蛍池の怪
文芸部部誌・題「自由題」より
蛍池には、長い髪の女の幽霊が出る。遠い昔、ある女がこの辺り一帯の地主の息子と恋仲になった。それを怒った地主は女に息子と別れるように迫ったが女は動じなかった。様々な嫌がらせや恐喝にも女は耐え、息子の方も地主が説得しても女と別れようとしなかった。そうして焦れた地主はついに実力行使に出、暴漢に女を襲わせて殺した。女が殺された場所、それが今日の蛍池である。
「うわ、懐かしい。その話、久しぶりに聞いたわ」
大学の講義の空き時間。
若宮早穂は、家庭教師のバイトの教え子から聞いた話を友人の榮村泉水に話した。すると、泉水が可笑しそうに笑った。
「泉水も知っているのね」
「そりゃねえ、あの辺の子ならみんな知っている話だもの。私も昔、友達から聞いたわ」
「そうなんだ」
泉水は大学所在地から近くの生まれで、家庭教師のアルバイト先の紹介をしてくれたのも彼女である。早穂は実家が遠方で大学近くのアパートで独り暮らしをしている。
「それより、陸はちゃんと勉強をしている?」
「うん。でも、陸くん、勉強は嫌いみたいだね」
日生陸、というのが早穂の教え子の名前だ。彼は、泉水の高校の後輩で小中学校も同じ幼なじみだ。
「まったくアイツは昔からそうなのよ。去年なんて大会前に赤点を取って部活停止になるとこだったのよ。私と悟とで必死にテスト範囲を詰め込んで何とかセーフ! ホント困ったものよ」
何か面白いエピソードでも思い出したのか、泉水は楽しそうだ。そう言うと、泉水は陸のびっくり愉快な昔話を色々教えてくれた。だからだろうか、陸たちとはそう長い付き合いでもないのに、彼ら兄弟には物凄く親しみがわいていた。
泉水の話になるが、彼女は高校時代に剣道部のマネージャーをしていた。私や泉水の一歳下の悟という陸の兄も剣道部で、日生兄弟は二人揃って有力選手だったらしい。
「剣道部、もうすぐ大会みたいだしね。赤点にさせない程度にしごいてやってよ」
泉水はそう言って、ニッと笑った。早穂は苦笑しながら了解と頷いた。
「それじゃ、このページの問題は次の授業までにやっておいてね」
「うわあ、早穂さん。それはヒデーよ。無理だって」
金曜日。日生家、陸の部屋が早穂のアルバイト先だ。本日の授業は陸の一番苦手な英語。
陸は何だかんだ文句を言いつつも結局は大人しく授業を受ける素直さが可愛い。でも、そう言ったらきっと怒るだろうな、と早穂は思った。
「はあああ。あ、早穂さん、今日もウチで晩飯食ってくよな」
「うん。おばさんが今日は焼き肉だから、ぜひって」
「おお、肉だ! やった!」
陸は無邪気に笑う。本当に嬉しそうだ。早穂には実家に帰れば、陸と同い年の弟がいるが、彼は無愛想で可愛げのあるタイプではない。こんな可愛い弟がいれば良いのに、と考えていると陸の部屋の扉が叩かれた。
「陸、若宮さん」
「兄貴!」
扉が開いて、陸の兄の悟がやって入って来た。悟は帰宅したばかりのようで学生服を着ている。陸と悟は整った顔立ちはよく似ていたが、雰囲気は全然違っていた。太陽みたいに明るい陸に対し、悟は理知的で落ち着いていた。
「こんばんは、若宮さん。陸、母さんが晩御飯できたって呼んでいる」
「よっし! 兄貴、今日焼き肉だって!」
「知っている。本当にお前は昔から肉好きだな」
そう言って、喜ぶ陸を見ながら悟は苦笑する。本当にこの兄弟は仲良しだなと思う。この二人を見ていると何故だか実家が恋しくなる。弟や両親は元気でやっているだろうか。早穂はふと考えた。
「いつも、陸の家庭教師ありがとうございます」
日生家での夕食を終え、駅までの道のりを早穂と悟は歩いていた。最近、この辺りでは変質者が出るらしく、女の一人歩きは危ないと悟が駅まで送ってくれるのがここ数週間の習慣になっていた。最初は受験生の悟の勉強を邪魔しては悪いと断ったのだが、外に出るのは、いい気分転換になると悟が言い、送ってもらうことになった。
「お礼なんてとんでもない。悟くんこそ、いつも送ってくれてありがとね。受験勉強が大変な時期なのに」
「俺の方こそお構いなく。ずっと部屋に籠って勉強していると気が滅入りますから、良い気分転換になります。……話は変わりますが、榮村先輩には駅まで送っていることは言わないで下さい」
「え、泉水? うん、別にいいけど。どうして?」
何の脈絡もなく出てきた泉水の名前に首をかしげる。
「先輩に知られたら……」
何かを言おうとして、悟は口をつぐんだ。そして、黙り込む。ほんの少しの時間のはずなのに長く感じた。
「……心配性だから。ちゃんと勉強しろって怒られる」
悟は無理やり言葉を紡いで苦笑した。それから、悟は何か考え込んだような神妙な顔をして黙り込み、なんとも言えない重い空気のまま、駅に着き、二人は別れた。
「……悟」
早穂と悟の後方に、電柱に隠れるようにして立ち尽くす長い髪の女がいた。駅まで歩く二人の姿をひそかに見ながらそう呟く女がいたことに、気付く者は誰もいなかった。
「早穂さんは冬休み、実家に帰るの?」
今年最後の家庭教師の日。いつものように英語の問題を陸に解かせ、解けなかった問題の解説を早穂がする。その工程が一段落した頃、陸が尋ねてきた。
「うん、補講があるからね。三十日にはいったん実家に戻る予定だけど」
「へえ、そっか。なら、大丈夫だね」
早穂は陸の物言いに首を傾ける。
「何が、大丈夫なの?」
「二十五日は空いている?」
どうやら、早穂の疑問はスルーされたらしい。こういう人の話を聞かないところは、実家にいる弟によく似ている。
「空いているけど…。クリスマス会でもやるの?」
家庭教師を始めた頃、何も知らずに陸の誕生会に呼ばれて驚いたことがあった。陸は高校でも目立つ明るい人気者タイプらしく、友人たちと集まったりすることが多く、その集まりに早穂は呼ばれたのだった。これは、泉水からの情報である。
「違うよ。えーと。……しいて言うなら肝試し、みたいな?」
出てきた言葉に唖然とする。こんな真冬に肝試しとは、中々斬新だ。早穂の疑問が解ったのか陸は説明を続ける。
「ただの肝試しじゃないよ。ほら、前に蛍池の幽霊の話をしたことあるだろ?」
「ああ、…あの伝説ね」
早穂が呟くと陸はそんなんじゃない、と口調を荒げる。
「ただの伝説とか、迷信の類じゃないんだよ。うちの部の女子がさ、見たんだ。蛍池で髪の長い女を」
「えっと…、何かの見間違い、とかじゃなくて?」
「違うよ。それに見たのは一人だけじゃないし。三原はともかく瀧本は悪ふざけでそんなことを言うようなやつじゃないからさ。ほっとけないし気になるだろ」
三原に瀧本というのは、陸と同じ剣道部に所属する同級生の女子生徒だ。今までにも陸が剣道部のことを話題にして話すときに出てきたことがある名前で、三原は明るくノリのいいミーハーな性格だがその反対に瀧本は真面目で固い性格らしい。正反対な二人なのに、仲が良いのが不思議だ、といつだったか陸が笑いながら話していたことがあった。
「まあ、話は解ったけど、どうして二十五日に肝試しなの? それに、どうして私なのかな? 陸くんは友達多いのだし誰か別の子でも誘えば来てくれるんじゃないの?」
「二十五日は、その女が殺された日だって、泉水先輩から昔聞いて。……それに、五年前の事件もあるから、他のやつらは怖がって来ないし…。早穂さんは怪談とか大丈夫な人だろ」
陸はそう言って、早穂に頭を下げた。陸に頭を下げられるのは初めてだ。彼が物凄く真剣なのだということが解る。
「お願い、早穂さん! 一緒に来て。着いてくるだけでいいからさ。頼むよ」
陸はかなり切実なようだ。そして、早穂はお人好しで昔から押しに弱かった。
「わ、解った。だから、ほら。ね、頭上げてよ」
「ありがとう! 早穂さん!」
結局、早穂は頷くしかなかった。元来の性格は例え不気味に感じるようなことでもどうにもならないらしい。全く損な性格だ。
こうして、早穂は陸の頼みを断れず、クリスマスの夜に、季節外れの肝試しをすることが決定した。
十二月二十四日。早穂は、大学の附属図書館で新聞を読んでいた。それも、全て五年前の十二月二十五日付近のものである。先日、陸の勢いに飲まれて、肝試しに行くことを了解したが、あの時に陸の発した【五年前の事件】という言葉が気になった。
(えーっと、【五年前】、【蛍池】の事件は、と)
そうして、新聞を読んでいくうちに【蛍池】の文字を見つけた。地元紙の小さなスペースに、載っていた記事。
『小学生の女児が行方不明
S市に住む会社員花村雅彦さんの長女美波さん(⒓)が、二十五日の夕方より行方が解らなくなっている。この日、美波さんの通う小学校では終業式が行われて午前中には下校となった。美波さんは一度自宅に帰り、昼食を食べた後、「友達と遊びに行く」と言い、その後、足取りが掴めなくなった。美波さんの家族や小学校の児童によると、美波さんは地元にある蛍池という池の近くで遊んでいたことが多かったという。しかし、当日に美波さんと遊んでいたという子は見つからず、自宅付近では変質者が出没していたという情報から、美波さんは変質者によって連れ去られたのではと警察は捜査をしている模様である。何か目撃されたという方は、S市警察署まで連絡を……』
(これだ)
早穂は、思った。
五年前で十二歳の小学生の女の子の行方不明事件。陸が、【五年前の事件もあるし。だから、他のやつらは怖がって来ない】と言っていたのに納得する。陸は現在高校二年生、ということは五年前には小学六年生で、行方不明になった少女、花村美波と同い年ということになる。陸の必死さや蛍池が陸の家の近くにある、ということから蛍池を遊び場にしていた花村美波と同じ小学校に通う同級生だということは、ほぼ間違いない。
(陸くんは、花村美波と同級生だった。あの異様に必死な感じから、親しい友達、もしくは好意を抱いていた、ってことなのかしら? それに、陸くんの同級生の女の子たちの長い髪の女の目撃談。陸くんは、長い髪の女に会いたいと思っている…?)
「陸くんは、花村美波を連れ去った犯人が【長い髪の女】だと思っているとか?」
「あれ、早穂。何しているの?」
突然の背後からの声にハッとして振り向くと、同じ学部の友人、辻村麻奈美と喜多村千夏が立っていた。
「マナ、千夏」
「あ、これ、蛍池の殺人事件の記事じゃない! あんた、何見てんの!」
「え、殺人事件?」
麻奈美が眼をむいて叫び、あまりの驚きに早穂も大声を上げた。
「ちょっと、二人とも静かに」
人差し指を前に出して静かにするように言う千夏の言葉に、早穂と麻奈美は自分の口を押えた。周りにいる人々が早穂たちの方に注目を向けていることに気付き、いたたまれない気持ちになる。
「とりあえず場所を変えましょう」
千夏の提案に、早穂は慌てて新聞を元の場所に戻して麻奈美や千夏と共に図書館を後にした。この時、慌ててその場を逃げ出すように移動した三人は、その様子を恨めし気に見る者がいたことに気付くことはなかった。
「それじゃね、早穂」
「また、明日ね」
麻奈美と千夏はそう言って、早穂と別れた。早穂は麻奈美に聞いた話を、頭の中で整理しようとしていた。
大学の図書館から、早穂たち三人は大学近くのファミレスに移動した。そして、蛍池の事件を聞いた。千夏は早穂と同じく遠方からの下宿組だが、麻奈美は地元出身で、泉水や日生兄弟とは小学校は別だったが、中学校は同じだった。そして、彼女は蛍池の事件について知っていた。
早穂は、アパートの近くのコンビニで夕食のカップ麺を買い、アパートまでの道のりを歩く。そして、アパートの二階、自室の前には見知った顔があった。
「悟くん」
学生服の悟が壁にもたれかかるようにして、早穂の帰りを待っていた。家庭教師を始めるときに連絡先としてこのアパートの住所を陸に教えたことがあったので、悟がこのアパートを知っていても不思議なことはない。けれど、陸ならともかく、彼がここにいる理由が解らなかった。
「若宮さん、榮村先輩には深く関わらない方がいい」
「え?」
早穂をまっすぐに見て、悟が言う。少し低くて、どこか冷たいような鋭い声。そして、どこか苦しいような表情。
「もう俺や、陸とも会わない方がいい。だから、陸の家庭教師も、この前で終わりです。俺たちの家にも二度と来ないで下さい」
それだけ言うと、悟は立ち去った。
翌、十二月二十五日の午後六時。早穂は、神社の鳥居の前で陸を待っていた。一晩考えた結果、陸との約束を守ることにした。待ち合わせ場所は蛍池のある蛍森神社の鳥居の前だ。早穂は蛍池という名前はここ何日かでよく聞いたが実際に来たことは一度もない。
蛍森神社の社の奥には雑木林があって、そこの奥深くに蛍池がある。蛍池が五年前の事件が起こる前までは子供たちの格好の遊び場だったと教えてくれたのは麻奈美だった。蛍森神社は人気がなく、暗い場所が苦手ではない早穂も少し恐怖を感じる。
「ごめん、待った?」
早穂が神社についてから五分ほど経ってから、陸はやって来た。手には懐中電灯と大きな鞄を抱えている。
「それじゃ、行こう。早穂さん」
そう言って、陸は神社の奥の方へ歩き出した。早穂も陸の後を追った。
「あの、陸くん。ちょっと聞いていい?」
「何? 早穂さん」
神社を通り抜けて、雑木林を歩く。そこは物凄く静かで、早穂と陸の足音が不気味なほど、よく響く。光源は陸の持つ懐中電灯だけなので、かなり暗く、足場も悪い。
「五年前の事件って何?」
回りくどいことはせず、直球で聞いた。早穂は自分の声が震えていることに気づいた。
「……何って、どうせ早穂さんは俺と違って頭いいから、ちゃんと調べているんだろ。でも、いいよ。教えてあげる」
陸の声はとても冷めた感じで、背筋が寒くなった。いつもの周りを明るくする太陽のような雰囲気ではない。
「殺されたんだよ。俺が小六のときの同級生、花村美波が。この蛍池で」
早穂が調べた新聞には、花村美波が行方不明になったという記事があった。しかし、行方不明になった翌日、花村美波は死体で発見されたのだという。これは、麻奈美が教えてくれた。
「あの、長い髪の女に!」
静かな雑木林に怒りに震える陸の声が大きく響く。そして、陸は立ち止った。陸の照らす懐中電灯の先には、黒い池が見える。
「ここが、蛍池……」
辺りが暗すぎて何が何だかよく解らないが、ついに蛍池に着いたようだ。早穂は池の方に近付く。
「陸くん、どうして私をここに」
連れて来たの、と早穂が言い終わる前に身体に強い衝撃を受け、早穂はバランスを崩し、蛍池に落ちた。大きな水音が静かな雑木林に響く。
「ごめんね。早穂さん。泉水先輩が教えてくれたんだ、美波は一人で寂しがっているって。だから、早穂さんも美波のところに行ってよ」
感情の失せたような冷たい声。陸らしくない。そう思いながら、頭の中ではもう一つ別のことを考えていた。昨日、麻奈美から聞いた話、そして陸や悟の言葉。そんなことは、ありえないのに。ある可能性が思い浮かぶ。
(泉水……)
あまりの水の冷たさと、息苦しさに早穂は意識を手放した。
『事件が起きたのは、今から五年前のクリスマス。行方不明になって殺された子は榮村とか早穂の家庭教師の教え子の日生兄弟とかと同じ小学校の六年生の女子。私は噂だのなんだのって気にしないし、よく知らなかったから詳しいことは解らないんだけど、同じ小学校出身の子から聞いた話、彼女はある意味で目立つ子だったんだって。あの日生兄弟の兄の方なんだけど、彼、すごい人気があってね、女子にモテまくっていたのよ。で、〈あの子〉は日生兄弟と幼なじみで、兄妹みたく仲良しだったの。それで、女子連中は嫉妬していたらしくて。で、これが事件にどう関係があるかっていうのはね、〈あの子〉ものすっごい陰湿ないじめに遭っていたの。まあ、女子は怖いからね、日生兄には気づかれないように裏でこそこそとやっていたのよ。それで、〈あの子〉はいつも女子の中じゃ孤立していたんだけど、そんな彼女にも一人の女友達がいたの。それが、榮村』
【榮村先輩には深く関わらない方がいい】
『〈あの子〉が死体で発見されたことが解ったとき、私は日生兄や榮村と一緒にいたの。私、中学の頃は剣道部だったからさ。榮村は号泣していたわ、見ているこっちが辛くなるくらいに。でも、彼は涙なんかこれっぽちも見せなかった。何か難しい顔をしていてね。私、幼なじみの女の子を殺されて、泣きもしないなんて冷たいやつだと思った。でも、……今思えば日生兄の反応の意味が解るわ』
【もう俺や、陸とも会わない方がいい】
『あの日のことは今でも忘れられない。思い出すだけで背筋がゾッとする。あれは、私が中学三年に上がったばかりの頃。事件から三ヶ月後になるんだけど、部活が終わって同じ剣道部の同学年の子らと帰ろうとしていたときに部室に忘れ物をしているのに気付いて慌てて戻ったのよ。部室は剣道場の建物の中にあって、剣道場は他の運動部の部室から離れているから人気がないのよ。それに、剣道場は学校の敷地の一番奥にあるからさ、面倒だなって思いながら剣道場に着いたら、部室にまだ電気がついていたのよ。誰が残っているんだろうって思って声を掛けようとしたんだけど中から声が聞こえてきて、耳を澄ませてみたの。中にいたのは榮村で、「アイツは死んでも私の邪魔をする。悟はアイツなんかの傍にいていい人じゃない。私が隣にいる方が相応しい」、って言っていたのが聞こえて……。ゾッとしたわ。私、彼女とそれほど親しくはなかったけど、優しい世話上手ないい子だなって思っていたから本当に驚いた。声がいつもの感じと全然違っていて、すごく冷たくて』
【先輩には駅まで送っていることは言わないで下さい】
『それで、もしかしたらって考えた。全然気づかなかったけど、後から考えてみたら、榮村は日生悟のことを本当に好きだったんだなって思える場面がいくつもあったの。彼女と〈あの子〉は仲良しだと思っていた。でも部室で言っていたことからしても、彼女は〈あの子〉を嫌っていた。それで、私はいじめの主犯が榮村じゃないのかなって思ったの。日生兄と親しい〈あの子〉に嫉妬していじめたんじゃないかって。日生悟もよく見ていたら、榮村を避けているように見えた。何かしら気づいているんじゃないかって私は思っている。だから、榮村とか日生悟には絶対に関わらない方がいい』
「んん……」
早穂が目を覚まして最初に見たのはいつも無愛想で可愛げのない、無表情な弟の泣き顔だった。
「しょーちゃん」
「姉ちゃん!」
「早穂!」
「大丈夫か」
弟と両親が、みんな泣きながら、早穂を抱きしめる。早穂は一体どういうことなのかよく解らなかった。
(私、生きている?)
早穂は陸に蛍池に突き飛ばされた。真冬の池の水は物凄く冷たくて意識もすぐに朦朧としていた。
(誰かが助けてくれた?)
あの現状ではどう考えても陸ではない。だとしたら誰なのか。そんなことを家族に抱きしめられながら、回らない頭で早穂は考えていた。
日生悟が早穂の見舞いに来たのは、早穂の意識が回復して二日が経った、一月四日の夕方だった。早穂は一週間も意識不明であったらしい。
「今日は顔色が良さそうでよかったです」
悟は学生服で高校指定の通学鞄を提げ、片手には小さな花束を抱えて早穂の病室にやって来た。早穂が入院する病室は個人部屋なので二人きりになる。
「まだ冬休みだと思うんだけど、どうして学生服なの?」
「高校に寄る用事が出来たので」
悟に聞きたいことや言いたいことは色々あるのだけれど、どう尋ねればいいのか解らなかった。弟や両親も、早穂の身に何が起きたのかは一切聞かなかったし、言わなかった。
「………」
「………」
悟も悟で難しい顔をしたまま、黙り込む。きっと、彼もどう話を切り出せばいいのか迷っているのだろう。
「少し、外に出ませんか?」
早穂は、この悟の言葉に頷いた。
一月の夕方というのは、想像以上に寒かった。冬の風は冷たく身体はブルブルと震える。けれど、冷たい風に冷やされてか、気持ちがすっきりする。これは、早穂が入院してから外にあまり出歩かなかったことが起因しているのかもしれない。
「やっぱり、冬だね。すごく寒い」
「すいません。まだ病み上がりの若宮さんには酷でしたね。場所を変えましょうか?」
「ううん。寒いけどね、冬は嫌いじゃないの。冬の風は冷たいけど、気持ちがすっきりする」
病院の中庭を少し歩き、設置してあるベンチに座った。悟が少し待っていてくださいと言って、病院内に戻った。少し経ってから、悟は缶コーヒーを持って帰ってきた。
「どうぞ、温まりますよ」
早穂はありがとう、と言って受け取った。缶は温かくて、冷えた指先を温める。一口飲むと、身体中に温かさが広がるような気がした。
「あったかいね」
早穂の言葉に悟はそうですね、と柔らかく微笑んだ。でも、その表情も一瞬で暗いものに変わる。
「若宮さんに話があります」
そう言って、彼は、早穂の方にまっすぐ向き直った。
悟の話を簡潔にまとめるならば、早穂を助けてくれたのは彼だった。ここ数日、様子のおかしい弟を心配して、後を付けたのだという。
「十二月二十五日。……毎年、美波の命日が近づくといつも陸は情緒不安定になります。だから、今年も心配していて。でも、若宮さんに家庭教師をしてもらうようになって、例年に比べると陸は落ち着いていました」
だから、悟含め彼らの両親は安心していたと言う。幼なじみの女の子を亡くすということは小学生の男の子にとって、相当な心の傷になるだろうと簡単に想像ができる。
「おかしくなったのは、若宮さんが今年最後の家庭教師にくる少し前でした。例年と同じように情緒不安定になって、少し短気になっていました。だから、何かあるかもしれないと思いました。若宮さんのアパートに行ったのも、それが理由です」
「あの時、泉水に関わるなって言ったのはどうして?」
蛍池の事件を教えてくれた麻奈美や、悟の態度から二人が泉水に対して良い感情を抱いていないことが解る。それは、どうしてなのか。麻奈美が疑う理由は話を聞いているので解るけれど、悟の場合は解らない。
「……榮村先輩が俺を好きだから」
悟は視線を早穂から少しそらせて苦笑しながら言った。
「あの人は、俺の周りにいるやつを容赦なく排除します。優しい笑顔を見せながら」
苦しそうな顔で、言葉を続ける悟に早穂は黙ることしかできない。
「美波も、陸も。……そして、若宮さんも」
『ねえ、確か若宮さんだったよね。私、あなたと同じ学部の榮村泉水って言うのだけど、ここ座ってもいい?』
泉水にそう話しかけられたのはまだ桜が咲き誇っていた四月だった。遠方より進学して来た早穂は知り合いがおらず、一人ぼっちだった。泉水は早穂に初めて声を掛けてくれた人だった。それからは、一緒に行動することが多くなった。陸の家庭教師をしないか、と紹介してくれたのは泉水だった。
「若宮さんを蛍池に突き落としたのは陸です。でも、蛍池に連れて行って若宮さんを突き落とすようにさせたのは、榮村先輩です。陸は榮村先輩を異様なまでに慕っている」
「……陸くんは今、どこに?」
「若宮さんとは違う病院に入院しています。あの日、俺は陸と若宮さんの後をつけていて、陸が若宮さんを突き落とそうとしているのに気付いてその場に飛び出したときにはもう遅くて、俺は、若宮さんを助けて救急車を呼びました。陸は何か譫言を言いながらフラフラしていて。事情も事情だったから、違う病院に運び込まれました。俺は若宮さんの方の救急車に乗り込んだのでその時のことは人から聞いた話になるのですが、陸は救急車の中で奇声を発して意識不明になったそうです。……本当に若宮さんにはお詫びの仕様がありません。すみません」
淡々と事実のみを話す悟の表情は暗く重い。悟と陸はとても仲が良い兄弟だった。陸が事件を起こして、一番傷ついたのは悟や彼らの両親だ。
「……マナから、…悟くんと同じ中学で剣道部だった辻村麻奈美から、話を聞いたんだけど……花村美波さんの事件に泉水は関わっているの」
「美波を殺したのは榮村先輩です」
悟は断言した。悟の言葉に早穂は目を見開いて驚く。
「嘘…」
意味が解らない。泉水が、殺した。確かに泉水は花村美波に嫉妬していたかもしれない。でも、あの泉水が殺人を犯しているなんて信じられない。
「そんな、まさか、殺人なんて……。いくらなんでもあり得ない。だって、その時、泉水は中学生なのに」
「ずっと、推測でしかなかった。でも、間違いないんだ。……榮村先輩の遺書が見つかったから」
「え?」
「榮村先輩は手首を切って自殺を図ったそうです。幸い先輩のご両親がすぐに気付いて病院に運ばれたので、一命は取り留めたけれど、部屋から榮村先輩がしたためた日記と遺書が見つかった。そこに全てが書いてあったそうです。早穂先輩には見る資格があります」
そう言われて、悟は学生鞄の中からプリントの束を渡した。
「現物はさすがに無理でしたが、日記のコピーならと、許可をもらいました」
悟の話が終わり、彼がその場を去ってからも早穂はベンチに座っていた。夕焼け空が夜空へと移ろいつつある。そろそろ病室に戻らなければ、看護師に叱られてしまうだろう。でも、冬の風を浴びていたかった。
『今日、早穂と話していて蛍池の伝説の話題になった。陸から聞いたというけれど、あんな伝説を今更話すなんて陸は馬鹿だ。あんな伝説、子供が蛍池に近づかないようにするために大人が流した嘘に決まっているのに』
『早穂が悟と二人で歩いているのを見た。どうして、二人で一緒にいたの。悟は私といるときよりもずっと楽しそうで、早穂も満更じゃないみたい。早穂は親友だと思っていたのに』
『早穂がいなくなればいいんだ。そう思うけど、それを嫌だと思う自分がいる。私の一番はいつでも悟だけれど、冷静になれば早穂のことを憎からず思っていることに気づく。私はどうしたらいいんだろう』
『今日、早穂のアパートで、早穂と悟が会っているのを見てしまった。許せない。だけど……』
泉水の日記を見て、理不尽だと感じた。とても自己中心的で、他人のことなんて何も考えやしてない。中学生の頃から日記に書いてあるのは、ほとんどが悟のことだった。悟が好き、剣道をしている姿がとてもカッコいい、今日は私に笑いかけてくれた、目が合ってうれしかった。
そんな悟という名ばかりが羅列する日記も、最近になると早穂の名前が同じくらいでてくるようになる。今日は早穂と買い物に行って楽しかった、早穂と話していると時間があっという間に過ぎる、今までこんなに仲良くなった子はいなかった……。
いつの間にか、ポロリ、ポロリと涙がこぼれていた。どうして泣いているのか解らない。親友と思っていた泉水が早穂を殺そうとしたことが憎かったのか、それとも悲しかったのか、少なからず早穂を好ましく思っていてくれたことが嬉しかったのか。そんな、よく解らない涙を流しながら、冷えた缶コーヒーを口に含んだ。コーヒーの冷たさが全身を通り過ぎる。
「もう、泉水には会えない……」
平常心で泉水に会う自信はないし、きっと泉水は早穂に会いたくないだろう。悟に事件のことを色々聞いて、色々なことに納得は言ったが心の靄が晴れることはないだろう。
泉水の一番の笑顔を思い出す。過去を振り返っていつが一番だろうと探すとすぐ解った。泉水は悟の話をしているときが一番素敵な笑顔だった。
「本当は私が泉水を一番笑顔にしたかった」
これが本心だろう、と思った。頭が混乱していて、よく解らないがきっとこれが真実だ。
「へっくしょん!」
流石に寒くなってきた。このままでは本当に風邪をひく。早穂はベンチから立ち上がり一つ伸びをした。ずっと座っていたからか、少しお尻が痛い。
「さよなら」
早穂は泉水の日記のコピーをビリビリに破いて、ごみ箱に捨て、病室へと向かった。