自分の世界
お前の見てる世界なんて、所詮ちっぽけな世界で、
言っちゃ悪いが、何も見えてないのと同じでくらい酷い話。
お前の見えてる世界なんて、せいぜい半径数mの世界で、
その先にいる人間が何を考えて、何をしようとしているのか?
そんなことを少しも察知できないような、ごくごく小さな世界。
沢山の人と一緒にいるように見えて、実は孤独な物語。
お前の生きている世界なんて、本当の世界からしてみりゃ何でもない。
死んだところで、何の影響力もない。 言ってみりゃ可哀想な人間。
少しの人が悲しんで、 少し多めの人が適当に涙して、
それで、何人かの人が、「あっ、そう……」と別に嘆くこともせず明日を生きる。
だけど、それは大体の人がそんな生き様・死に様。 仕方のないこと。
影響力のある人間なんて、本当の世界を見まわしたってほんの一握り。
じゃあ、そんな世界の中で俺は何ができるのかってことを考えてみる。
俺が死んだときに涙してくれる人は……
別に適当にでもいい。 とりあえず、涙してくれる人はいるのだろうか?
そう考えたら、あんまし多くの人が思い浮かばなくって、
強いて言うなら、両手で収まる程度がいいところで、
むしろ、俺が死んだのすら気付かない人だっているんじゃないのか?
例えば、昔の友人とかさ――――――――――
別に世界に影響がなくっても、せめて俺の見えてる世界に影響があるように。
そうやって、生きてみたいって思うわけよ。それが生きてた証ってもんでしょ。
頑張って教科書に残ろうとか、無理して何かを成し遂げようとか、
そういった話じゃなくて、ごくごく自然に生きて死んで、何かを残していきたいんよ。
そう願って、今日を生きる。 そう思って、明日を生きる。
教科書に残りたいんなら、何か大きな事件を起こせば載るでしょ?
でも、俺はそんなとこにじゃなくて、 そう。 お前の心に残っていたいんよ。
人は2度死ぬって言うでしょ? 命を失った時と、誰かに忘れられた時。
別に、俺は死にたくないとかは思わないし、
むしろ、『人生なんてなるようにしかならない』と思っているような奴だから、
いつ死んでも構わないと思っているけど、どうせ生きるなら“俺という証”を残し逝きたい。
俺の見ることのできる世界なんて、所詮ちっぽけな世界で、
どれだけ一生懸命に手を伸ばしたって、届く範囲には限界があって、
俺の知ることのできる世界なんて、ごくごく小さな世界だけで、
それをいかに本当の世界に近付けたかが、多くの証を残す方法で、
どうせだったら、祈ってほしい。 泣かなくたって、手を合わせてほしい。
「やりたくない」とか「やらなきゃいけない」じゃなく、
俺に残されたのは、いつだって『やるしかない』だけで、
逃げたらそこでオシマイ。 そのチャンスは誰かの元へと転がり込む。
『誰に渡すか?』で迷っている暇があったら、まずは俺が根こそぎ。
そういう精神で、全てを掻っ攫って、誰かに幸せを還元できたらいいね。
分かち合うことで増える繋がり。 俺の物語だって、いつかは大家族。
いつ死んでも構わないからこそ、目の前のことに真摯で生きたい。