犬は老人、そして兎
逃げていた。その為に走っていた。何から、といえばそれは昔の人間関係だとか、自分の領域に這入り込もうとする不快であったり、私を壊そうとしてくる感情だった。
二つある出入り口から、誤った側に飛び出してしまったらしい私の前には、色のない海が広がっていた。波は立っていなかった、静かな海だった。曇天が海から色を奪い、くしゃくしゃにした銀紙みたいな一面がそこにあった。
砂浜へ飛び出し足をもつれさせた。ふと見れば、それは知った場所だった。砂浜から戻った松の枯れ木立の合間。枯れた松の細い葉が、獣道の両端に散らかっていた。ベージュを彩る鮮やかな茶色、命の跡。
ドロリともたつく足で、その木立を駆けた。恐らくもう、誰かが追ってくることはなかった。しかし走った。私は確かに追われていた。
彼に出会ったのはその時だった。私の走る小道から、もうひとつ内の小道。それほど離れていないが、しかし近くもない。
こんな場所に、こんな人がいるなんて。西洋の片田舎を装った彼を、私は老人だと一目見て思った。松の葉の色をした長いコートと、同じ色の帽子を目深に被っていた。そしてその下からブロンドが覗いていて、それは背中でひとつにまとめられていた。口には煙管か何かを咥えていたように見えた。煙は出ていなかった。足にはブーツを履いていた。クリーム色の、毛の多いブーツだった。
リードに繋いだ犬が、彼の前を歩いていた。草の陰で隠れてしまいそうな子犬は、長い灰の色の毛を揺らしながら、忙しなく歩いていた。
私の走るその道が、十の字に別れた。彼のいる道へ行けば、私はもっと早く逃げられる。あの道から、奥へ入って、帰ることができる。
果たしてどこに帰ろうとしたのか、私は私のことが分からなかった。しかしそんなこと以上に、私は逃げていたのだ。
犬は苦手だ、と眉を顰めながらも、私は右へと曲がった。老人と子犬が散歩する道へ向かった。丁の字を左に曲がる、老人の背が見えた。
私はそこで息の止まる思いをした。ぎょっとする、ということはまさにそれで、私がブーツだと思っていたそれは、彼の足だった。そう、足で、それは彼の体毛だったのだ。
犬の足だ。
そして、コートの裾の少ししたには股が見えていた。こんなに短い足の人間はいない、それくらい不均衡で、私はそう気付いた。
そしてその真偽を確かめるために、私は彼に追い付く。その時異形への恐怖は確かにあったが、それ以上に確かめたかったのだろう。
追い抜き様に盗み見た彼の横顔、すっと通った長い鼻、中世の肖像画みたいな閉じられた口、哀愁を湛えた目。彼は確かに犬であった。
視線は合わなかった。犬が怖いなら目を合わせるな、犬は目で人を見る、そういった母の言葉が私を救ったのかもしれない。定かではなかった。私が彼を認めるのに時間を要さなかったことも、その一因だったのかもしれない。しかしそれは幸いなことだったろう。
ただ、彼は私も子犬も見ずに、ずっと前を向いていた。
そのまま走り過ぎて、私はもうひとつ彼という異形からも逃げることになった。彼は私を追いはしなかっただろう、しかし私は歩くことができなかった。
まばらに立つ木、散らばった松の枯れ葉と、枯れた草むら。波の音もなく、私が駆ける音だけがあった。バルビゾン派の絵画みたいな色合いの世界だったと思った。
がさりと脇の草むらが揺れて、驚いて目を向けた。一匹の子犬が草むらから飛び出し、私の先へ走り抜けていった。そしてもう一匹、もう一匹。
犬が苦手な私は戦いた。こっちを見るな、寄ってくれるな。
次々に飛び出す子犬。次はどこからだ、走る足は止めずに、しかし焦る私へと、影が飛んでくる。
驚き、首をすくめた私の目前に踊り出したのは、兎だった。枯れ草のような色をした、小さな兎。
途端に茂みを揺らす音が増えた。私の走る先へ向かって、両脇を兎が駆け抜けていった。
たくさんの兎。何びきもの兎だった。それは次々と私を追い抜き、先へ先へと消えていった。それは幻想的な風景で、私に、
――私に、私に、
目が覚めた。私の視界を占めるものはなく、部屋の白い天井が、若草色のカーテンが、夜の帳の色に染まっていた。
現実のそれではない光景は、私の脳裏に焼き付いていた。
水音がした。蛇口が少し緩んでいるのだろう。
モーターの音が小さく聞こえた。エレベーターを誰かが使っているのだろう。
ふと、恐怖の腕を私を食んだ。言い様のない、姿の見えないものだった。あれは何だ? 私は何を見た?
穏やかな顔をした彼を思い出すと、寒気が背筋を這った。それは異形を恐れた故か。
駆けていく兎を思い浮かべて、不安に頬を撫でられた。絵画みたいな色の世界で、私はいったい何を見たのだろう。
現に連れ戻された私を、這い上がるような怖が抱擁で迎えた。私はそれから逃れることが敵わなかった。
夢の話。