サジタリアス
どうやら待ち合わせた空港とは別の場所に着いてしまったようだった。すぐに友人の番号に電話を入れてみたけれど、留守番電話サービスに繋がってしまったので、仕方なく一番近くのホテルに泊る旨を伝える。
ホテルのある海岸沿いへ向かう街道には、十数メートルにもなるだろう巨大な木々が、大きく間隔を開けて道の両側にずらっと並んでいた。
現地の言葉で『逆さま』という意味を持つその巨木は、神様がデザインを間違えたせいで上下が反転してしまったのだそうだ。夕日に照らされたそれは大きなだいこんの先端から人の腕にそっくりなキノコが束になって生えているようにも見えたし、クトゥルー神話に登場する冒涜的な化物たちが、やむをえない事情で頭から地面に埋まってしまったようにも見えた。
お陰で景観はもっぱら荒野のそれだ。聞けばそこは名のある観光名所らしかったが、肩に喰い込むスポーツバッグと止まらない汗に神経をすり減らしていたこの時の僕にとって、その前衛的な風景はどうしようもなく気色の悪いモノに映った。
通りかかった木の根元に、小ぶりのカメレオンを抱いた女の子が立っていた。浅黒い肌をして、背丈は僕の胸までくらい。白のワンピースを着ている以外は、靴もはいていなかった。
この少女はいくつだろう。外人の年齢は見分けづらいものだが、初潮を迎えているかどうかもいま考えてみれば怪しい。僕と目が合うと、彼女はにっこり、ひどくつまらなそうな顔をして笑った。
『私を写真のモデルにしませんか』
この国では英語よりも仏語の方が通りが良い。戦時中の一時期、フランスの植民地だったことが原因らしい。「英語は話せる?」と僕は仏語で訊ねた。
『できます』
彼女はとても流暢とは言えない英語で頷く。
「いくら?」
『一枚につき、四千アリアリ』
四千アリアリは日本円にして二〇〇円だ。観光客相手なのだからもっと高い値段を要求したって構わないだろうに、彼女は妙に律儀なその金額を恐る恐る僕に告げる。
『なんでもします。いろんなポーズもとれます』
じゃあ、その不細工な笑い方をやめたら?
そう思ったが、口に出したところでどうしようもない。
「名前は?」
『カナチャン』
僕が聞くと、彼女はすんなり答える。早すぎるネイティブの発音よりも、たどたどしい彼女の発音の方が僕には聞き取りやすかった。
「日本人みたいな名前だな」
『日本人みたい?』
「日本では、女の子の名前を呼ぶときに、ちゃんづけで呼ぶ風習があるんだよ」
説明しても、カナチャンはよくわからないといった風に首を傾げるだけだった。どうにか伝わらないかと試行錯誤してみたけれど、面倒臭くなったのでやめた。
「なんでもするの?」
『そうです』
「なら、カナチャン。十万アリアリあげるから、一緒にホテルまで来てくれない?」
日本語で言うとこうなる。
五千円あげるからホテルにおいで。
言い終わると同時、カナチャンの身体が一瞬強張ったのが分かった。女性に特有のヒステリックな痙攣を思い起こさせる震え方だった。それでも彼女は『もちろん』と言って無理やり笑顔を作る。体裁はあくまで写真撮影。それが彼女なりの観光客に対するルールなのだろう。僕は薄く笑い返して、彼女の手に紙幣を握らせた。
首を巡らせて辺りを見回す。前も後ろも独自性のない赤茶色だったけれど、後ろの道からデロリアンみたいな古い型の乗用車がやってくるのが見えた。
「ヘイ!」
僕が大声を出して両手を振ると、ライトが二回、まばたきをするように点滅する。どうやら乗せてくれそうだ。この辺りは観光客が多く、通りがかる車のほとんどはヒッチハイカーを探していると言って差し支えない。
車が近づくと、中からトラフグみたいな顔をした若い男が降りてきて、陽気な調子で喋りながら手を差し出してきた。僕は頬を緩めて握手に応じながら、カナチャンにちらりと目をやった。彼女はカメレオンを逃がしてやっているところだった。
英語を話せるかどうか訊ねてみたところ、トラフグ男は鮮やかな発音で『ちょっとだけね』と答えた。
後部座席に座り、荷物を降ろす。僕が乗り込んだのと反対側のドアからカナチャンが乗車し、一人分離れた場所に腰を落ち着けた。
ホテルの名前を言うと、男は顔をくしゃくしゃにして頷いた。エンジンをかけ、車を発進させる。運賃としてどれくらい金が必要だろうかと僕は考えていたが、彼いわく、自分もどうせ海岸方面へ行くところだったから、料金は必要ないとのことだった。「メルシー」と僕が言って、男はカラカラとした蓮っ葉な声をあげた。
車の中はクーラーが効いていたが、その代わり少し変な匂いがした。窓を開けてくれるよう頼もうかとも思ったけれど、車外のひどい土埃を見て提案を断念する。
やがて海が見えてくるまでに、我々は二台の車とすれ違った。ひとつはこの車と似た型のセダンで、もうひとつは牛の引く荷車だった。その荷台では大勢の黒人男性が深刻そうな顔をして揺れていた。それを見た運転手が仏語で何事か言いながら笑った。僕はカナチャンに小声で訊ねた。
「なんて言ってるの?」
『ドナドナみたいだ、って言っています』
「なるほどね。道理で笑い方が邪悪だ」
カナチャンは長い間黙って窓の外を眺めていた。段々と夜に変っていく空を、親の敵でも睨むみたいにして見つめている。運転手がライトのスイッチを入れ、車が一度大きく曲がった。ホテルのある通りへ出ると、彼女は意を決したような表情で口を開いた。前の座席を掴んで身を乗り出し、早口で運転手に語りかける。それを聞いた運転手は、とても事務的なかしこまった口調で短く返答した。どちらも仏語だった。僕の視線に気づいたのか、カナチャンが弁明するように言った。
『喉が渇いたので、飲み物がないか聞いただけです』
「結果はどうだった?」
『なにもないそうです』
ふーん、と僕はとぼけるように唸った。そして運転手に声をかける。
「それは飲み物ではないんですか?」
運転席の反対側にあるドアポケットに、薄黄色い液体の入ったペットボトルがあった。
『なんだって?』
ギョッとしたように男が眉を寄せる。バックミラー越しに目が合って、僕はもう一度訊ねた。
「それですよ、その窓際にあるやつ」
僕が指をさすと、男はその先に目をやった。そして冗談だろ、とでも言いたげに相好を崩した。
『飲んでもいいけど、腹を壊すと思うぜ』
下品なしゃがれ声が車内に響く。どうやらその液体は飲み物として不適格なものらしい。僕は彼に「やめておきます」と笑いかけて、カナチャンの方へ向き直った。
「ホテルに着いたらコーラを買ってあげよう」
彼女はうんともすんとも言わず、ただこっくりと一度、船を漕ぐように首を縦に振った。
僕はカナチャンの頭を撫でてやろうと思ったが、どうしてそんなことをしようと思ったのか、考えてもわからなかったのでやめた。彼女の真っ黒な髪の毛は、長く紫外線に晒されたせいか、ぼさぼさだった。僕は小学校のころに使っていた清掃用のほうきを思い出した。ロッカーの中に何本も吊り下がっていた、木の枝を集めて作ったようなそのほうきは、首のところが可動する新しいタイプのほうきより、埃をちりとりへ入れることが得意だった。皆は新しいほうきを使いたがったけれど、僕は古いほうきの方がどちらかといえば好みだった。
ホテルに着くと、僕たちを祝福するかのように運転手が奇声を発した。到着したことを教えるためだったのだろうけれど、その悪ふざけは隣のカナチャンを怯えさせる効果しか発揮しなかった。僕はミラーへ向けて苦笑いをしてみせたが、男は親指を突き出して得意気な顔をするだけだった。その表情筋の使い方はやはりどこか魚類じみていて、僕はミクシィに書く日記で、彼のことをトラフグさんと呼ぶことに決めた。
車を降りると、蒸し暑い夜気が僕を包んだ。
「ありがとうございました」
『気にしないでくれ。困ったときはお互いさまだ』
「もう結構ですから、あなたの目的地に行ってください」
僕は後部座席に上半身を突っ込んで、自分の荷物を抱えた。すでに車を降りていたカナチャンが、手伝おうか迷うような眼差しで、しかし最後まで僕の後ろに立ったままだった。
『それはボードゲームの箱かな?』
彼が興味を示したのは僕が手に持っていた方の荷物だった。それは座布団くらいの大きさをした三角形の木箱だった。
「ゲームじゃないけど、似たようなものです」
『友達の家でそんなようなのを見た』
「本当に?」
僕は異国の地で同じ趣味を持つ仲間がいることを、素直に嬉しく思った。
「その友達によろしく言っておいてください」
トラフグさんは車に乗り込んだ。僕は彼に頭を下げ、ホテルの入り口に向かう。カナチャンが僕の荷物を持とうとしたけれど、女の子には重いだろうと思い、断った。
いい時間だったので、先に夕飯をすませることにした。ホテル備え付けのレストランで丸テーブルに座り、注文を済ませる。しばらくすると頼んだ料理が運ばれてきて、目の前に順序良く並んでいった。
ロブスターやイカや、マッシュルームを焼いたもの。豚肉のソテー。小豆の入った白飯。カニのスープ。一リットルコーラとジャックフルーツ、チョコレート味のメレンゲ等々。個人的には朝に飲んだバターコーヒーをもう一度飲みたかったけれど、夜間は販売していないそうだったので、おとなしくコーラをすすった。
「食べないの?」
カナチャンは料理に手をつけていなかった。彼女はしばらく逡巡するように間を空けてから、おずおず、といった感じで応える。
『あなたは後でお金を払えと言います』
僕は笑った。
「お金、料理の代金のことかな」
『そうです』とカナチャンは頷いた。
『払えと言います』
その言葉には妙な確信が込められているような気が僕はした。僕は「あ、そう」と日本語で言って溜息をついた。豚肉にタレをつけ過ぎて口の中がしょっぱかった。続けて頬張った小豆の入った白飯は見た目通りの味しかせず、次に吸い込んだなぜか黒く濁っているカニのスープが、最も僕の舌に馴染む味をしていた。
「むかし誰かにそういうことをされたの?」
口元を拭いながら、僕はカナチャンに訊ねた。彼女は俯くだけで、別段なにも悲劇的な表情を浮かべたりはしなかった。強いていえばそれは、面倒くさそうな顔だった。なんども行ったお化け屋敷にもう一度肝試しへ行こうと誘われたときのような、そんな表情をしていた。
はいはい、どうせ今回も偽物しか出てこないんでしょう。同じ仕掛けが同じタイミングで飛び出して、それを見て面白がるだけなんでしょう。いいからさっさと終らせてよ。怖いのも驚くのも、もう慣れたからさ。
言外にそんな声が、聞こえてくるかのようだった。
幽霊が必要だ、と僕は思った。本物の幽霊が、いまの彼女には必要だった。僕は席を立った。
「先に戻ってるから、食べたいだけ食べてから来なよ。お金はもう払ってあるから」
カナチャンのことは見ないようにして、僕は早足に階段を目指した。廊下では、スパイダーマンをモチーフにしたパジャマ姿の幼児が、壁をぺちぺち叩いて遊んでいた。当たり前だが、その子はスパイダーマンじゃなかった。何も知らない、ただの無力な子どもだった。
戻らなくてもよかったはずなのに、カナチャンは律儀に部屋へとやってきた。僕はベッドに寝そべって本を読んでいた。そこに書かれた日本語が僕を癒やした。
カナチャンは扉を閉めるとすぐ鍵をかけた。がちゃりという覚悟の音が、思いのほか間抜けな軽さで彼女の退路を閉ざした。カナチャンは落ち着かない様子で左右を見て、そそくさとバスルームへ消えた。
僕は少しの間ベッドの上で本を読んでいたけれど、浴室から響くシャワーの音を聞いて気が変わった。僕は本を読むのをやめて着替えを用意し、タオルとシャンプーを抱えて浴室へと向かった。
絶対に嫌がるだろうと思っていたのに、僕が腰にタオルを巻いた姿で浴室に現れても、カナチャンはなにも抵抗しなかった。一応ノックもしたけれど、それは何の意味も持たないノックだった。
彼女の身体は小さかった。そして黒かった。日本人がちょっと日焼けしたような黒さではなくて、生まれた時から日焼けと共に生きてきた黒さだった。
僕は彼女の肩を掴んでシャワーのコックを閉めた。肩に触れられた瞬間、彼女の身体は一度大きく跳ねた。
「目を閉じて。ここに座って」
彼女は少しためらうように揺れたが、最後にはおとなしく腰を下ろした。僕は手に持ったシャンプーを床に置いて、手のひらに数回、内容液を取り出した。そして僕はカナチャンの頭を丁寧に洗ってやった。
彼女の髪はごわついていたが、ほうきほどではなかった。僕は少しがっかりしたけれど、彼女にとってはその方がまだ救いのあることだった。若いのに髪型も自由に変えられないなんて、不自由極まりない。
シャンプーは泡が思うように立たず、僕は何度か液体を追加することになった。再びコックを緩めると、ノズルから勢いよく湯が流れ出た。役目を終えた泡のひとつひとつを、彼女の黒い肌はよく弾いた。
「お父さんやお母さんに頭を洗ってもらったことは?」
僕はシャワーを止めながら英語で彼女に訊ねた。カナチャンは手で顔を拭いながら、静かに頷く。
『子どもの頃に』
「いまは洗ってくれないの?」
『いまは無理です。自分でやります』
無理です、という言い方が、僕には少しひっかかった。
僕は彼女の狭い背中も流してやったが、他の部位は彼女に任せることにして、先に風呂をあがった。その間、カナチャンは何も言わなかった。
僕がトイレに行っている間に、カナチャンは風呂から上がっていた。彼女は全裸だった。
「ワンピースはどこへやっちゃったの?」と僕は訊いた。
カナチャンは無言で窓の外を指し示した。ベランダには彼女の着ていたそれがあった。ワンピースはぐっしょりと濡れているように見えた。汚れていたから風呂で一緒に洗ったのかも知れない。
なるほど、と僕は思った。お陰で僕はいくつかの踏むべき手順を省略しなければならなかった。僕はカナチャンの腕を掴んだ。そのままベッドまで連れて行って、投げるように押し倒す。
「大丈夫、酷いことはしないから」
しかし小さな女の子をいきなり押し倒して抑え込むということは、もうすでに充分酷いことだった。僕は彼女の耳元に口を寄せた。撫でるように優しく、彼女が正確に聞き取れるよう、ゆっくりと時間をかけて囁く。
「僕はこれから、とある道具を取り出すけれど、君はそれを見て、絶対に驚いてはいけない。大きな声を出したり、叫んだりしたら、僕は君の口をどうにかして塞がなければならなくなってしまう。そんなのは嫌だろう?」
道具、という言葉を聞いた時の彼女の顔は、見るに堪えないほど無惨に怯えていた。それでも彼女に選択する権利はなかった。彼女は首を何度か縦に振った。
「いい子だ」
僕は部屋の隅から荷物を取り出した。それは先ほど、僕たちを乗せてくれた運転手が興味を持った、あの三角形の木箱だった。僕はその箱のロックを外した。
箱から取り出された物を見て、カナチャンは最初、信じられないといった風な表情をした。次いでその瞳が、分泌された涙でうっすらと濡れた。彼女は弾かれたように立ち上がり、沈むベッドに脚を取られながらもなんとか床に降り立った。駆け出し、ドアへと向かう彼女の腕を、僕は難なく掴んだ。彼女がそういう行動をとることはある程度予想がついていた。僕が取り出した道具は、誰が見てもどんな用途で使うかが明らかなタイプの道具だった。そしてその用途は、小さな女の子が逃げ出す理由としては充分すぎるジャンルの用途だった。
僕は再び、カナチャンをベッドに抑えつけた。この国では夜になると蚊が大量に発生するため、ベッドの周りには蚊帳と、それを支える柱がついている。僕は自分の来ていたシャツを脱いで、彼女の片腕をその支柱のひとつに縛りつけた。あらかじめ用意していたタオルでもう片方の腕も縛ると、彼女に布団をかけてやる。必要以上に彼女を辱めないためには、そうする必要があった。
それからしばらく、僕は単調な作業を繰り返した。
ゆっくりと引いてから、戻す。また引いて、また戻す。
引く度に部屋の中にはキリキリと何かが軋むような音が響いて、それを戻す時には何かが強く擦れるような音が続いた。その擦れるような音とともに、カナチャンは強く目をつぶった。怖がらなくていいのに、と僕は無駄なことを思った。
「ランボーは知ってる?」と僕は彼女に聞いた。
彼女はいやいやをするように首を振った。
「じゃあ、ロッキーは。シルベスタ・スタローンが主演の映画。知らない?」
彼女はまた、同じくいやいやをするようにして首を振った。僕はそれを見て、彼女のことをちょっとだけかわいいと思った。けれどその間も、引いては戻すその行為は延々と繰り返された。
しばらくして、どんどん、とノックにしては強すぎる音がドアを揺らした。廊下側からくぐもった英語が聞こえてくる。怒ったような調子の早口だ。
「やれやれ、やっと来たか」
僕は日本語で悪態をつきながら首を鳴らした。行為を繰り返したせいで、僕の両腕は汗に湿っていた。
『ここを開けろ。さもないと酷い目にあわせるぞ』
廊下から聞こえたその台詞には、古典戯曲のワンシーンのような、凝り固まったリアリティが多分に含まれていた。彼はおそらく、何度もその台詞を叫んできたのだろう。僕は脚を肩幅に広げた。僕も同じだ。何度も繰り返した、単純で面白味のないひとつの動作。そこに一本道具を追加して、もう一度繰り返すだけだった。
「鍵を開けてやる気はないよ。ぶち破ったら?」
僕は呼びかけるように声を返した。乱暴に回されていたドアノブが動きを止めて、今度は体当たりでもされたかのように扉全体が揺れた。
バイオリンを演奏するような所作で僕はドアへ向けてそれを構えた。両腕に力を込めれば、キリキリキリ、と何かが軋むような音がする。準備は全て整っていた。
その後もドアは何度か揺れた。僕はそれを蚊帳の傍に立って眺めていた。ポケットに入った財布の重さを煩わしく思いながら、ひたすらその瞬間を待った。
やがて、男が部屋に侵入してきた。侵入してきたのはトラフグさんだった。何か言いかけたトラフグさんの口が、開いたまま塞がらなくなった。
「ボンジュール、クソ野郎」
一瞬で被害者は、トラフグさんの方になった。
僕が構えていたのは、俗にコンパウンドボウと呼ばれる競技用の長弓だった。カムが回転し、張り詰めていた弦が勢いよく直線に戻って、ジュラルミン製の矢を押し出す。発射された矢はトラフグさんの肩を貫き、そのままの勢いで彼を後ろへ吹き飛ばした。壁にぶつかったトラフグさんの影から大振りのナイフが転がり出て、からん、と高い音で鳴いた。
僕はカナチャンを縛りつけていたタオルと自分のシャツを解いた。そのまま手に持ったそれで痛みに唸るトラフグさんの口を塞ぐ。さるぐつわをされるような形になった彼に、僕は数枚の紙幣を投げつけるようにして渡してやった。
かなり早い段階から、僕はこれが美人局であろうことに気づいていた。デロリアンの登場はタイミングが良すぎたし、車中での会話にも違和感があった。喉が渇いていたはずのカナチャンはホテルに着いてもコーラを飲まなかったし、逃げられるはずだったのに律儀に部屋までやってきた。白のワンピースも自ら脱いで、わざわざ蚊がたくさんいる外に干した。まるで外の誰かへ向けて、自分はいまこの部屋にいる、と主張するみたいに。
そうだ、と僕は思い出し、ベランダの白いワンピースを取り込んだ。窓を閉め、そのままベッドへと向かう。カナチャンは何が起きたのかわからないというような顔をして座っていた。僕は彼女に向けて笑顔を作った。
「酷いことはしないって言ったろ?」
僕は彼女にワンピースを返してやった。そしてトラフグさんのズボンから財布を取り出し、これも彼女に手渡した。僕は懐から一枚の名刺を取り出した。
「これから君は、ここに電話をかけなさい。僕の知り合いが経営している養護施設だ。本当は今日ここへ行くはずだったんだけれど、飛行機を間違えてね。ホテルの名前を言って、僕の知り合いだということを伝えて」
彼女は小さく頷いた。僕はちょっと迷ったけれど、カナチャンの頭を撫でてやった。乾いた彼女の髪は、さっきよりもほうきの感触に似ていた。
僕は弓の換え弦でトラフグさんの腕を縛った。トラフグさんは肩の痛みに顔をしかめたけれど、僕にやめるつもりは起らなかった。僕はトラフグさんを連れて駐車場まで行った。背中に彼の持ってきたナイフを突き付けていたせいか、トラフグさんは思ったより騒がなかった。
トラフグさんの車に乗り込んで、僕はエンジンをかけた。キーは後部座席に転がしたトラフグさんのポケットから拝借した。丁寧にゆっくりと、僕は段階的にアクセルを踏んでいき、ギアを変えた。この車は確かにデロリアンにそっくりな見た目だったけれど、本物とは違って、次元転移装置もプルトニウムも積んではいなかった。未来に逆戻りすることも、過去に移動することもできない、偽物のデロリアンでしかなかった。
『警察に行くのはよしてくれ』
さるぐつわをずらしたのだろうか。もそもそと動いていたトラフグさんが、僕に喋りかけた。
『ガキとはやれたんだろう? ならそれでいいじゃないか。許してくれよ』
僕は何も答えなかった。そのまましばらく車を走らせ続け、ハンドルを緩やかに切った。やがて僕が車を停めたそこは、真っ暗な砂浜だった。誰もいない陸と水の境目で、色めきたった白いさざ波の束が、ざらざらと夜をこすって遊んでいた。
僕はバックミラーに目をやった。暗い鏡の中でトラフグさんと目が合う。
「警察に行くつもりはないよ」
トラフグさんはその顔色を、まるでカメレオンのように目まぐるしく変えた。最初は戸惑うような顔色になり、その後しばらくは希望の色を称え、最終的に恐怖の色に固定された。
僕はドアポケットに挟まったペットボトルを手に取っていた。夕方、僕が飲み物ではないのかと指摘したペットボトルだ。中には薄黄色の液体が入っている。
『おい、嘘だろ』
余談だがこの国には、ガソリンをペットボトルにいれて持ち運ぶ習慣が、あるとかないとか。
ネットで見つけたマダガスカルの写真から妄想して考えた作品です。いまだにそうですが、自分が書きたいなーと思ったものを書いているので誰得感が半端ないですが、取材らしい取材を初めてした作品なので思い入れは結構強いです。「アリアリ」という通貨名を創作だと思われて、サークルメンバーに笑われたのは内緒。