プロローグ その2
石造りの祭壇は四方に据えられた篝火によって照らされ、不気味な影を揺らめかせていた。聖火にくべられた供物の、山羊の心臓が焼ける匂いが風に乗って遠くまで漂っている。
もうすぐ晩餐の時間だ。見張り達はさぞ腹を空かせている頃だろう。祭祀のダエムは口を曲げて笑った。
今日は皆に山羊肉が振る舞われる。聖なる儀式に使われるのは心臓のみで、残りは必要ないのだ。今回の儀式は神の娘をめとる大掛かりなものだったから、部族の全員に行き渡るだろう。
ダエムも歳を取り、もう肉は沢山は食べられない。だが、尻の肉か肋のあたりの肉の炙りなら、食べるのに苦労しないだろう。口の中に脂身のとろける様を想像していたダエムだったが、若者の声がそれをうち破った。
「本当に神の娘は現れるのだろうな?」
若き族長、シンハだった。十の氏族をまとめる彼はまだ齢二十二になったばかりだ。しかも、前族長の一人娘であるシンハの妹の夫、義弟のダオは四歳上で、有力な氏族の出身だ。シンハはこの儀式で呼び出した神の娘と結婚し、早く地盤を固めなければならないのだった。
「ご心配召されますな。神の娘は必ずや聖なる泉に現れますとも」
ダエムは安心させるよう笑って答えた。彼はこの若くまだ力が充分でないシンハのことを好もしく思っていた。腕っぷしが良いだけでなく知恵が回り、上手く若い連中を纏め上げている。何より、この若者は欲が無い。周りの者と分け合うことができるのだ。
欲は無さすぎても駄目だが、ありすぎても困る。十の氏族が一つの部族として纏まってからまだ年が浅い。今は争うより和を尊ぶとき。皆の不満を上手くさばき、締めるところは締め、自分の富より全体の満足を取るべきなのだ。だが、ダオでは駄目だ。あの、強欲な男では。
「では、参りましょうシンハ様。貴方の花嫁がじきに現れますわい」
「そうだと良いがな。胸騒ぎがする」
シンハはダエムを置き去りにする勢いで泉に向かって歩き出した。随分気が急いているようだ。ダエムは杖に助けられながらシンハの後を追った。
聖なる泉は、石を削って四角に仕上げたブロックによって整えられている。深さ二メートルの水溜めの底から湧き出す流れは二筋の溝から別の水溜めに落ちて、生活に用いられている。この地に暮らす部族の命の要である。
重要な儀式もここで執り行われるため、泉の水溜めの東側には角石が積まれて壁が作られている。儀式を効果的にするためだ。そして、壁のない三方には階段が敷かれ、泉に入れるようになっている。勿論、儀式のないときに許しなく泉に触れれば死罪だ。どんな理由があれ。
今、西陽の最後の光が聖なる泉に注がれていた。篝火の赤より朱い太陽の死ぬ直前の命の温もりが…。
「出でよ、処女よ。神の娘よ!」
ダエムは叫んだ。
大いなる魔力の奔流を感じる。ダエムは大きく天に腕を差し上げた。
「おお、泉に渦が…!」
半信半疑だったシンハも、目の前で大渦を巻く聖なる泉に刮目した。部族が集まるより昔、祖父の祖父、さらにその祖父の時代に行われた神秘の業の再現に立ち会う事が出来た幸運に心動かされたりはしなかったが、これからは祭祀の言葉をもっと聞こうと肝に銘じたのだった。
その間にも、渦はどんどん勢いを増し、そして爆音と共に水柱を噴き上げた。
「うぉ、ダエム、ダエム! これは大丈夫なのか?」
シンハは驚き叫んだ。
「!」
水柱が収まった後には、不可思議な黒衣に身を包んだ少女が立っていたのだ。象牙色の肌の背の高い少女は、濡れた髪を肌に落として、今にも倒れそうな様子だ。
シンハは足が泉に浸かるのも意に介さず、駆け寄って少女を抱きとめた。
「ダエム…」
「成功ですじゃあ! よっひょひょ!!」
「ダエム…?」
「ワシはやった! やりましたぞー!」
シンハは思った。
あ、これはダメなやつだ、と。
こうなったら話なんて聞きやしない。
もうすぐ夜になる。早くこの少女を乾かしてやらなければ。
シンハは不思議な娘を抱えて自分の家に戻った。婆やに着替えと布を用意するよう言いつける。自分の分も頼むのを忘れなかった。
「さて、よく分からん。この服は裂いてよいのか?」
神の娘は自分の衣を使えなくされたら怒るだろうか。昔話の神の娘は、衣を隠されたために神の国へ戻ることが出来なかったという。
ならば、ここで裂いておくのも手だが…。
「まあ良い。とりあえず脱がすか」
シンハは自らも服を脱いで下履きだけになると、奇妙な服を脱がせ始めた。下の布から出ている足は、今まで見たことの無い不思議な肌の色をしている。滑らかなそれらには疵一つない。
服は濡れて貼りつき、意識のない娘から取り除くのは一苦労だった。おかげでこちらは汗だくた。髪を絞ってやり、上を脱がせて驚いた。
「なんだ、まだ子どもではないか」
俺には子どもを抱く趣味はない。これでは困る…。
「ダエムめ!」
シンハはここにいない祭祀を罵った。せいぜいくしゃみでもしているがいい!