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香り  作者: 伯耆
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花と線香と死の香りが私の世界を取り巻いていた。

肉親の死は初めてであった。それも一番‘愛していただろう’母の死である。

横で父と妹、そして母の妹兄、それらに連なるものたちは全員周りなど気にせずにわんわんと、生まれたての子供のように泣いている。

この場景を見て、母はとても人から愛されていたのだとそう実感した。

しかしその場でイレギュラーな私を誰一人として責めなかった。

涙一筋すら流さなかった私を。



母の死から2年と9か月が経つ。

私の体からは今だに喪服が剥がれず、死の香りがこびり付いている錯覚にいつも見舞われていた。

両親とともに経営していた店は私に引き継がれ、父は引退。私がすべてを任されるようになってからは、しばらくは慌ただしい(仕事以外のことを思い出す暇がないくらい)日々を送っていた。

母の死に、常連客はひどく落ち込み、時には涙を見せ、黙祷した。

やはり母は人がよくだれからも慕われる人だったのであろう。

それでも私は悲しくも苦しくもならなかった。

ただただ体に染みついた死の香りがいつも私に母の死を問いかけるようであった。

母は最期どうやって死んでいったのか。

最期に何か言っていただろうか。

母は私にとってどんな印象でどんな声でどんな人でどれだけ大切だったのだろうか。

私は何一つ知らない。

覚えていないのだ。


気が付くと母の眠る棺桶と遺影の前に座り、ある一点を見つめていた。

意識が戻る(まさにその表現が正しい)と次第に、周りからはいくつもの泣き声や悔やみの言葉、ずるずると鼻水をすする音。

一体何が起こったのだろうか。

何故私は会ったこともない人の遺影の(それも一番親しいと思われる場所)で正座しては線香を立てようとしているのだろうか。

周りを見渡すと隣には私にもたれかかり泣いている妹がいた。

部屋の端では泣き疲れて眠っている父がいた。

周りにはいまだに涙を拭えずにいる久しく会う親戚がいた。

そして漸く、私は前の遺影が母であることを知ったのだ。

まるで水を入れ過ぎてパァンと弾けてしまった水風船の中の水が、ゆっくりと自分の意思を持ち、再び丸く収縮していくように、私の記憶はある一点へと戻っていった。

最初に思い浮かんだのは長年フランチャイズとして経営してきた店のことであった。

年中無休で働いてきた職場を思い浮かべ、そこには珈琲を点てる父、ホールとキッチンを走り回る私、ホールで一緒に働いていたパートさんにキッチンを任せていた60を過ぎたパートさん。

そして顔のない、あれはおそらく母親なのだろう。

遺影を見てもその記憶にうまく当てはめることが出来ない。

そして次に思い出したのは長年飼っていた犬と猫である。

たしか犬は少し前に寿命で天に召された。

猫はもう随分と老いてはいるが、生きているはずである。

妹はたしか大学院を経て、コンサルティングの仕事をしていた。

私に一緒に事業を立ち上げないかという提案を持ち掛けてきては、私はこの店を引き継ぎ落ち着くまでは遠慮しておくと断ったのを覚えている。

色んな記憶が逡巡して、思い出したものをまた噛みしめるように反芻しては再び意識を現実に戻して、遺影を見据えた。

すっぽりと記憶の空洞がある。

全ての記憶から母という概念が消えていた。

彼女がどんな姿でどんな声でどういう風に私に接していたのか。

何もかもまるで虫に食われた葉のように、的確に抜け落ちていたのだ。

それ以外はすべて覚えていて(思い出すのに少し時間がかかったが)まるで一度すべての記憶をリセットされた後に母の記憶だけを抜いた別の記憶を埋め込まれたかのような、不快感と恐怖すら感じた。

悲しむふりすらできず、まるで抜け殻のような私を人々は同情し、泣くことすらできないほどに悲しんでいると勘違いしてくれたようである。

悲しみも一週間あれば正常に戻っていった。

私は父と一緒に暮らしながら、面倒を見て、時間がくれば店へ仕事にいき終われば家に戻る。

幸い家事ができるくらいに父は元気であったため(腰痛などはあったが)ある程度は甘えていた。

妹は隣の県で一人暮らしをしながら、キャリアウーマンの鏡のように働いていることなのだろう。

生活に何の支障もない。

一日一度線香を立てて、会ったこともないように思える母に手を合わせる。

それはそれで何か空しいことでもあったし、だからといって思い出そうとも思いはしなかった。

まるでそういう感情すらもすっぽりと誰かに抜かれてしまったように。

随分と店の経営も落ち着いてきては、妹との連絡も週に一度(彼女が不安定な時は毎日のように)お互いの近況を話し合っていた。

そうこうしているうちに2年と9か月という歳月がたって、母に関することが記憶からないことへの不安と居心地の悪さのような違和感は日に日に薄れていった。



丁度そんな時に店にとても懐かしい顔が訪れた。

高校を卒業して以来会っていなかった幼稚園からの幼馴染である。

正直、ある一件を境に私は一番仲良かったはずの彼女を敬遠していたし、現実を生きざるを得なかった私と、夢に向かって走っていく彼女とでは境遇も話も何もかも合わなかったため、自然と疎遠になっていった。

そんな彼女が今更何をしにここまできたのかという疑問も頭の片隅にありはしたが、もちろん人の縁を大切にしなければいけない、と顔も思い出せない(否、遺影を散々見てきたため顔はもう思い出せるが)母が残してくれたこの店を継いで改めて思ったため、久方の友人を快く招いては珈琲とケーキを御馳走した。

何かを切り出さなければいけない、なんていうのはよくあることであるが、彼女とはやはり一緒に育ったようなものであるため姉妹が久方にあったように話は自然と膨らんだ。

この日はまるで私たちの話に水を差すのを遠慮しているかのように、客もそれからほとんど来なかった。

充実した時間はあっという間に過ぎていき、閉店の時間を迎えるが、彼女も多忙の身。次いつ会えるかすらわからないため、店を閉めて飲みにいくことになった。

少しばかり早い閉店に文句をつける客は幸いこの店にはいない。

店を閉めてから片づけを手伝ってくれた彼女は唐突に、心なしか低いトーンで母の死を悼む言葉を告げた。

まるで意表をつくその言葉になぜか私は悪いことをしたのが発覚した時のような気持ちになった。

おそらく彼女はそのためにここまで足を運んだのであろう。

母の葬式はほとんど身内で行われたが、彼女はそこに姿を見せなかった。

そして約3年もたって、漸く今更と会いに来た。

そのことが申し訳ないのだろうか。どことなく罪悪感のようなものが伺えた。


「ごめんね、今更になって。あの時いければよかったんだけど忙しくて、そうしてるうちに尋ねる機会を失っちゃって・・・」


「いいよいいよ、こんな田舎まできてくれただけで有り難いし。ありがとうね結花」


結花(彼女の名である)は悲しそうにほほ笑んだ。


「夏帆のお母さんには幼いころからとてもよくしてもらったから、聞いたときは驚いたし悲しかった」


まるで自分の母を亡くしたように結花の目は虚無の彼方に向けられて、しばらくは沈黙を守っていた。

おそらく今の彼女は私よりも母の死を悼むことができる一人なのであろう。


「その話はまたあとでしよう。さっさと片付けなくちゃ」


そう私は話を乱暴に切り上げて、片づけにとりかかった。

出来るだけボロは出したくない。気づかれずに済ませたい。

どこかでそんな罪悪感があったのだろう。

ふわり、と最近は少し離れて行っていた死の香りが再び私にまとわりついてくるような気配があった。




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