睡眠依存症
目を閉じれば眠ることができた。
その事が非道く、恥ずかしく、苦しく、恨めしかった。
丈夫に生まれた体が、何よりも煩わしかった。
眠ることのできない他人が羨ましく、恨めしい。
私の体は私を守ろうと勝手に全力を尽くしてくれる。
眩暈や頭痛とは縁がなく、日々を多少の眠気と共に過ごすだけで、何事もない。
精神は着々と蝕まれているはずなのに、際限なく引き絞られているはずなのに、私の体は正常に機能している。驚くことに狂う気配はない。ストレスは感じても、一時のものだ。振れる余地はない。逸脱はしない。この真っ当さの真上を強固なレールと堅牢な外壁に守られて進んでいく。抗いようのない正確無比な正論が、重く私に伸し掛かっていて、私の精神はそれが苦しいのにも関わらず、私の体は動くことができる。
何とも喜ばしい事であろう。私は健康なのだから。
心は疾うに軋みが限りに達そうとしている。しかし恐らく私は死なないであろう。この程度では死なないであろう。私の精神は限界を迎えているが、実の所はそうでもないのだから。
本当に苦しみ死んでいけるその苦しさの、まだ何分の、十何分の、はたまた何十分の一にも満たない、詰まることない苦しみなのである。死なせて貰える訳はない。
しかし恐ろしいことは、私が死ぬことのできる苦しみはこの何倍もの大きさであるということだろう。この苦しみよりも大きな苦しみが来ることがあるなどと信じられず、私の足は竦むばかりだ。
こんなに苦しんでいるのに、正常な機能を果たす。
果たしてこの苦しみは本当に苦しみなのだろうか。私の感じるこの感覚は、私の一部が異常にして苦しみと捉えるだけの、平凡平穏の、満ち溢れたものかもしれない。
私が感じる以上この苦しみは苦しみであるが、しかし苦しみでないとすれば何であろうか。漏らされた愚痴の延長をただ聞いただけの、取るに足らない詰まらないものかもしれない。浅瀬で転び溺れているだけの、恥ずかしい一人芝居かもしれない。そうであったら、私は何故こうまでして精神を冒されていなければならないのだろう。
それが私の弱さであろうか。
他者との逸脱であろうか。
私の狂いであろうか。
陶酔であろうか。
心臓を握られる様なこの感覚も、嗚咽か嘔吐にでも似た感情も、しかしは私の体の健全な自己防衛にかき消されるのだ。足下から這い上がり、不埒に理不尽に暴虐に、私を蹂躙したこの苦しみは、喉元に添えられた見えざる指は今の間だけ苦しくて、しかしそれをこの眠りの淵に置き去って、私の目は覚めるのだろう。
明日の朝になって、気だるさと共に私の目を醒ますのだろう。