、裕次は花を見るのは初めてだった。釣鐘型の花は、可愛らしくてけなげで、でも生命力にあふれていた。


 春から夏に向かうころには、無農薬なので雑草が茂る。「雑草という草はない」と誰かが言っていたな、と思いつつ、それでもおいしげる草は除いてやらないと、苗木が埋まってしまう。


 しかし無農薬栽培は、半端なく手がかかる。これはそうそうできなくても、仕方がないかもしれない。昔の人は、農薬なしでよくやっていたものだ。まあ、だから日本人の八割が農民で、ようやく食べ物を自給していたんだが。


 農業は平和的なイメージがあるけど、実際は大量殺りくだ、と裕次は思った。無農薬栽培でも、雑草を引き抜き、害虫をつぶす。ふつうなら、これに殺虫剤や農薬が加わる。自分たちが毎日、食べているもの、扱っているものがどうやってつくられているのか、できているのか、その一端をまざまざと見るのは、新鮮な体験だった。


 裕次はふだん食事をするときも、つくづくと食材をながめるようになった。このうどんの小麦は、オーストラリアあたりで、広大な畑に農薬を振りまいてつくられたのだろう。土はぺかぺかに乾いていないだろうか。ネギは。しいたけは。油あげの大豆は。


 うどんの汁を飲みほし、店を出る。いま食べたうどんは、胃がせっせと消化しているだろう。そして吸収され、裕次の血となり肉となり熱となって、また出ていくのだ。



 六 月



 花が終わると、つぎに実がついた。最初はぽちりと小さくて緑色だったが、だんだん大きくなり、色が赤くなり、それから夏が近づくにつれ、青く色づいていった。


 行くたびに、ブルーベリーが変わっているさまを見るのが、裕次は楽しみになっていた。忙しくしていても、「明日は山梨だ」と思うと、小学生のときの遠足の前日のように、ちょっと楽しみになって眠りについた。


 六月、畑に行ってみると、実は濃い青色になっていた。


 よく熟したブルーベリーを一粒、つまみとった。朝露にぬれて、藍色の宝石のようにきれいだ。口に入れてみる。


 冷っとして、舌でつぶすと濃厚な酸味と甘みが口のなかにひろがった。今まで感じたことのない味。ほのかに土の香りがする。土だけじゃなく、光や空気や木々をわたる風の匂いも感じた。


 裕次は、だしぬけに大声で歌いたくなった。僕がオペラ歌手なら、ここで一世一代のカンツォーネを歌うのに。


 ブルーベリーはゆっくりと口のなかから、喉の奥へと移動していく。裕次に濃厚なエナジーを沁み渡らせながら。裕次は思った。僕はこれで菓子をつくる。それが僕の歌だ。


 裕次は収穫したブルーベリーを持ちかえると、店の厨房でさまざまな洋菓子に使ってみた。ブルーベリータルト、ショートケーキ、チーズケーキ、ムース、パイ。いろいろやってみるが、この濃厚な味をそのまま活かせる菓子になかなかならず、試行錯誤が続いた。


 毎週山梨に通い、試作してみて、このブルーベリーは冷蔵したり火を通したりせず、できるだけ収穫したてを、常温で食べる方がいいことに気がついた。それから、さらにこのブルーベリーを引き立たせる土台を考える。


 ようやく裕次が満足できる菓子ができた。パティシエお薦め一日三○個個限定ブルーベリーのシフォンケーキ。甘すぎないシフォンケーキのうえに、そのままブルーベリーをのせる。ブルーベリーだけで食べるより美味しい、と今のところ裕次が自信をもって思える唯一の菓子だった。



 八 月



 カラン、とドア鈴が鳴って、客が入ってきた。


 「いらっしゃいませ……、あ、リチャード……!」


 裕次は、リチャードの連れの男を見て驚いた。


 「知ってる? うちのボスのクリストフ・デルフィート。こちらは僕の親戚の裕次」


 リチャードが、英語で説明する。


 「コンニチハ」


 「あ、はじめまして(アンシャンテ)」


 裕次が知っている、数少ないフランス語を口にすると、フランス人は、愛想よく笑った。リチャードのボスだというのは知っていたが、テレビでよく見たフランス元大統領が目の前にいるのを見て、緊張した。フランス人のボスは長身で姿勢がよく、ゆるくウェーブのかかったくり色の髪をなでつけている。


 「今週から日本に来ていて、ちょっと時間があったから寄ったんだ。何か、お薦めはあるかな?」


 イートインの椅子に座りながら、リチャードが聞いた。


 「では、これを」


 裕次はみずから、シフォンケーキとカフェオレを二つ運んだ。


 「へえ、きれいな色だ」


 リチャードが、ブルーベリーをフォークですくいとる。


 フランス人は、無言でシフォンケーキを口に入れた。目をつぶって味わっている。


 「すごくうまいよ、ユージ」


 リチャードが声を上げた。フランス人が、何か言葉を発した。


 「太陽と生命の味がするって」


 リチャードが訳した。「育った場所の風景が見えるようだって」


 「メルシ、ムッシュ」


 裕次は嬉しくなって、話した。


 「常温で食べるのがうまいんです。今の季節だけですね。これまで、温室物や冷凍物をなんとも思わず使ってきたけど、本当に美味しいものは、もっと繊細なのものかもしれない」


 リチャードが通訳するのを、ボスはうなずきながら聞いている。フランス人は、ケーキとコーヒーをすべて空にすると立ち上がった。


 「力が湧いてきました。どうぞ、これからもこんな菓子をつくってください」


 リチャードに訳させてフランス人は言うと、裕次と握手して、店を出た。


 手を振って見送りながら、裕次は深い満足感を味わっていた。


 お客さん一人一人のことは知らなくても、美味しさを伝えることはできる。言葉が通じなくても、味は通じる。気持ちが伝わる。だから自分は、この仕事をしているのだ。世の中にはきれいで美味しいものがあって、生きていればそれを味わうことができるのだと。たぶん、自分が伝えたいのは、そうしたことなのだろう。



 九 月



 九月に入ったある日、調理場で仕込みをしていた裕次に、リチャードから電話があった。


 「やあ、ユージ。あのブルーベリーはすごくうまかったよ」


 「そう言ってもらえると、嬉しい。あれは、僕が育てたんだ。山梨の畑に通って雑草も抜いて、収穫もした」


 「へえ、そうだったのか。うちのボスも、あのケーキに感動していた」


 「それはよかった」


 「実はあの人、三〇年来のパートナーに絶縁されて、ずっと意気消沈していたんだ」


 「……それは、大変そうだ」


 「まあ、あの人も悪いんだけどね。謝罪しなきゃいけないのはわかっていたけど、ずっとできなかったんだ。それが、あのケーキのおかげで元気が出たらしくて、アプローチし始めた」


 「へえ」


 「誰でも、やらなきゃいけないことはわかっているのに、あと一歩が踏み出せないでいるってことがあるじゃないか? その一歩を踏み出す力になったらしい」


 「ささやかなことだけど」


 「ささやかでも、それがあるかないかで違うんだ。相手もEFFOの幹部で、和解できるかどうかはわからないけど、あの二人の仲がこじれていたおかげで、EFFO全体に暗い雰囲気が覆っていて、まいっていたんだ。それが変わりそうだ。僕からも感謝するよ」


 「それは……何というか」


 「うちの連中が本気になれば、紛争のひとつやふたつ、解決できそうな勢いだ。ユージのケーキは、世界を変えるかもしれないよ」


 「そ、それは光栄だ」


 「東京に行ったら、また寄るよ。またあのケーキが食べたい」


 「次の夏まであのブルーベリーはないけど、別のを開発する」


 「楽しみにしてる」


 リチャードからの電話が切れた後、裕次は、調理台の上に落ちたブルーベリーを口に入れた。濃厚な、光と空気と生命がつまった味が身体にしみわたる。



 咲子にプロポーズしよう。唐突にそう思った。うまくいかないかもしれないが、うまくいくかもしれない。裕次は、山梨の畑を思い描いた。首尾よく結婚できて、子どもが生まれたら、あの畑に連れていこう。野山をかけまわり、虫をつかまえ、花を摘んだらいい。むかし、自分たちがしたように。そして、ブルーベリーを一緒に育てるのだ。



                           藍色の宝石・終わり



このシリーズは、オムニバス形式で続きます。これまで書いたものも、ぼちぼち投稿しますので、どうぞよろしくお願いします。銀英伝の二次創作も書いています(オーベルシュタインメイン)


詳しくは、下記をご参照ください。


http://www7b.biglobe.ne.jp/~sunkaraishi/


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