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香り  作者: 伯耆
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お互いの家は車で10分もかからないところにあったため、近くの居酒屋も選びやすかった。

私はビールを好んでよく飲み、彼女は甘いサワーかカクテルを好んだ。

それは幼いころから変わってはいないようだった。

結花と夢を語り合ったのはもう随分と前、高校の頃だった。

お互いに演技が好きで、舞台役者になるのは当時の夢であった。

しかし私は家庭環境の変化により、挫折せざるを得ず、成り行きで今経営している店を家族で任されることになり、彼女は着々とその道を進んでいった。

どうやら花を咲くまでには至らなかったようではあるが、まだその道に副業として携わっているようである。

今はそれが大して羨ましいとも思わなかった。

というよりも、羨ましいなんて感情はどこか過去においてきたのだろう。

私は年を重ねる度に感情が少しずつ草臥れて萎れていくのを年々感じていた。

2年と9か月前の母の死からは特に感情というものに疎い気がしなくもない。

一杯目のビールのピッチは速く、3杯目ほどから少しずつ落としていく。それが私の飲みかたであった。

両親の血筋のせいか酒にはある程度強かった私はだらだらと飲み、食い、しゃべることを好んだ。

一番太るパターンであることも良く承知していたが、それが私の一番のストレス発散であり、楽しみでもあるのだから仕方がない。

それに比べ結花は大した量は口にしなかった。

よく食べるもののアルコールを大量に受け付けるわけではないらしい。


「結花のさ」


一通り箸でつつき終えて、ビールを一杯飲む。

その合間に私が切り出す。


「お母さんが亡くなった時って、どんな感じだった?」


とてもナイーブな話を私は唐突になんの突拍子もなく尋ねた。

この問いに全くと言って気を悪くせず、どちらかといえば多少なり驚いたように一瞬瞳孔が開いたのがわかった。

そしてその一瞬のあとにしばらく考えるように目線を斜め上に泳がせた。

過去に遡っているのだろう。


「どうって言われても・・・10代の頃だからね~」


結花の母は彼女がまだ10代後半。高校を卒業してしばらくして癌に侵され亡くなった。

長い闘病生活を共にしてきた幼い彼女からの母が亡くなった直後の本音はいまだに覚えている。

こんなこと言うと親不孝だけど正直死んでくれて荷がおりたような気分だ、と。

とても複雑そうに、罪悪感を背負った言葉であった。

口にしてはいけない、けれど口にしなければ自分の何かが壊れてしまいそうであったのだろう。

私はそんな彼女を否定はしなかった。否、出来なかった。

彼女は私とは一変お金には困らない生活を送ってはいたが、父に気づかい母の面倒を見るという苦労のおおい10代だったのかもしれない。


「そうだよね」私はうなずいた。


「まぁ、もっと親孝行をしたかったっていう後悔ばかりはいまだに残っているよ。

世の中の親を失ったほとんどの人が思うようにね」


その言葉に私は結花と離れていた歳月を感じさせられた。

彼女はそんなことを口にできる子ではなかったように思える。

深く考えてもまだ私の深みよりは浅い子であった気がする。

年をとるというのは、器の深みを増していくことである。

それを実感させられた。

しかしながら彼女の言葉は今の私の心には何一つ響かなかったのもまた現実である。

なにせ私は後悔するような母を持ち合わせてはいないのだ。


「夏帆?」


ふと前の彼女が心配の色を帯びた声色で名前を呼んだ。

「あ、いや」と歯切れの悪い返答をして、誤魔化すようにビールを仰ぐ。

そのビールはなぜかとても苦く、飲み込み辛かった。

アルコールは時に、道を迷わせる毒となる。

特に私にとってのアルコールは自白剤に似た作用をもたらした。

誰かにこの気持ちを知ってほしい。

その隠してきた気持ちが表だって出て来てしまったのだ。

誰かにすべて打ち明けてしまいたい。

しかし何もそれが前の彼女である必要はないのだ。しかし・・・。

心での葛藤に彼女は何かしら察知したのだろう。

結花はカクテルと私のビールのおかわりと、追加で適当な焼き鳥を店員に頼んだ後にテーブルに並ぶ空いた皿を丁寧にまとめた。


「何かあるなら何でも聞くよ?」


ありふれただれでも言えるセリフ。そこにどの程度の重みがあるのか、まったくといってつかめなかった。

演技を仕事にしているせいなのか。

もしくは今の私が酒に酔っているせいなのか。

ただ確かであったのは、その言葉は今私が求めていたものであった。


「どこからどう話せばいいのかわからないし、私が話をまとめるのが苦手だってことは知ってるとおもうけど」


再び歯切れ悪く終わった言葉に結花は頷くだけであった。

なんでもきく。それは薄っぺらい言葉ではないように思えた。そう信じたかった。


「2年と9か月前。母が亡くなった時、私は涙ひとつすら流さなかったの」


どこから話せばよいのかわからない。結花にも言ったように私は筋立てて話すのが大の苦手であった。

だから感情の従うままに言葉にすることにした。


「流せなかったの」


言いなおした言葉は賑やかな居酒屋でやけに凛と響くようであった。

「流せなかった・・・」結花は問うわけでもなく、その言葉を反芻する。


「決して心が死んでしまったわけでもない。けれど私はお通夜の遺影を前にして、なぜ私はここにいるのだろうか。一体私は何者なんだろうか。悲しみや周りの泣き声よりもまずそれが頭に過った」


そんなことってある?とビールを眺めていた目線を一度結花に向けると、彼女は何をいうでもなくただ首を左右に振った。


「その時はその場の状況が理解できなかった。でも私はあとで思ったことがある。

おそらくは母の死と共に、母を愛した私も一緒に死んでしまったんじゃないか・・・と。

母の死に耐えきれなかった私の一部は私から飛び出して、母と一緒にあの世にいくことを選んだのではないかと」


つまりは、と結花が驚愕と怪訝、その両者が入り乱れるような複雑な表情で多くの瞬きをした。


「お母さんの記憶がなくなっちゃってるってこと?」


あまりに遠回しな言い方だったのは私にもわかっていた。

けれどその率直な言い方はなぜか避けたかったのかもしれない。

ゆっくり深くうなずき、ビールを仰ぐ。

一杯のビールがすぐになくなった。

しばらくはその空になったジョッキを眺めて、中に残ったビールの雫と明かりがきらめくのを見つめる。


「すっぽりと、母の記憶だけ。まるで最初から私に母親なんて存在しなかったように、まったくこれっぽっちも思い出せない」


彼女は眉根を寄せて、唇を一文字にして、痛みに耐えるような表情で私を見据え

た。

それに大して私はなぜかふと嘲笑にも似た嘆息が零れ落ちた。

私よりもやはり前の彼女のほうが痛みと悲しみと切なさを感じているのだろう。

母を愛した私は感情そのものをもって死んでしまったのかもしれない。

そしてそれはおそらく永久に私のもとに帰ってこない。


「一度病院にいってみたら?」


彼女から帰ってきた言葉は慰めでも怒りでも悲しみでもなく、現実的な提案であった。


「私が一度お世話になった先生がいるんだけど、紹介するから。


医療に関してはわからないからなんとも言えないけど、もしかしたらショックから忘れてるだけかもしれないから、それなら思い出す余地はあるかもしれない」

すぐに連絡先を書きはじめた彼女からそれを受け取るものの、私は気が一向に進まなかった。

これを病気の部類と思いたくなかったのかもしれないし、思えなかったのかもしれない。

しかし彼女の勧めを無碍に断ることもできず、今度いってみると返しただけで、結局のところはその連絡先に電話をかけることはなかった。

生活に支障があったわけではないし、心の空洞と違和感も埋まりつつある。

思い出したとしても苦痛がやってくるだけであって、私はこの生活を維持し続けなければいけない。

少なくとも、父が元気でいる間は。

自分と父を養うためだけに生きる。ただそれだけが私の生活の全てであった。

ではやはり、なぜ私は彼女に話してしまったんだろう。

あとで後悔のような念が押し寄せてきた。

何かにすがりたかったのかもしれないし、過去の彼女のように誰かに打ち明けないと自分を保てなかったのかもしれない。

どうにしろ言ってしまったからにはもう手遅れなのである。

彼女はこの世界で私以外にただ一人。私が‘違う私’に入れ替わったことを知ってしまった人物になったというだけであった。




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