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第4章 城下町カーディル

 城下町カーディルの目抜き通りには、鍛冶屋や武器防具屋、食糧雑貨店や金物屋、仕立屋といったスレート葺きの店々が並び、これまでミュシアたちが通ってきたどこの町や村よりも、清潔で整った品物が手に入った。

 城下町に到着すると、センルは<ヤースヤナ・ホテル>というそれまで三人が宿泊したことのないような立派な旅籠に、一泊30レーテルもはたいて宿泊することにしていた。というより、これまでも時々王都カーディルへやって来た際には、ここか<アールスナヤ・ホテル>のいずれかにしか、センルは泊まったことがない。

 どちらのホテルにも、町の大通りを見下ろせるバルコニーがついており、室内の装飾のほうも貴族の別邸かと思われるほど、家具や調度品が一流のものでしつらえられている。こうした城下町の一流ホテルでは、金さえ支払えばプライヴァシーが守られるだけでなく、町の警備隊の連中が正式な書面でも手にして乗りこんで来ない限りは――経営主は簡単に客を売り渡すようなことさえしないのである。

「あのさあ、センル……」

 磨き上げられた大理石の床に、透かし彫りの円柱が並ぶホテルの玄関ホールで、シンクノアは流石に面食らったような顔をしていた。

「俺、ここに来るまで、あんたに1ピムも支払った記憶がねーのは確かだけど、これは流石にやりすぎっていう気がしてきた。なんつーか、俺にはもっと場末の宿のほうがお似合いって気がする……センルがここに泊まる必要があるってんなら、ルークとあんたのふたりだけで泊まれよ。俺はもっと他のところを探すから」

「そんなっ!そんなの絶対にいけません、シンクノア。だったらぼくもシンクと一緒に同じ宿屋に泊まりますからっ」

「ほほーう」と、センルは腕組みしたまま、いかにも機嫌悪そうに言った。「これまでルークとシンクノアが財布を痛めてないということは、それは言い換えれば私に借金があると言ってもいいわけだよな?だったら、『金を借りた者は金を貸した者の奴隷になる』という言葉どおり、ここもまた私の言うとおりに従ってもらおうか」

 シンクノアとルークは、センルがイライラしている気配を察し、それきり黙りこんだ。センルは磨き上げられた樫の一枚板のカウンター越しに、制服を着た従業員と話をし、前金として結構な額の金を手渡すと――金と引き換えに部屋の鍵を受けとっていた。

「三階の、<ロダールの間>の鍵でございます。それでは、ごゆっくりお寛ぎくださいませ」

 センルとしては、本当は四階にある<ブリンクの間>に宿泊したかったのだが、そちらにはどうやら先客がいて埋まっているらしい。王城と城下町から僅か3エリオンも離れていない場所に、聖五大陸最高峰と言われる王立魔術院があるせいかどうか、城下町では最上級のものをブリンク、二番目のものはロダール、三番目のものはマキルといったように呼び習わす風習があるのだ。

「それにしても、なんか悪い感じがするなあ。つーかさ、俺が聞くのもなんだけど、実際センルおじいちゃんってお金いくら持ってんの?」

「人に物を聞く時に、その相手をじじい呼ばわりするな」

 センルは、部屋まで荷物を運んでくれたポーターの少年に、5レーテルほど金を手渡した。こうしておけば、自分にとって何か欲しい情報があった場合――時として彼が役に立つことを話してくれるかもしれないからだ。また逆に、彼が口も軽く「今ヤースヤナ・ホテルの三階には、蒼の魔導士と赤い瞳のマゴクとルシアス神殿の神官がいる」などと、誰かにしゃべることはないだろう。

「私の正式な職業は一応、ロンディーガ王国の永久顧問宮廷魔導士ということになっている。つまり、金なぞ腐るほど持っているというわけだな。とはいえ、あとで城下町にある銀行で、今後のことも考えて少し金を下ろしておく必要はあるかもしれん」

「ひょっえ~!!」と、シンクノアがどこか白々く驚いた振りをする。「まあ、ただもんじゃあないだろうとは思ってたけど……でもさあ、永久顧問魔導士先生がこんなに長くお国を留守にしちまっていいのか?」

 室内には大理石の暖炉やテーブルがあり、それに寄木細工で作られた家具調度品があちこちに配されていた。部屋の隅には、水瓶を掲げ持つ女性の彫像が置かれ、暖炉の上やテーブルの上には高価な花瓶や、繊細な飾りのある陶器の置物などがある。また、部屋の壁にはすべてロイヤル・ブルーの石が使われていた。

「まあ、これも仕事の一貫だな」と、センルは絹張りのソファに腰かけながら、今回に限って<ロダールの間>へ泊まらなければならなくなった皮肉を思った。「金のほうなら、外交機密費のような形で、請求すればロンディーガの王室がいくらでも出してくれるだろうよ。見方を変えるとすれば、おまえとルークはもしかしたら「金を使って私に利用されている」とでも思ったほうがいいのかもしれん。そんなにただ泊まりやらただ食いやらをするのに、良心が痛むのであればな」

「確かになあ」

 銀の鉢に盛られた林檎をひとつ手にとると、それを齧りながらシンクノアは笑った。

「俺が今まで一緒にいて思うに、あんたのやり方ってのはすべてがすんばらしく合理的だったからな。そういうことでもなければここまで協力したりはすまい……みたいには、ちらっと思わなくもなかったよ。ま、もちろんセンルはそれだけじゃないってのがいいとこなんだけど。ルーク、この林檎、お目々が飛び出るほどすんばらしくデリシャスだぜ。他にもぶどうとかオレンジもあるから、食わねえか?」

「あ、はい……」

 ルークは、バルコニーに続く窓から見える景色に、少しの間ぼんやりとしていた。空は薄曇りで、この分だと夕方か夜にでも雨になりそうな気配だったが――城下町カーディルは七十万人都市といわれるだけあって、家屋の密集している姿がルシア神殿の丘から見下ろす聖都の様子に少し似ていたのだ。

「なんにしても私は、明日からその仕事に専心する予定だ。王立図書館は言うまでもなく王立魔術院のほうに付属してるんでな。そちらと話を通したら、ルークとおまえも図書館で好きなだけ調べものをするといい……とりあえず明日、私はここを留守にする。その間はこの金で」と、センルはテーブルの上にクラウン金貨を数枚置いた。「城下町で適当に遊んでてくれ。言うまでもないことだがシンクノア、ミュシアから絶対目を離すなよ。もし仮に私が話を通したにも関わらず――当のルシア神殿の姫巫女さまが行方不明となったら、私がこれからしようとすることは無駄に終わるかもしれないのでな」

「あのう……王立図書館で調べ物をするのは、そんなに大変なことなんでしょうか?わたし、他の一般市民の方も普通に本を閲覧できるって聞いていたのですけど」

 シンクノアから黄緑色の葡萄の房を渡され、ミュシアはそれを一粒食べてみた。彼女にもそれは、お目々が飛び出しそうなほどデリシャスに感じられた。これまでの三か月間、これほど美味しいものは食べたことがないというくらい、とても甘い。

「まあ、おまえやシンクノアが欲しいと思っている情報は、そんなところには眠っていないだろうよ。平民たちが閲覧できるのは、聖書や信仰について書かれた本とか、神話や伝記、昔話といった類のものが多いし、魔導書については魔術院の生徒か国に認定された魔導士以外読めない仕組みになっている。私にしてもカルディナル王国の最高魔導士――ブリンクのエリメレクが、話のわからんような男だった場合、すぐに引き上げて来ざるをえないだろう」

「あ、そーいや、センルのことを自分が死んでからも魔術院に入れんなっていう遺言を残した奴がいるんだっけ?」

「そいつが他でもない、私を九年も闇魔導士狩りにこき使っていた男だよ」

 今思いだしても腹が立つ、というように、センルは干しいちじくに齧りついた。

「たぶん、私に次のブリンクになりたいという野心があるとでも思っていたのだろう……カルディナル王国の第五十四代ブリンクのアビメレクっていうのが、そいつの名前だ。その遺言が現在も有効であるかどうかは知らんが、まあお国の大事とあっては、そうも言ってはおられまい」

「お国の大事って?」

 シンクノアがどこか能天気に、蜜入り林檎に齧りつきながら聞いた。

「……おまえ、つい半年ほど前に聖都ルシアスがどうなったのか、もう忘れたのか?大体おまえ自身も幼馴染みが飛空艇とやらにさらわれたから、その情報が欲しいのだろう?つまり、この半年の間、奴らはなりを潜めているみたいに、あれからなんの動きも見せていない。だが、その気になれば他の国を攻め落とすってことは連中にとって実に容易いことだ。そこで、奴らが攻めて来た際にどうやって国を守るのか――これはおそらく、聖五王国すべてにとって共通した軍事問題といえるだろう。そして私には次に奴らがやって来た時にどうすべきかについて、秘策とも呼ぶべき手がある。そのことを思えば、能無しのアビメレクがどんな遺言を残していようとも、現カルディナル王国のブリンクは、私の前に扉を閉ざすような愚かな真似はすまいという、これはそういう話だ」

 へいへい、そうでしたね、すみませんねといった態度のシンクノアとは逆に、ミュシアの顔は蒼白だった。あれから半年……そんなに経つのかという思いとともに、おめおめと生き延びた以外、いまだ自分が何も為しえていないような気がして――彼女は胸が苦しくなるものを感じていた。

「センルさん、その秘策って……もし聖都ルシアスにあの竜に乗った蛮族たちがやって来た時、それを使えば聖都を守れたというような方法なんでしょうか?」

「いや、それは無理だったろう」センルは、ミュシアが手を震わせてさえいるのを見て、彼女の心中を慮った。「前もってそうした連中が、どのくらいの規模で襲ってくるかがわかっていない限りはな。それに、かなりのところ危険な術でもあるから、ブリンクのエリメレクに話したところで、彼でさえも呆れるかもしれん。なんにしても私は、百万デナリオンの報奨金欲しさでなく、そのことは彼に相談してみるつもりだ。もし仮にわたしが宮廷魔導士を勤めるロンディーガに奴らが攻めこんで来た場合――カルディナル王国にも手を貸してもらうということになるだろうからな。そして、その逆もまたあるというわけだ」

「じゃあ、ミッテルレガントと俺っちの故郷イツファロはどーすんの?」

 相も変わらず、まるで人事のようにシンクノアが聞いた。

「……向こうは向こうで、それなりに動いているだろうよ。イツファロ王国があればこそ、ルシアス王国はこれまで北の守りに関しては何も思い煩うことはなかった。イツファロの北には白竜山脈という天然の要塞があって、ユーディン帝国もそこを越えてはイツファロに攻めてこれらない。そのかわり、雪に覆われた北の貧しい国に、ルシアス王国は何百年にも渡って必要なだけの援助を送ってきたというわけだ。ロンディーガとミッテルレガントは仲が悪いが、これは両者の国境の問題だな。お互いに歴史の長きに渡ってそこを広げようとしてきた経緯があるから……なんにしても、私がロンディーガ王国の宮廷魔導士になってから、奴らに1キュートス(1キュートスは約1インチ)たりとも、国境をずらさせてやったことはない。なんにしても、栄光ある聖都ルシアスが陥落したということは――聖五王国中もっとも大きな軍事力を誇るミッテルレガントが、ルシアス王国に攻め込む言質を得たとも、言えないことはないわけだ。あるいは、このミッテルレガントにもし、ルシア神殿の姫巫女さまがおられたとしたらどうなる?奴らは我々こそが聖五王国すべてを治めるに相応しいと主張しないとも限らんだろう。シンクノア、おまえには、自分がそういうお方を守っているのだという自覚を、私のいない間は特に持ってもらわないとな」

「へいへい。わかっとりやすとも!」

 そう言ってシンクノアは、ソファに寝転んだまま、ぼりぼりと尻をかいている。だが、センルにはよくわかっていた。彼も自分と同じく……ある意味ではこの事態を楽しんでいるのだ、ということが。

「で、でも、危険な方法って……まさか、センルさんの命が危なくなったりすることはないんでしょう?」

 彼女がセンルに対してよく見せる、気遣わしげな顔の表情を見て――センルはまた、心の中で笑いたくなった。ミュシアの頭にあるのは結局、自分のことより他人のことなのだ。自分がカルディナル王国へ売られたり、あるいはうまく口車に乗せられ、ロンディーガで姫巫女として立てられるかもしれないなどとは、彼女の頭には思い浮かびもしないのだろう。

 つまり、そのくらい自分は信頼されているのだと思う反面……ミュシアのその純粋さが仇になりはしないかと、センルはかなりのところ心配になる。彼女に出会って最初に用心棒を名乗りでたのが、自分やシンクノアのような人間だったから良かったようなものの――これが誰か他の人間だったらと、センルはそのことを思うと、今もなんとも言えない複雑な気持ちになる。

 だから、その日の夜は、続き部屋にある豪奢な寝室にミュシアが眠ろうという時、内側からでなければ開かないドアの鍵を、あえてセンルは彼女の手に渡していた。

「あの、べつにわたし、こんなものがなくても……おふたりのことを信頼していますし、それにわたしだけがあんな、天蓋付きのベッドで寝るっていうのも、なんだか心苦しい気がして。せめて、交替でベッドに横になるとか、なんだったらわたしがこちらのソファか炉辺で寝て、シンクノアとセンルさんが向こうのベッドをお使いになるとか……」

「じょーだんっ!!あんなお姫さまベッドでセンルと俺が寝てどーなるんだよ。あったく、気色悪ィな!!」

 蕁麻疹がでたというようにシンクノアがぼりぼりと背中をかく。センルとしても同じ思いだったが、ここで大切なのはミュシアがあくまで真剣だという、そのことだったかもしれない。

「とにかく、あんたは少し人が好すぎるからな。普段からこのくらいの用心をしておくに越したことはない。いいか?聖五王国中のどこの平民も、娘が十五、六になった時には、父親が「男を見たらオオカミと思え」と教えるんだ。シンクノアは変わり者のマゴクだし、私は容姿はともかく年齢のほうは三百歳にもなるから、それなりに分別もある……が、他の人間のことはそう簡単に信用するな。もっと言うなら、本当は私のこともシンクノアのことも、もしかしたら裏切るかもしれないくらいに思っておけ。私の言っている意味、わかるか?」

「えっと……」

 手渡された鍵を見つめ、ミュシアはよくわからないというように、少しの間首を傾げていた。

 結局、見かねたシンクノアが「俺はともかく、どっかの誰かさんは開錠呪文を使えば、鍵なんかかかってても意味ねーよな!」と茶々を入れることになる。

「まったく、おまえは……」と言いかけ、センルは頭をかいた。たぶん、こうしたことは、男の自分が噛んで含めるように言い聞かせるより――誰か適当な女性に助言してもらったほうがいいことなのかもしれない。

「私はおまえに、自分の力の及ぶ範囲で出来る限りのことをしてやるし、シンクノアもまた同程度のことをおまえにしてやるだろう。だが、場合によっては何かの事情でミュシア、おまえはひとりになるっていうこともありうるんだ。そういう時に見知らぬ他人が、滅多にいない三百歳のハーフエルフや、変人マゴクのように親切にしてくれるとは限らないっていうことを、私は言いたいっていうことさ。むしろ、表面的には親切そうな振りをして、あとでその取り分を要求するというパターンのほうが圧倒的に多いと見ていい。そのことを忘れるなよ。いいか?」

「……はい」

 ミュシアが素直にそう頷き、それではおやすみなさい、と言って寝室のほうへ行くと、最後にとても静かな音で、かちゃり、と鍵の回る音が聞こえた。まるで、わざわざこんなことをするなんて、むしろ失礼じゃないかしら、と気遣うように。

「センル先生、今日もごっそーさんでした!!」

 ソファの腕木のところに枕を置き、上等な肌触りの毛布を上にかけると、シンクノアはあらためてセンルにそう礼を言った。

「うまかったよな~。あの料亭の豚の丸焼きといい、ジャガイモの団子といい……牡蠣のスープなんて俺、生まれて初めて食ったぜ。デザートのパイもうんまかったしさ~。ほんと、蒼の魔導士さまさまっていうか。俺が疫病神なら、あんたはあの子にとってその反対のなんかなんだろうな、うん」

「別に、今さら白々しく私をおだてる必要はない」

 センルもまた、シンクノアと同じように、向かい合わせになったソファの一方でごろりと横になった。

「それよりも明日は……そうだな。出来ればあの子を年相応の普通の子に戻してやって欲しい。このくらいの規模の町になると、ルシアス神殿の神官も青い絹の服を着た娘も、それがどっちであれ、大して気に留める人間はいないだろうからな。大体ミュシアが今着ている服も相当すりきれているし、明日は仕立屋にでもいって、適当な服を見繕ってもらってくるといい。シンクノア、貴様も靴くらい新調してこい。じゃないと公衆衛生上、こっちがおおいに迷惑なんでな」

「は~い。センル先生、わっかりました~!!」

 ビシッとおどけたように敬礼する振りをしつつ、シンクノアはテーブルを隔てた向こう側にいる、蒼の魔導士のほうを振り向いた。

「ところでさ、センルって何かっちゃあすぐ、自分は三百歳自分は三百歳とか言ってるけど……あんたのあの子に対する気持ちって、結局なんなんだ?娘のことを思ってるよーでもあるし、あるいは孫娘のことを慮ってるよーでもあり……ま、少なくともミュシアはあんたのことをセンルおじさんとも思ってなければ、センルおじいちゃんとも思ってないわけでさ。これは仮にっていう仮定の話ではあるんだけど――たとえば、ロンディーガの今の王様があんたに、『姫巫女殿がご存命しているだと!?今すぐ私の元へ連れてこい』なんつって鼻息荒くしたとしたら、センルは永久顧問宮廷なんとかとして、どうするんだ?」

「くだらん」と、一言呟き、センルはソファから起き上がった。そして、ティーポットに残るすっかり冷めた紅茶をカップに注いで飲んだ。「私はもともと聖五大陸のどこの国にも肩入れするつもりはない。ロンディーガ王国はたまたま、私がカーディル王立魔術院を破門になった時、宮廷魔導士として受け入れてくれた国だったという、それだけだ。その頃は確かに、王国に対する忠誠心のようなものはかなりあったろう。だがもう、それから約二百年にもなる……その間、王となる者には賢王がたまにいるかと思えば、寵臣しかそばに近づけぬ愚王もいた。そういう意味で私は、ロンディーガという国には貸しもなければ借りもないだろうと考えている。幸いなことに、今のシグムント王は文武両道タイプのそう欲の深くないお方なんでな。彼は間違っても、これを好機と聖五王国のすべての覇権を握ろうなどとは考えまい。なんにせよ、今の私にとって大切なのは――少なくとも<ロンディーガは潔白である>ということがわかっているという点だ。カルディナル王国にしてもほぼ間違いなくそうだろう。いや、むしろそうでなければ、例の飛空艇を追い落とす算段を考えついた者には百万デナリオンだすなどという触れを、王が出すはずがないのだからな」

「でももしそれが、裏の裏をかいた行為で……たとえば、王はそういう考えであったとしても、国の最高魔導士であるブリンクが違う考えを持ってたらどうするんだ?センルのことを破門にならざるを得ないようにしたアビメレクっていう奴が、それでもブリンクの座に着いたって聞いて、俺思ったぜ。腹の黒い男でもうまく立ち回れば、そういう白い地位に着けるものなんだなって」

「おまえは時々、本当に面白いことを言うな」

 センルは紅茶を最後の一滴まで飲み干すと、もう一度ソファへ横になり、それから毛布と自分のローブを上からかけた。

「まあ、言ってみれば私は、そのあたりのことを明日、探りにいってくるというわけなのさ」

 そう言って目を閉じた魔導士の顔に、微かな愉悦の笑みが光るのを見て、シンクノアもまた安心して眠りに落ちることが出来た。自分が裏切ることもありうる、という一言を聞いて、ミュシアとは違い微かな疑いの心がシンクノアには残っていたのだが、これですっかりそれが解消された。

「俺さ、あんたのこと、単なる金蔓っていう以上に大好きだっていうの、知ってたか?」

 シンクノアが最後にそう言っても、センルは寝た振りをして聞き流していた。

 やがて、雨が外の窓を叩くようになっていたが――シンクノアもセンルもミュシアも、まるでそれが子守唄か何かのように、耳に心地良いものとして聞きながら眠りに落ちていったのだった。



 夜半に降った雨は、翌日には上がり、朝には気持ち良いくらいの快晴となった。

 とはいえ、そろそろ雨が雪に変わってもおかしくない季節でもあり、冷えこみのほうは大分厳しくなりつつあったのだが――とりあえずセンルとしては、今年の冬はここ王都カーディルで過ごすつもりであった。

 もっとも、カルディナル王国の現ブリンクであるエリメレクがアビメレクに並ぶ阿呆であったとすれば、ミュシアを連れて南のロンディーガへ下ることになるかもわからなかった。だが、可能性としてそれは低いだろうとセンルは見ていた。

 噂に聞く限りにおいて、エリメレクの評判は高く優れたものだったし、それは王が例の飛空艇を追い落とす算段を考えついたものには、百万デナリオン与えるという触れを出したということにも、よく現われている……おそらくこれがアビメレクであれば、自分のブリンクとしての面子を丸潰しにしたとして、烈火の如く怒り狂ったに違いない。

 つまり、エリメレクはこのことについて――自分にも手立てがないということを、おそらくはっきり王に申し上げたのだろう。カーディルの王都と城下町、それに王立魔術院とは、常時強い魔法を帯びた結界によって守られているとはいえ……ここを飛空艇に囲まれた場合、飛空艇はともかくとしても、結界は竜の翼を阻むということは出来ないのである。

 飛空艇というのが何か魔法の力を動力源にして動いているとしたら、結界を破るまでは進入して来れないにしても……そこから数頭の竜が放たれてしまえば、聖都ルシアスの二の舞になるのに、時間は一日もかかるまいと、センルにはそう思われてならない。

 第十二アザルの月も終わりに近いその日、センルは貸し馬車屋で白い馬を一頭借りると、石畳の町の大通りを抜け、海岸沿いにある森を抜けた先の王城を見上げながら――そちらへ続く道をではなく、途中にある分かれ道を左にとった。

 今から二百年以上も昔、この付近へは一体何度足を運んだか知れないくらいだったが、魔術院から破門に近い扱いを受けてからは、カーディル王立魔術院へはほとんど数えるくらいしかやって来たことがない。

 つまり、魔術院自体に用はないのだが、そこに付属している王立図書館――センルはそちらへ用のあることが、時としてあったということである。ミュシアも言っていたとおり、図書館へは平民たちにも来館が許されているし、一度一階の図書室内へ入りこむことさえ出来れば、センルには後のことはどうにでもなった。

 とはいえ、センルがそのような形で王立図書館へ来るようになったのは、アビメレクの死後、十数年が過ぎてさらにのちのことではある。

 そもそも何故、アビメレクという国の最高魔導士にまで上りつめたほどの男がセンルのことを毛嫌いしていたかというと、そのことには当然、理由がある。彼は王立魔導士学院における、センルより四学年上の先輩格にあたる学生であった。

 センルは学院内における初等部や中等部を経ることなく、高等部から入学を許されたという、非常に稀な生徒であったといえる。しかもその後、すぐに高等部を飛び級して大学へ進学することになり、アビメレクと同窓生になってしまったのだ。

 アビメレクは幼い頃より魔術の才を認められた、華々しい秀才であり、その鼻先でいつも自分が到底叶わぬ天才魔導士が嫌でも活躍するのが目に入る――とでも言えば、わかりやすかっただろうか。

 大学院を卒業後、ふたりは闇の魔導士を狩る部隊に配属が決定されたのだが、これはブリンクになるのにもっとも早い一種のエリートコースであると、周囲の人々には思われていたし、実際今もそうであったろう。また、仮に自分自身がブリンクの座に就くことはなかったとしても……その時、同期であった親しい誰かがその座に就いてくれさえすれば、カーディル王国における出世と将来の地位は約束されたも同然であったといってよい。

 ところで、魔導士としての腕前のほうは叶わなかったとしても、アビメレクにはセンルにないまったく別の種類の才能があった。すなわち、鉢の中でうまくゴマをするという行為である。彼はこれによってうまく立ち回り、闇の狩人と呼ばれる魔導士隊の部隊長の次の地位――すなわち、副隊長の地位を手に入れたのだ。

 以来、センルの元には特に厄介なエグい案件ばかりが回ってくるだけでなく、後続の者を育てるという名目において、足手まといにしかならないような魔法使いばかり、押しつけられるということにもなった。

 当時より、センルにはブリンクになりたいと望むような野心はなかったが、おそらくそのことを仮にいくら力説したとしても、アビメレクには理解できなかったに違いない。彼が死んだのちも、権力にものを言わせて、王立魔術院への自分の出入りを禁じたということを、センルはとても残念に思う……うまく言えないが、そこまでしたということはむしろ、彼の自分に対する一種のコンプレックスというのは、死ぬまで癒されなかったのではないかという気がするからだ。

 センルが妖精界――エルフの住まう世界から、人間界へ来ることになったのは、彼が人間の年齢にして八十歳になった頃だった。いや、妖精界、またの名をティルナ・ノーグと呼ばれる国では、時間の流れ方が曖昧なので、それすらも本当はあやふやなのだ。とにかく、センルは人間である自分の父親の没した年月日から推定して、そのように考え、自分を約三百歳であると計算しているのだが、なんにしても、カーディル王立魔術院へセンルが入学したのは、十六~十八歳くらいの頃だったといえただろうか。

 センルにとっては、魔法は使えて当たり前なものだった。何故といって、それまで日常的に使っていたエルフ語を使えば、火に「燃えよ!」と命じればそのとおりになり、水に「凍れ!」と命じれば真夏にも湖を凍らせることが出来たのだから。

 ただ、センルはどちらかというとむしろ、何故人間が普通に魔術というものが使えないのかということに、強い興味があった。彼らは天の理と地の理に通じるたくさんの本を知識として詰めこみ、その上長ったらしい呪文を詠唱してからでなくては、魔法を使うということが出来ないのである。

 そこでセンルは、それらのことをすべて覚えこみ、エルフとしてだけでなく、人間が魔法を使うための道も修め――そうしてカーディル王立魔術院を最高の成績により卒業した。カーディル王立魔術院における成績はすべて得点制であったため、その総合得点を破った生徒が現われたという話を、今もセンルは耳にしていない……とはいえ、アビメレクにはわからなかったろう。センルもまた「ハーフエルフなのだから、出来て当たり前」というコンプレックスに、彼自身がいくら悩み苦しまねばならなかったか、などということは。

 そもそも、センルにとってはそれまでいた人間界などより素晴らしく居心地のいい国である妖精界より、半分人間の血が混ざっているから、などという理不尽な理由によって追い出されねばならなかったこと、それが一番の不幸のはじまりであった。

 センルの母親は樹の精霊ドライアドのひとりであり、ある時人間の若者と恋に落ちたのだという。これらの種族を超えた恋愛というのは禁忌とされているが、ハーフエルフという存在が何故そんなにも稀なのかについては、当然理由がある。ティルナ・ノーグに住む精霊たちはエルシオンと呼ばれる世界の天地が滅ぶまで、決して死ぬことはないのだ……だが、人間と恋をして子を宿らせた場合には、子を儲けた精霊は死を味わうことが運命づけられている。

 ゆえに、センルは母の顔を知らず、母セシリアの妹であったセリエという樹木の精に育てられた。妖精界で育った、人間の時間に換算して約八十年もの年月、センルは不幸というものを知らず、まったく幸福であった。にも関わらず、何故その時になって人間界へ身を堕とされることになったのか――本当の理由については、センルは今もよくわかっていない気がする。

 ハーフエルフの子は、人間として成人したといっていい年齢に達するまでは、ティルナ・ノーグへの滞在を許されるが、それ以降は人間界へ落とされるという神によって定められた<掟>があるのだという。

 そのことを知った時、センルはどれほどその<掟>の神を恨んだことだろう……セリエが当時のカーディル王立魔術院の院長の夢に現われ、そのハーフエルフの子を預かって欲しいと頼んだ時、彼女は夢でのお告げのとおりに、学院の裏庭にある樫の樹の根元で、センルの姿を発見した。

 彼女は名前をナディアといい、以来センルの人間界における母親にも近い存在となった。浅葱色の髪に、水色の深い瞳をしたナディアは、その生涯を魔法教育に捧げたといっていい人物で、家族もなければ子もなく、また結婚した経験も持たない女性だった。

 ナディアはセンルのことを贔屓することなく厳しく育て上げ、結局のところ闇の魔導士狩りのエグい汚れ仕事をセンルが何故九年も続けたかといえば――それは一重に、血の繋がらぬ義理の母を喜ばせたかったからに他ならない。

 実際センルは、もしナディアの望みが自分がカルディナル王国の、引いては聖五王国の頂点に立つともいえるブリンクになることであったとすれば、その地位に就いても良いとすら思っていた一時期があった。だが、ナディアはとても賢い女性であったので、「私はおまえを愛しているから言うんだよ。ブリンクになどなりなさるな。あの地位は自由なおまえの心を縛ってズタズタにし、苦しめるだけだろうからね」と……。

 だが、人間の女性としてセンルが一番愛したともいえるナディアが亡くなると、センルは闇の狩人という部隊にしがみついている理由を失ったのである。以来、聖五王国をあちこち旅し、そのことにも飽きた頃――センルはロンディーガ王国の第五十七代目の王の妃である、リエラ王妃と恋に落ちた。

 彼女は若くして、政略結婚によりミッテルレガント王国から年老いた王の元へ嫁がされることになった、薄幸な女性だった。本国で美姫と歌われただけあって、第五十七代目の王が崩御すると、第五十八代目のトライゼル王が、彼女を妃にと求めたほどであった。とはいえ、リエラ王妃はこのふたりのうち、どちらも本当の意味で愛しはしなかった。彼女は王宮の中庭で出会った容姿端麗なハーフエルフの若者と激しい恋に落ち、王の目を盗んで十数年にも渡り、愛人関係を持っていたのだから……。

 だが、リエラ王妃は美しいだけでなく、気高い女性でもあったので、センル自身は決して歳をとらぬのに、自分の容色だけが衰えていくのを嘆き――四十歳の誕生日を迎える前に、センルとの関係をはっきり断ったのである。しかしながらそれと同時に、彼女はとても酷な約束をセンルにさせた。彼の命がある限り、自分の王子とその子孫とを陰日なたなく見守り続けて欲しいと言うのである。

「王妃よ、百年年のことは誰にもわかりませぬ」と、センルはその時リエラに対してそう告げた。「長い年月の間には、ロンディーガ王国にも賢い王とそうでない王とが誕生しましょう。ですがいずれにしても、王妃の子である王子と、その子孫の三代目までについては、必ずその約束を果たすとお約束しましょう」

 ――そして今、三代目どころでなく、その後の行く末までも見守っているセンルがここにいるわけだが、リエラ王妃に対する愛が今もそうさせているのかといえば、センルはそのように思うことは今ではほとんどない。

 そもそも、リエラ王妃と激しい恋に落ちていた十数年の間さえ……彼女を真実本当に愛していたかと問われれば、それは二百年も昔のある一時期、そのようなこともあったという、それは幻か霞のように思われる幸せで苦しい記憶でしかセンルにはない。

 そして、いつか真実本当に人を愛すことが出来れば、自分の母親が命を捨ててまで自分を生んだ気持ちがわかるだろうかとセンルは想像していたが――やはり、その理由についてはわからぬままだった。にも関わらず、人間の世界へやって来て二百二十数年も過ぎようかという今になって、センルは突然濁っていた目が明るく開けたかのように、母セシリアの気持ちがわかりかけていたのである。

『センル、あなたのお父さんはね、人間よりもわたしたち精霊に近いような、とても心の澄んだ美しい人だったの……だからセンルのお母さんは、彼と恋に落ちたのよ』

 そうセリエに言われても、センルにはやはりティルナ・ノーグのような素晴らしい世界を捨てて、死を選ぶような母の気持ちは理解できなかった。だが、『わたしたち精霊に近い、心の澄んだ美しい人間』というのがどういう人間なのか――センルには、ミュシアと出会って初めてわかった気がしたのだ。

 センル自身はミュシアに対して、リエラ王妃に対するような激しい気持ちは持ち合わせがないが(この点は断言できる、と彼は思っている)、彼女のことをリエラ王妃とはまったく別の意味でとても愛しいと感じるし、王妃のためならば命を捨ててもいいと思っていたのと同じ気持ちで、ミュシアのために出来る限りのことをしてやりたいように思うのだった。

(まあ、これをセンルおじさんのお節介というのか、センルおじいちゃんの酔狂と呼ぶのかはわからないにしても)と、シンクノアが昨夜口にした言葉を思い出しつつ、センルは糸杉に挟まれた森の小道を、馬に乗ってゆっくり歩いていった。

(わたしがこんなにも誰かひとりの人間に執着心を持てるのは、滅多にないことだからな。シンクノアという男も面白い奴だし、今暫くの間は楽しませてもらうとするか!)

 センルは馬の速度を上げて、湖のほとりの道を一気に駆けてゆくと、カーディル王立魔術院の門衛がふたり、槍を掲げている手前で立ち止まった。

「カルディナル王国のブリンクであらせられる、エリメレク殿は公邸におられるか?ロンディーガ王国の永久顧問宮廷魔導士センルがお目通り願いたく参ったと伝えられよ。もし、第五十四代目のブリンク、アビメレクの遺言とやらが今も生きているのだとしても――この火急の用をお聞きになられぬのであれば、カルディナル王国及びカーディル王立魔術院も地に落ちたものと、我が国でおおいに笑わせてもらうぞ!」

 門衛の任に当たっている魔導士は、襟章から見て第十級、エディナ(茶)の魔導士であるらしかった。彼らは今自分たちが目の前にしているのが、まことに本人であるかどうかとあやしむかのように――馬上のセンルのことをぼんやり見上げている。

「あ、あのう……少々お待ちくださいませ」

 センルはこのふたりに対し、本に齧りついてばかりいるタイプの、ろくに魔術の使えぬ草食系タイプの魔導士であると、一目で見てとった。炎を操れるにしても、十級であればせいぜいが自分の家の台所で茶をわかせるといった程度だろう。

 そのくらい、魔術の習得というのは難しく、才能にも差が出やすいものなのだが、王立魔術院の門衛の仕事といえば賃金が良いだけでなく、名誉ある仕事だというのは確かであったに違いない。

「あ、あのう。本当にあなたさまはあの……金銀の魔導士センルさまでいらっしゃるので?」

「いかにも。王立魔術院の床下には確か、真実と嘘を見抜く小人たちが住んでいたはず。なんだったら彼らに、わたしを判定させるがいい。第一、魔導士の階級には金も銀もないはずだが、人が私をそう呼ぶのは髪の色がこれだからなのだよ。その目で見てわからぬか?」

 まだ三十にもならぬであろう、若い門衛は、陽の光にずっと金色に輝いているように見えたセンルの髪が――よく見ると金とも銀ともつかぬ色に光るのを見て、一瞬「あっ!」と言って息を飲んだ。

「た、確かにそのとおりでございます。ですが、二百年経っても本当にお変わりないとは、人間の私にはまったく、不思議な限りと申しますか、なんと言ったらいいやら……」

 センルの目にはその時、彼が自分の心情としてはセンルのことをすぐにも通したいと思っていることがわかった。とはいえ、下手なことをすればせっかくの職を失うか、あるいは罰として減俸されるであろうから、彼としても自分の相棒が戻ってくるのを待つしかなかったのであろう。

 やがて、冑を脱いで脇に抱えたもうひとりの門衛が、小走りに戻ってきた。彼の顔は笑顔を浮かべており、センルは『良い知らせを持つ者は鹿よりも速く駆ける』との言葉を思いだし、彼が吉報を持ってきたのだろうと信じて疑わなかった。

「ど、どうぞ、お通りくださいませ、センルさま。エリメレクさまであれば、公邸内でご勤務中であらせられます。ですが、喜んで是非お会いしたいとのことでございました。アビメレクさまのご遺言につきましては、そのう……二百年も昔の故人の寝言にはつきあいきれぬと、そう申されておいでで……」

「さようか。どうやらエリメレク殿は、なかなか話のわかる御仁であらせられるようだな」

 馬の手綱を引き、案内しようとする門衛のひとりに、センルは「道ならばわかるので、案内はよい」と告げた。

「何しろ私は、二百年前にはここに住んでおったのだからな」

 センルはそう言い、馬に乗ったまま道を進んでいった。マロニエの並木道を通り過ぎると、初等部の学舎のほうが見えてくる。中等部も高等部も大学院のほうもみなそうなのだが――学舎の建物というのはすべて、魔法の切り石を積み上げて出来ている。一見そう見えないのだが、近づいてよく見ると、ダイヤモンドのような細かい鉱石の粒が凝縮しており、これが闇に属する魔法を弾くので、悪しきものはカーディル魔導士学院に足を踏み入れぬことさえ叶わぬと言われていた。

 その淡い白色をした切り石は、日光を浴びたからといってそれがダイヤモンドの如き輝きを放つわけではなかったにせよ、センルが最後に見た約二百年前の頃より、少しも色褪せていなければ汚れてもいないというのは確かであった。

 センルは初等部から中等部へと続く道はとらず、初等部の建物の裏にある林、白樺林に囲まれた池の前を通り、そこにかかっている太鼓橋を渡って魔導教員たちの寮がある先の建物を目指した。かつてセンルの義母にあたるナディアも暮らしていた代々の学長が住む屋敷の隣に、ブリンクが執務を行う公邸があったからである。

 彼は言うなれば、聖五王国魔導士会の総理事ともいえる存在であり、そこで普段は決済すべき書類に目を通し、それ以外の時間は瞑想しているか、寸暇を惜しんでさらなる魔導の探求に励んでいると信じられている。また、宮廷魔導士として王の顧問を勤めたり、また王府の仕事を司る役人たちの政治的な相談役としても忙しい人物であった。おそらくこのうち、前者の比重が一割か二割としたら、後者の比重のほうが八割か九割くらいの割合でブリンクの双肩にはのしかかってくるはずである。

 そのような人物の公邸が何故王府にあらず、王立魔術院の学長の屋敷の隣にあるのかといえば、それだけ魔術院と聖五王国魔導界の最高権力者とは結びつきが深いからだと言えただろう。それもそのはずで、カルディナル王国の後のブリンクは、絶対的にといっていいほど、このカーディル王立魔術院の卒業生なのである。

 また、一般には面立って知られていない闇の魔導士狩りの他にも――魔術院の優秀な卒業生たちは、ある時は間者として聖五王国それぞれに、またそれ以外の国々にも抜かりなく放たれている。そうしたことすべてをまとめ上げるのに、ここカーディル魔術院の敷地内ほどうってつけの場所はなかったと言えたに違いない。

 なんにせよ、この時センルは、水の精霊ウンディーネの住む湖の河畔にある、公邸というよりはブリンク自身の私邸といっても差し支えない建物の前で馬を下りると、彼を好きなように庭で遊ばせておくことにした。

 魔術院の生徒たちが初等部か中等部で習う魔法に、動物と話をすることの出来るものがあるが、センルにはエルフとして生来そのような性質が備わっていたので、この貸し馬車屋で借りた白馬もまた、センルが指笛を吹けばすぐ彼の元まで戻ってくるはずであった。

≪あら、セシリアとセリエの息子のセンル。随分久しぶりに戻って来たのに、わたしには挨拶もないのかしら?≫

 湖の中から、上半身裸の、透明な水で出来た女性が顔をだし、そう彼に話しかけた。魔術院で何かつらいことがあった時、ウンディーネには随分慰めてもらった記憶がある。その他、マロニエの樹の精にも白樺の樹の精にも、校庭に生える樹々の一本一本に……そういう意味ではここは、魔法の宿る力の強い、本当に特別な土地であるとセンルは感じる。他のどんな場所であれ、精霊というのは必ずその地に根づいて生きられるとは限らないからだ。

≪君は二百年経った今も、相も変わらず美しいな≫と、センルはエルフ語で話しかけた。≪それと、最後に会ってから二百年も経つのに、それを久しぶりで片付けてくれるウンディーネのことが、私は好きだ。何故といって、人間が相手ではこうはいかないからね≫

≪そりゃそうでしょうよ≫ウンディーネが鈴を転がしたように笑うと、大気の精が共鳴したように、快く震えた。≪ここの湖を潜ったら、そこはティルナ・ノーグと繋がってるんですもの。向こうへ行ってセリエに会ったらこう伝えておかなくちゃね。「久しぶり」にあなたの息子のセンルに会ったってね……あら、ブリンク大先生が公邸から出ていらっしゃったわ≫

 ウンディーネの言葉に、センルが後ろを振り返ると、そこには鉄灰色の長い髭を蓄えた、灰色の厳しい眼差しをした矍鑠たる老人が立っていた。彼の着ている白いローブは純白で、何かの魔法の力によって磨かれているように微かに眩しかった。

≪初めまして、センル殿≫と、エリメレクもまた、エルフ語でそう言った。≪あなたのお噂はかねがね、色々と聞いておりますぞ。そして間近にこうして相まみえた幸運を、精霊たちに感謝しなくてはなりますまいな。特にそちらの美しいウンディーネに≫

≪まっ、ブリンク大先生ったら、お上手なのね≫

 そう言って、ウンディーネは再び湖の中に静かに姿を消した――彼女には、センルとエリメレクの間に何か大切な話があるらしい、とわかっていたのである。

「さて、と。むさくるしい政務室などでなしに……わたしの妻の学長の住む屋敷へ参りませぬか?かつて、あなたの義理の母上であった、ナディア殿とあなたが暮らしていた部屋ですよ。お懐かしかろうと思うのですが、おそらくあなたがお暮らしになっていた頃も今も、そう大して変わっとりゃせんのではないかと思いますぞ」

「ええ、出来れば是非」

 センルは、ブリンクとなった者だけが持つことを許される光魔石の嵌まった彼のイチイの杖を見て、何故だかとても懐かしいような、不思議な気持ちになった。アビメレクがブリンクになる先々代ということは、第五十二代目のブリンクということになるが――その彼がやはりよく学長であるナディアの屋敷へ来て、セシルに色々なことを話してくれたものだった。

 そして今目の前にいるカルディナル王国最高位の魔導士は、その時のブリンクであったエブヤタルにとてもよく似ており、センルは何故だか時間の螺子が魔法で戻ってしまったかのような、不思議な錯覚を覚えてしまう。

 学長の屋敷のほうも、まるで時間が止まったように何も変わったところがなく、生えている草や花もまるですべて同じようだった。たとえば、今は花など咲いてなくて何も見えなくても、薔薇の花のためのトレリスだけは屋敷の前面を飾るように残っていたり、ナディアがお気に入りだった藤棚の下には、変わらずにベンチが置かれている……屋敷の角には毎年カノコソウが生えるし、屋敷自体がびっしりと一面蔦に覆われているところも――何も変わっていなかった。

「毎年この屋敷は、秋になると鮮やかな紅葉のドレスを身に纏うのですよ」

 エリメレクはまるで、無論ご存知でしょうな、とでも言うように、しきりに鉄灰色の顎鬚をしごいていた。

「まあ、なんにしても自分のご自宅と思って上ってくだされ。何しろあなたさまは魔術の才覚ということに関しては、第五十四代目のブリンクに選ばれていて当然の方だったのですし、そうなればわたしなど、今も闇の魔導士狩りをして東奔西走しておったことでしょうからな」

「いえ、ご存知かどうかはわかりませんが」と、センルは遠くにニシキギの赤が燃えるのを眺め、満足の溜息を洩らした。あまりに何もかもが変わっていないので、二百年もの時が過ぎたなどとは俄かに信じ難いにしても……エリメレクは少なくとも自分より、二百三十歳は年下なのだ。そのことを忘れず、年代的なことをよく考えて話をしなくてはならない。「私の義理の母のナディアも、当時のブリンクのエブヤタルも、私がブリンクになることには反対していました。私自身も結局、権力的なことにはまるで興味がありませんでしたし……何より、闇の魔導士狩りが私の心に及ぼした影響力も大きかった。あんなものを三十年以上もやった後でブリンクになったアビメレクには、ある意味賞讃の念を覚えますよ。これは皮肉などではなく、本当に心からの賛辞です」

「あなたのおっしゃりたいことは、よくわかります」

 エリメレクに室内へ案内されると、そこは香草の匂いで満ちていた。ナディアとセンルが一緒に暮らしていた頃とまったく同じように……居間は小ぢんまりとした作りだが、とても居心地がよく、室内のあちこちにアップルゼラニウムやレモンバーム、月桂樹や薄荷ミント、ローズマリーといった芳香性のある植物が配され、不思議な香りで満ちている。

 エリメレクは奥の書斎や寝室、屋根裏なども見たければどうぞ、と薦めてくれたが、センルは首を振った。今は過去の思い出に耽っている時ではなく、自分はとても大切なことを話したにきたのだと、そう訴えかける眼差しでエリメリクのほうをしっかりと見返す。

 エリメレクがちょっとした合図ウィンクのようなものを与えると、暖炉には炎が燃え、その上に飾られた騎士の剣の二振りが、一瞬輝いたようであった。壁には他にもカルディナル王国の紋章の描かれた盾などがあり、センルはそれらの装飾品の位置もまるで変化ないのが、なんだか不思議な気がした。まさか、学長の部屋は代々模様替えしてはならぬ、という規則があるわけでもなかろうと、そう思うのだが……。

「今、お茶をお淹れしますよ」と、台所ストーブに薪を入れ、そこに鉄瓶を置きながらエリメレクが言った。「お菓子はいつも、この戸棚の中に、と。おお、ありましたぞありましぞ、レモンジェリーのタルトが。わたしはこれに目がなくてのう。こいつが全部なくなったとわかったら、妻のレティシアはさぞ怒るに違いないが、まあ、お客があったといえばその怒りも忘れてくれるに違いない。なんにしても、遠慮なくどうぞ」

 そう言われ差し出されたレモンジェリーのタルトに手をつけ、繊細なレース模様のテーブルクロスの上に、紅茶が出される頃――センルはすっかり人心地ついたような気持ちになって、エリメレクに本題について切り出した。

「私は、一応ロンディーガ王国で永久顧問宮廷魔導士という地位にある者です。ですがまあ、そのせいでロンディーガ王国のブリンクに任命される者は代々大変かもしれません。何故かというと、お目付け役の小姑のような存在が、いつも先にいるわけですからね……そのようなわけで私は、今こうしているように王宮内へ籠もらず、外へ旅に出ていることのほうが多いのです。私は権勢といったものには興味ありませんし、反りの合わない王が即位したり、あるいは相性の悪いブリンクなどが王宮内で幅を利かせる時には――まあ、大体自分から身を引くことにしているのですよ。もちろん、必要とされる時にはいくらかの助言は与えるにしても……そして私は現在ロンディーガ王国に勤めるブリンクのアヒトフェルと、あまり相性がいいとは言えません。そこでまあ、また少しの間国を留守にしようかとも思ったのですが――そこへ、例の前代未聞の事件が持ち上がったわけです。正直いって私は今ごろ、アヒトフェルが泡を食って王宮内を右往左往しておればいいと思う……なんにしても、よやも聖都が陥落することがあろうとは、誰も夢にすら思ったことのない事態です。聖五王国のすべての国が、このことの解決策を求めているというのは、誰もが知るところなわけですが、私は仮にもロンディーガの宮廷魔導士として、国を守る責務は放棄したくないと思っています。そこで、まずはカルディナル王国と手を組むべく、今日ここへあなたにお会いしに来たというわけなのです」

「なるほど」と、エリメレクは、優しい中にも油断のない光を瞳の中に宿らせて、何度も頷いた。「よろしいでしょう。お互いに利害が一致しているのですから、それを妨げるものは特にこれといって何もないはず……カルディナルの国王が例の飛空艇を追い落とす妙案を思いついた者には百万デナリオンの報奨金を出すと言ったとおり――わたしにはそのような戦に勝てる策がひとつも思い浮かばなかったのですよ。かといって何もせずに手をこまねいているというわけにもいかず、そこで各国に放っていた間者の意見をまずは総合的にまとめるということにしました。まずは、聖都ルシアスが陥落するというまさにその時、その場に居合わせたマキルの位の魔導士は、襲ってきた連中がどんな奴らだったのか、また彼らが何を言い、何をしたのかを、直接わたしの目の前で説明しました。奴らの首領は<地の崖ての国>の王アシュランスと言い、飛空艇の大きさ、それに人がどの程度乗っていたのか、また襲ってきたという竜は全部で何頭いたのか……センル殿、あなたもおそらくご存知でしょうが、巷間に流布している噂話には実に尾ひれのついたものが多くて、実際には奴らは実に少数精鋭で襲ってきたのですな。また、飛空艇といったものも、人が口で噂しているほどには、馬鹿のように大きいということもない。いや、大きいには大きいのですが、まあこの点についてはあとでまた詳しく説明しましょう。やって来た飛空艇は全部で七隻、その一隻ずつに竜を一頭乗せていた。つまり、合計で七頭ですな。これを人は何十隻もの軍艦とか、何十頭もの竜といったように噂しています。また、飛空艇自体に何か魔法の力によって地上を攻撃できる装備があるのかどうかといったことは不明であり、これがどうやって空に浮かんでいるのかも、我々にはわかっていない……ですが、<地の崖ての国>などという、御伽の国のような名前を聞いて、何か思い当たることはありませんかな、センル殿?」

「<地の崖ての国>といえば、この地上の果てにあると言われている国ですよ。正確には、そこに天国へ通じる門があって、人々の魂はそこから天へ昇っていくんでしたっけね」

「さよう」と言って、模範解答を返した生徒を見るような目で、エリメレクは優しく笑った。「普通はまあ、こう考えますね。我々は聖五王国という世界の中心の民であることを誇りに思っておるわけですが――北のイツファロ王国の白竜山脈を越えれば、そこにはユーディン帝国の領地がありますし、ミッテルレガントの西にはナーガ・ラージャ王国との国境であるタハリール山脈、別名呪われ山脈とか血塗られ峠と呼ばれる場所があり(というのも、そこで両国が何度となく激しい戦闘を繰り返して来たからですが)、その向こうの国々を一般にわたしたちは世界の中心から外れた辺境王国と呼んでおるわけですね。ですがまあ、センル殿には説明するまでもなく、辺境王国のほうが我々の住む聖五王国より、国の数も多いだけでなく、その領土もとても広いわけです。普通に考えたとしたらば――そのうちの国のひとつか同盟を結んだ数か国が、辺境から世界の中心と言われる聖都ルシアスを襲い、その栄光を貶めた……と考えるのがまともでしょうな。<地の崖て国>など、我々は聞いたこともないし、いや、聞いたことはあるにはあるのですが、それは遥かな昔の、伝承によってだけなのです。そこでこのわたし、能無しの役立たずであるこのブリンクめは、考えに考えましたぞ、センル殿。わたしが間者を放っているのは何も、聖五王国のみではありませんからな……そして辺境王国すべての間者の意見もまとめてみた結果として、おそらく奴らは確かに<地の崖て国>からやって来たのです。このことをわたしは、気が狂ったと思われぬために、まだ王には当然のことながら、信頼できる側近たちにさえ、洩らしてはおりませぬ。何故といって、奴らが<地の崖て国>から我々を襲いにやって来るのだとして――それがなんだというのです?王が欲しいのは奴らを撃退せしめる方法なのですし、奴らが真に何者なのかについて、わたしは何も知り得ていないのですよ。なのに、そんなことを申し上げて一体何になりますか?そこでわたしはさらに熟考を重ね、古い文献という文献を調べ……もしや、意外に事実は単純なことなのではないかという可能性に気づきました。センルさんは、今は失われた箱舟民族、ゼロラの民についてご存知ですかな?」

「ええ、まあ、一応は。といっても、それだってただの伝承ですがね……今から千年以上も昔の」

「さよう。聖竜ルシアスは、人間となってルーシュという名の妻を娶りました。そうして人間たちは、竜の血脈を引く者とそうでない者とに分かれていったわけですが、竜の血が人間の間で濃かった黄金時代というのは、そう長く続かなかったわけですな。竜の血が薄まるにつれて、人々は互いに醜い争いを繰り返すようになり、その度に神の怒りが地上に下っては、かつてはひとつだった大地が割れ、地震や大津波が起き、たくさんの人々が亡くなりました。ところが、それでも彼らの間で争いはやむことがなかった……そこで、神が<地の崖て>と呼んでいた場所へ追いやっていた暗黒竜が底知れぬところの穴からやって来ると、この世界は暗黒に包まれました。さて、聖竜ルシアスはこの世にすでに存在していません。何故といって彼は人間の娘に恋をして、その永遠といえる寿命を自ら捨てたのですし、その代わりに自分の竜としての力を、七つの秘宝に託したからですよ。この世界にはまだ、心の正しい人間、正しいまったき良心を持つ人間が、少ないながらも残っていました。また、そのことを神はご存知であったので――彼らが協力しあい、聖竜ルシアスの力を持って暗黒竜の力を彼ら自身の手で退けることを望んだのです。ですが、地上がますますひどい状況になる間、地上に残る心正しき人間たちを神は哀れに思ったのですな……地上にいたゼロラと呼ばれる民に神の知恵を授けて、彼らが救われるための箱舟を作らせ、多くの人をそこに乗せたのです。まあ、伝承によれば心の正しき人たちだけが救われたということになっていますが――どうやってそれを決めたのかといったことは、よくわかりません。なんにしても、選ばれた勇者たちが聖竜の力が封印された七つの秘宝を集めて、暗黒竜と戦わんとする間、心正しき人々は箱舟の中で聖竜の復活とその勝利を信じ祈り続けたと言われています。そして最後の最後、もはや希望もなく滅びるしかないと思われた人類は、ぎりぎりのところで救われたのですよ……聖竜が再び復活し、暗黒の竜を底知れぬ地の底へ追いやったことによって。

 さて、どう思われますかな、センル殿。これらを馬鹿馬鹿しい神話の時代の絵空事として片付けてしまうのか、それとも――」

「待ってください」と、センルは、どこか狂信者じみた瞳の色をエリメレクが浮かべている気がして、慌てたように彼を制止した。「その、私もエリメレク殿のお話には感じるところがありますが、私はもう少し現実的な人間なのですよ。こんなことを言えば、笑われるかもしれぬというのを承知の上で……私はあなたが話の出来そうな人物なら、こう聞こうと思っていたのです。聖都ルシアスを襲った人間は、箱舟民族と呼ばれるゼロラの子孫か何かなのかもしれない、と。それで、ある日遺跡の中かどこかから、箱舟の建造の仕方を発掘したとしたらどうでしょうか?もっと言うならわたしは、カルディナル王国最高の魔導士であるブリンクしか閲覧の許されない禁書の中に、その秘密が隠されているかもしれないとすら思っていたのです。つまり――<箱舟の作り方はわかっているが、それを仮に建造したにしても、動かし方がわからない>といったようなことです。たとえば、重力魔法を使えば、ちょっとした小船程度なら、私にも宙に浮かせることは出来る。だが、竜をのせるほど積載量のあるものを長時間高い位置にまで自由自在に飛ばし続けるというのは不可能です。あるいは数人の魔導隊が一組になって、力を合わせてそのような行為を試みるにしても……やはり限界があると思うのです。少なくとも、この大陸を越え、海を越えていくなどということは……」

 そこまで考えた時、センルの頭の中で何かが閃いた。何より、エリメレクがたった少し前に話してくれた言葉が、彼にとって答えを導くためのヒントとなり、今輪となってぐるぐると回転をはじめていた。

(事実は意外に単純――ゼロラの民――神話・伝承――箱舟民族――聖竜ルシアスの七つの秘宝……そして暗黒の竜………)

 センルがガタリと椅子から立ち上がった時、そこにはエリメレクが先ほど彼に見せたのと同じ、ある種の狂信者の持つ奇妙な輝きが、その瞳の中には宿っていた。いや、センルの場合瞳の中だけでなく、顔全体にまでその影響力が広がっていたといえるだろうか。

「そうか!わかったぞ!!事実は意外に単純なのだ!!私は、人間界へ来て以来、あまりに合理的に考える癖がつきすぎてしまったのかもしれない――妖精界など存在しないと考える人間を、いかに愚かかと昔は嘲笑ったものだったのに……今度はわたし自身がその罠に捕われていたのだ。<地の崖ての国>など存在しない……いや、たった今エリメレク殿が言ったとおり、それは存在するのだ、おそらくは。さあ、錆びついた記憶を呼び起こせ。聖書に関する私の知識は、かなりあやしいものになっているが――ああ、そうだ。ホテルに戻り次第、ルークの手からそれを貸してもらえばいいのだ……そうとも。ルシアス王家が興ったのは今から一体千何百年、いや千百何十年前の昔だ?私はそもそもそれをいつの頃からかあやしむようにさえなっていた。本当は聖竜の血を引く末裔などすでに存在しないにも関わらず、時の権力者が適当に伝説をでっち上げた可能性があるのではないかとさえ、思うようになっていたのだ。ルーク――あの子はもしかしたら、私より賢いのかもしれぬ。何故といって本当に起きたかどうかもわからぬ聖書の中の話をすべて、一言一句違わず信じているのだから。ゼロラ……そうか、ゼロラ。あいつらは、ゼロラの民の末裔なのだ。かつての世界の心正しき民である彼ら自身が、海を越えてこちらの世界とは関わりを持ちたくないと願ったから――神は彼らのその願いを聞き入れたのだと、聖書には書いてある。ああ、センルよ!おまえは神が本当にいるなどと、いまさらながらに告白するつもりではあるまいな……いや、魔導士というものは常に、仮定としての神を必要とするのだ。神が本当に存在するのか、実在するのかというのは、また別の話として……それにしても聖竜の秘宝とは!あまりに馬鹿らしくて本気で信じる気にもなれなかったが、よく考えれば一番ありえそうな話ではないか。そうだぞ、聖竜の秘宝はひとつは槍、ひとつは剣、ひとつは盾、ひとつは……ああ、もうそんなことはどうでもいい!!問題はそのうちの何をあの子が持っているのかだ!!」

 センルは暖炉の前をせわしなく独り言を呟きながら歩くのをやめ、突然革のブーツの踵で床の上を叩いた。そして、その段に至ってようやく、センルはエリメレクが自分を見つめる眼差し――気違いを見つめるような眼差し――にハッと気づいたのである。

「す、すみません。つい興奮して……少し、頭を冷やしに外へ出てきます。自分の考えをまとめたいので」

 だが、この時そう言うか言わずかのところで、センルの口からはまたも気狂いじみた独り言が次々と流れ出ていた。

 センルは中等部の中庭にある魔法の日時計(その日時計は正午近くを指していた)を眺め、高等部の校舎脇にあるガラス張りの温室で世界中の植物が栽培されているのを見、それから大学の敷地内で飼われている動物の檻の前を歩いていった。

 そこにはライオンや象や孔雀、豹やオウムなど、珍しい生き物がいたが、センルはそちらのほうにはちらとも目をくれず、とにかくカーディル王立魔術院の広い建物をぐるっと一巡してから、ようやく再びエリメレクのいる学長の屋敷まで戻ってきたのである。

 だがセンルは、彼の姿を見ると「まだいるとは思わなかった」というような顔をし、さらには自分から用向きがあって訪ねてきたことも忘れ、「今日はこれで失礼します」と、まるで独り言のよう呟いて、さっさとその場を辞去してしまった。

 帰り道、ウンディーネがセンルに別れの挨拶をしに再び姿を現したが、彼は気もそぞろな感じて、乗ってきた馬のことも頭になく、そのまま歩いていこうとしたくらいである。

≪ちょっと!あんた馬に乗ってきたんじゃなかったの、センル?もしあのまま放っておいたらあの子、大学院の連中にでも、魔導生態学の材料に使われちゃうわよ≫

「ああ、忘れていた」と、エルフの言葉ではなく、聖五王国の共通語であるルーシス語で答え、センルはピュイと、指笛を鳴らした。

 すると、すぐそばの柳の木陰から白馬が姿を現し、鼻面をセンルの顔にぴたりとくっつけてくる。

「おお、よしよし。そうか、ずっとここにいたいか……貸し馬車屋の主人は馬使いが荒すぎる?気持ちはわかるがな、私にもそれはどうにも出来ないことなのだよ。許しておくれ」

 そう言ってセンルは馬に飛び乗り、学長の屋敷から出てきたエリメレクに会釈ひとつ、目礼ひとつするでもなく――そのまま何も言わず、真っ直ぐに駆け去ってしまったのである。

≪どうしちゃったのかしらね、あの子。昔からちょっと変わったおかしな子だとは思ってたけど≫

≪おそらく、真実を探りあてられたのだろうよ≫と、エリメレクはウンディーネの、魚の鰓のような耳を見上げて言った。≪あの方は賢いお方だ……そして賢いがゆえに、一の事実で十の真実、いや、十の事実で百の真実を見抜いてしまわれたのかもしれぬ。いずれにせよ、次にあの方がここへやって来られた時、何を申されるのか、わたしは今からそれが楽しみでならんよ≫

≪あら、あの子、またここへ来る予定があるの?≫

≪またそう、日を置かずして参られるであろうよ。おそらくその時には――誰か他の、旅の仲間の方でもお連れになることだろう≫

≪もしかして、恋人かしらね?あの子の母親も、大体あの子くらいの歳で人間の男と駆け落ちしちゃったのよ。わたしなら、永遠の命よりも恋のほうを選ぶだなんて、考えられもしないけど、結局あの子は人間とエルフのハーフだから、わたしたちにはよくわからないところがあるのかもしれないわね≫

≪そうさのう。なんにしてもわたしはあの方が羨ましいよ。眩しいほどの若さと美しさと賢さに満ちておられるところが、特にな。本人はもしかしたらそのことに、お気づきでないかもしれないが……≫

 ――この時、エリメレクがウンディーネにエルフ語で語っていたとおり、センルは少なくとも自分が若いとは感じていなかった。確かに伊達に三百年生きていないだけあって、普通の人間よりは多少賢かろうとは思うものの、カーディルの城下町へ戻るまでの道々、センルは珍しくも自分のことをなんという愚か者よと、繰り返し罵倒してさえいたのである。

(そうだ。エリメレク殿が言っていたとおり、おそらく事実はもしかしたら意外に単純かもしれないのだ。わたしはずっと、聖書に書かれている言葉や神話や伝承の類といったものは……ある部分は寓話だろうと思うようになっていた。だが、もしその解釈も考慮に入れつつ、また同時に書かれていることや言われていること、伝えられていることが<事実であり真実である>というふうにありのまま受け容れて考えるとしたら?)

 糸杉に挟まれた小径のところで、常歩でゆっくり馬を進めながら、センルは馬上で自分の考えをまとめていた。何故といって、城下町の大通りの喧騒に巻きこまれてしまってからでは、ここまで集中して何かを考えるということは不可能に近いからだ。

(ゼロラの民は、絶えず争いごとを繰り返す中央世界の人間たちが嫌になり、彼らと分離することを神に願ったという。だから彼らの住む<地の崖て>という場所には、天国へ続く扉があると、一般に人々は信じている……が、これは正確に言うとしたらば、聖書の中にはない記述なのだ。ただ我々はゼロラの民が心正しく神に選ばれた民であったことから、そこにはそのようなものがあるであろうと、民間伝承として信じているというそれだけだ。ここでエリメレク殿の言ったとおり、仮に<地の崖て>という場所が本当にあって、聖都ルシアスを攻めたのがゼロラの民の子孫であったとしたらどうだろう?世界を囲む七海――エルヴァルト海、セスアラシア海、デュークセヴァリア海、サンエマルト海、カイスヴィリーフ海、ノヴァールスヴァルト海、ミドルネシア海――は、神自身が境を設けて海獣が棲むことにより、<地の崖て>との行き来を禁じたと言われるが、このことも私は本当にそうなのだとは、想像してみたこともなかった。ああ、だが、テガシエルパの民……奴らは船を自国の領土として世界を旅しているのだから、もしかしたら何か知っているかもしれないな。しかしながら、私も一度会ったことがあるが、あいつらはやたら口が堅い。金などいくら積まれようと、掟を破ってよそ者にぺらぺら余計なことをしゃべったりはすまい……それにしても、ここまでの仮定をもし正しいとしてみた場合、よりによって奴らは何故「今」攻めて来たんだ?何度考えても、そこがわからぬ。中央世界の人間どもは道徳的に堕落しているから攻撃せよ、との神からの命でも受け、制裁を加えにきたというわけでもあるまい。だが、奴らはそうすることで何か己に利するところが……)

 ここでまたさらに、センルは新たに目が見開かれる思いがした。

(そうか!私はてっきり奴らが――姫巫女の御身を手に入れることで、全世界の覇権を掌中にしようとしているのかとばかり思っていたが、そうではなく、奴らが欲しかったのは、聖竜の秘宝なんだ!!ひとつは剣、ひとつは槍、ひとつは盾……ああ、私の聖書に関する記憶は相当錆びついているな。ホテルへ戻り次第、ミュシアに聖書を読ませてもらわないと……)

 この時、センルの脳裏にふと、カーディル王立魔術院の門衛ふたりの姿が思い浮かんだ。彼らが冑と鎧を身に着けていたことを思いだし、(まったく、私はなんという大馬鹿者だ!!)と、ここでもまたセンルは己を叱咤した。

(ひとつは剣、ひとつは槍、ひとつは盾、ひとつは鎧、ひとつは冑……残りはあとふたつだ。確か、そうだ――確か、ひとつは指輪、ひとつは杯ではなかったか!?これらは別名<七つの聖鍵>とも呼ばれているものだ。そうか、だから<鍵>だとあの邪霊どもは言ったんだ。聖なる秘宝のその名すら口にしたくないというわけだ。ミュシア、あの子の体に入るとしたら、指輪か杯ということになるな。もちろん、魔術を使えば、体内に剣を隠すことも出来るには出来るが……剣も槍も盾も鎧も冑も、基本的には男が身に着けるものだ。それに対し、指輪は聖竜ルシアスが愛する妻ルーシュに愛の証しとして贈ったもの、また杯はそこに聖竜が血を流し、またそれをルーシュが洗って薬草エレクシエルを浸したものだと言われる。もしこのふたつのうち、ミュシアが所有しているとしたら、指輪よりは杯のほうが可能性として高いことになる。あるいは、そのふたつとも、ということもありうるのだろうか?巫女や神官といった聖職にある者は、装身具を一切身に着けてはならぬという決まりがあるから、指輪を見えるところに飾るのはまずいという事情はあるにしても……いや、そのことはまたあとでミュシア本人にも聞いてみよう。なんにしても、<地の崖て>の王のアシュランスの目的はおそらく、聖竜の秘宝をすべて集めることなのだろう。だが、ここからはさらに私の想像の領域を出ないことなのだが――ルシア神殿に杯と指輪の一方が眠っていたとして、ルシアス神殿には何もないということがありうるだろうか?<地の崖て>の蛮族どもは、両方の神殿を踏み穢していったという。ということは、だ。どこかに目当てのものがないかどうかと、その財宝の在処を探し回っていったということなのではないか?もし仮にルシアス神殿で守られていたものが剣でも槍でも盾でも鎧でも、そう考えた場合向こうの手に渡ってしまったという可能性は高い)

 そこまで考えると、センルは嘆息した。正直なところをいって、流石にもう頭がパンクしそうだった。与えられている確かな情報は少ないのに、もしかしたらこうではないかああではないかと、危惧する要素ばかりが増えていく……それというのも、すべてはミュシアのせいだと、センルはそう感じずにはおれない。

 貸し馬車屋に白馬を返した時、センルは馬が自分と離れがたく感じているのを知っていた。それで、もしこの町から出ていく時に馬が必要になったら、必ず迎えに来るという約束をエルフ語で囁いてしまったが、同時に内心では(そんな約束をしてなんになる)とも思わずにはいられなかった。

 それで<ヤースヤナ・ホテル>へ戻る道々、センルは軽い自己嫌悪にすら陥っていたかもしれない。貸し馬車屋の白い馬に対してではなく、自分がミュシアと約束した「出来る範囲内のことはなんでもしてやる」という言葉など、空文も同然ではないのか、という気がしてきたからだ。

(私が一体、あの子のために何をしてやれる?そうだ。もしもう一度奴らが聖五王国のうちのどこかへ攻めこんできて――生き逃れたであろう、<聖竜の姫巫女>がどこかに隠れているのはわかっている、彼女を差し出さぬ国は順に滅ぼしてゆくぞと脅していったとしたら?おそらくあの子のことだから、真っ先に自分から名乗りを上げて、そのアシュランスとかいう男に投降してしまうだろう。考えるだにまったくぞっとするが、私が一番嫌なのは、その時に自分がそばにいながら何もしてやれないかもしれないことだ……そうだな。危険とかなんとか、そんなことはもはや言っておられぬ。例の禁術を、エリメレク殿に協力してもらってなるべく早く完成させよう。いや、私はその相談のためにこそ、彼の公邸を訪ねたというのに、まったく何をしているのだ。エリメレク殿が私のことを無礼な頭のおかしい奴と思っていないといいのだが……)

 センルが<ヤースヤナ・ホテル>のロダールの間に戻った時、ドアを開けた脇、コンソールの置かれた下に、新品の編み上げ靴が置いてあるのがわかった。靴を新調してすっかり上機嫌になったのかどうか、シンクノアがソファの上でフンフンと鼻歌を歌っているのが聞こえる。

「あ、おっかえり~♪どうだった?エリメレクどんとの会合は?」

「カルディナル王国最高位の魔導士に対して、エリメレクどんはやめろ。それより、ミュシアはどうしてる?」

 シンクノアは通りの屋台で買ったらしい、サンドイッチを口いっぱいに頬張っている。ハムや鶏肉、野菜を挟んだものなど、テーブルの上に並んでいるもののひとつを、センルは遠慮なくつまんだ。

「コーヒーでもお入れしやしょうかね、旦那?ミュシアちゃんなら、寝室にこもってお祈りするとか言ってましたよ。なんていうんでしょうなあ、世俗における穢れにもう、ほーんのちょっぴし触れたってだけなのに、罪悪感を感じるのかもしれませんなあ。今ごろ『神よ、お許しください』とでも言って、懺悔してたらどーしましょ」

「まさかとは思うが貴様、ミュシアを変なところに連れていったりしなかっただろうな?城下町にはかなり大きい賭博場があるが、神官というのは当然、賭け事は禁じられているんだぞ。そんな場所にちょっとだけとか言って……」

「ちーがいますって!!誤解しなさんな、旦那」シンクノアは暖炉の火にかけていたやかんの湯でコーヒー豆をこしながら、センルのカップにそれを注いだ。こうしたものもすべて、金物屋や雑貨店で買ってきたものだった。

「ま、ミュシアちゃんが出てきたら旦那にもわかりますだよ。きししし」

 おかしな笑い方をしているシンクノアのことは無視し、センルはとりあえず軽く食事をした。そしてミュシアの分のサンドイッチを残しておこうと思い、センルがそれにハンカチをかけようとした時――不意に、続き部屋のドアがかちゃりと鳴り、ミュシアがそこから出てきた。

 それと同時に、センルにもようやくわかったのだ。シンクノアが何故あんなに上機嫌で、しかも鼻歌まで歌い、さらには意味ありげな笑い方をしていたのかが……。

「あの、わたし、変じゃないですか?こんな服、わたし今まで一度も着たことがないものだから……」

「いや、そんなことはない」

 センルはソファから立ち上がると、ミュシアがどぎまぎするくらい、色々な方向から彼女のことをかなり真剣に眺めた。

「仕立て屋に頼んでも、最低一週間以上はかかると思っていたが――よくこんなにぴったりした服を見つけられたものだな」

「それがですねえ、センルの旦那」と、シンクノアが茶々を入れるように言った。「どこぞの貴族のお姫さんだかが、気に入らないといって、ドレスをつき返してきたんですと。来月の第十三の月って、城下町で謝肉祭カーニヴァルが行われる月らしいですな。んで、その時に着る衣装をってことだったらしいんですが、そいつをそのまま売るにしたってなかなか派手目のドレスなので難しいじゃござんせんか。そこでですね、パーツごとに全部ばらかして、また違う服に仕立て直したってわけで、それがたまたまこうミュシアちゃんにピタッと合っちゃったってな具合なんですな、これが」

 薄桃色のカシミヤの生地が、ミュシアの白い喉元までをおおい、そのすぐ下にレースのリボン飾りがついていた。そしてそこからオパールのボタンが細いウエストまで流れるように付き、スカートのほうは二段のフリルによって覆われている。袖飾りと裾飾りとして銀の三つ編み模様が縁取りされており、地味なようでいてなかなか悪くないドレスだと、センルはそんなふうに思った。  

「俺もさー、ちょっくら調子ぶっこいてセンル先生のお金でお洋服でも新調しよーかと思ったんだけど、なんか今、仕立て屋さんって忙しいらしいね?来月にあるカーニヴァルに向けて、おおわらわらしくって、昔からのおつきあいの方でもない限り、今は受け付けられませんとか言われちまってさ。もう、オーマイガーッ!!てな感じ?」

「確かに貴様も、その乞食のかかしみたいな格好はどうにかしないとな」

 センルは着古したシンクノアの革の胴着とウールのズボンを見て言った。

「といっても、私は貴様のために贅沢をさせたいわけではない。ルシアス神殿の神官殿が乞食のかかしと一緒にいたのでは沽券に関わるという意味で――武器防具屋にでもいって、何か適当に見繕ってくるのための金をやろう。好きに使うといい」

「いやん、センル先生、そんなっ。ちょっと俺のこと甘やかしすぎじゃないっスか!?」

 気味悪く体をくねらせているシンクノアのことは無視して、センルはミュシアのために紅茶を淹れてやった。彼女はどこか恥かしそうに頬を上気させて、ちんまりとうさぎが草でも食むようにサンドイッチを食べている。

「よし、では私はエリメレク殿と話したことで――少し、色々と考えることがあるのでな。向こうの寝室で横にならせてもらう。もし私が出てこなかったら、これで」

 センルはそう言って、今朝銀行で下ろしてきたクラウン金貨を十数枚テーブルの上へ置いた。

「夕食を済ませて、出来れば私の分の食事も適当に買ってきておいてくれ。頼む」

「あ、あの……センルさん」

 ミュシアは、ソファから立ち上がったセンルのことを、いつもの気遣わしげな眼差しで見上げた。

「もしかして、どこかお加減が悪いんじゃないですか?気のせいかもしれないんですけど、エリメレクさんのところから戻ってきてから、少し顔色がお悪いような気がして……」

(そんなに顔に出ていたか)と思い、センルは微かに笑うと、ミュシアの頭をぽんぽんと撫でた。

「おまえが心配するようなことじゃない。それよりもその服、似合ってると思うぞ。まあ、ミュシアも時々は男の振りをすることなんか完全に忘れることだ。じゃないと、疲れて神経のほうが参ってしまうかもしれないからな」

「えっと、でも……」

 センルは、ミュシアの瞳の中に複雑な感情の影が揺れているのを見てとった。だが、それ以上は特に何も言わず、隣の寝室へいくことにした。そして蓋付きの机を開け、羊皮紙に羽根ペンで色々なことを書きつけはじめる。ミュシアの聖書がそばにあったので、そこに書かれた世界の創世から聖竜と暗黒竜の戦いのこと、聖者たちの言行録についてまで読み耽り、色々と参考になることもあるにはあったにせよ、結局のところすべては推測に過ぎないという思いに、センルは打ちのめされることになる。

(明日、再びエリメレク殿のところへ行ってみることにしよう。エリメレク殿はお忙しい身であるのに、偶然今日お会い出来たというのは、本当にラッキーなことだった。とりあえず、私の頭の中で大体のところ事はまとまった……が、これ以上のことは行き止まりなのだ。こうしたことのすべてをもしお話したら、エリメレク殿であればおそらく、いい知恵をお貸しくださるだろう。しかしながら、あの方にもカルディナル王国のブリンクとして、お立場というものがおありだろうから、ミュシアのことについては、よくよく注意して情報を小出しにしないと……)

 センルはインク壺の口を閉め、羽根ペンの口を吸取紙でふくと、机の蓋を閉じ、考えごとのすべてを頭の外へ一旦追い出すことにした。それから色々な国の言語で書かれた羊皮紙を、暖炉の火にくべてそのまま燃やしてしまう。

 すでに夕闇が濃く迫る時刻となっており、センルが隣の居間へ戻ると、シンクノアとミュシアがどこか深刻そうな顔をして、彼のほうを見返してきた。

「どうした?私がもし出て来なかったら、適当に夕食のほうは済ませておけと……」

 そう言いかけて、テーブルの上に三人分の夕食らしきものが置いてあるらしいのを、センルは見てとった。

「だってさー、あんたエリメレクどんのところから帰ってきた時、浮かない顔してたじゃん?たぶん何かあんまり良くないこと言われたんじゃないかって、ミュシアちゃんも心配してたから、そんなんで二人だけで飯食ったって、まずいだけだからな。ま、そーゆーこと」

 ミュシアがナプキンを取ると、その下からは鶏の丸焼きやポテトパイ、カスタードソース添えのケーキなどが現れた。

「センルさん、お金はセンルさんが出してくれたとしても……それ以外のことは全部、三人で分け合いましょう。もちろん、わたしやシンクノアに話しても、何も変わらないかもしれないけれど、でもそんなふうにひとりだけで色々考えこまないでくださいっ!」

(まったく、この子は……)

 わかっているのか、わかっていないのかと思いつつ、センルはとりあえず腹が減ったと思って食事をした。彼が色々と隣の部屋で考えこむ間中、こちらではこそりとも音がしなかったので、てっきり出かけているのだろうとばかり思っていたが、そんな気の遣われ方をされていようとは、思いもしなかったのである。

「まあ、吉報としては、エリメレク殿が話のわかる良い方だったということだな。それに、彼の話してくれたことの中から、私のほうで勝手に類推してわかったことも色々あった。つまり、私が浮かない顔をしていたように見えたのは、そのせいだ。ああかもしれないし、こうかもしれないと、まだ断定できない不確定要素を組み合わせて考えすぎてしまったのかもしれない。だがまあ、もう一度エリメレク殿に会って話をすれば、いい方向にせよ悪い方向にせよ、それもまた変わってくるだろう」

「そっか~。てっきり俺、エリメレクどんに、ミュシアちゃんを渡せ!!とかって脅されたのかと思っちまったよ。我々で守ったほうが安全だとかなんとか言われてさ」

 どこかハッと息を飲むようにして、ミュシアがセンルのほうを振り返った。その眼差しや顔つきは、貸し馬車屋で白い馬が見せたのとまったく同じものだったかもしれない。

「そんなところまで今日初めて会った相手に話すほど、私も馬鹿じゃないさ」

 そう言ってセンルは、隣のミュシアのことを安心させた。

「ただ、事態はもしかしたら、私がひとりで複雑に考えていただけで、案外単純なことなのかもしれない……まあ、なんにしてもエリメレク殿と次に話して色々なことがわかったら、シンクノアとミュシアにもそのことはいずれ話す。それと、暫くの間私の態度はぼんやりしていておかしいかもしれないが、気にしないでくれ。考えごとに夢中になると、昔からこういうふうになるんだ」

「へいへーい」

 とシンクノアが答え、ミュシアもようやくほっとしたような顔を見せた。

 それから三人は夕食を囲み、今日町であったことや出会った人についてなど、他愛のない話をして笑いあった。センルはその時にふと、胸に温かいものがこみあげてくるのを感じて、こんなふうに自分が感じるのは、一体何年ぶり……何十年ぶりであったろうとふと思った。

(シンクノアとミュシアは、私が美味しいものをたらふく食べさせてくれたり衣服を新調させてくれるということで、やたら有り難がってくれるが)と、センルは内心で微笑った。(本当はおまえたちのほうが、金で買えないものを私に与えてくれているのだとは――夢にも想像してみないのだろうな)

 センルはこの時ふと、カーディル王立魔術院の学長の屋敷の庭で、ニシキギの赤く燃えるような葉を見たことを思いだした。まわりの花は枯れ、樹木の多くも葉を落とした中で、鮮やかな紅に燃えているようなニシキギの葉は、センルに忘れていたものを思い出させ、再びそれを与えてくれたのだ。

 その昔、王立魔術院で知識を吸収するのを喜びとしていた青春時代のこと、ナディアが自分のことを自慢に思ってくれるためなら、なんだってしたいと思っていたこと、それから、もしいつかそんな日が訪れるのなら、心から誰かを愛してみたいと願った日のことを……。

 ミュシアがバルコニーに続く窓から外を眺めていた時、センルは彼女の脇に立って、ミュシアが見ているのと同じものを遠く眺めやった。

「あの、センルさんっ」と、ミュシアは興奮したように顔を上気させて彼に聞いた。「王城や王立魔術院の建物が、まるで夢のお城か何かみたいにキラキラ輝きながら、幻みたいに光って見えるのは何故なんでしょうか?」

「ああ、あれか」

 センルは、海を背景にして、小高い山の上に立つ王城が、ぼんやりと青く全体を浮かび上がらせ、王立魔術院のほうは陽の光を反射したように輝いているだけでなく、その光の洪水が魔法のように湖に流れていく光景を、懐かしい思いで眺めていた。

「あれは、建物の石に魔法の切石を使っているそのせいだろうな。昼間はどうっていうこともない普通の石なんだが、夜になるとこんなふうにして石に宿った魔法の力が輝きだすんだ。ミシュラルという名前の珍しい石で、大きいものはそうはなかなか取れないんだが――魔法の力で人工的に同じものが作れないかっていうことを研究して、とある高名な魔導士がある日その合成に成功したんだ。まあ、それでもひとつの石にあれだけの魔力をこめるというのは、第5ワイゼル程度の魔導士にも、なかなか大変なことだろうよ」

「センルさんは本当に、色々なことをご存知で、すごいです」

 その時センルは、自分を尊敬の眼差しで見上げるミュシアの瞳の中に、黒耀石のように輝く、何か美しいものが宿っている気がした。そう、魔法の石の輝きなどよりも、センルにとってはこちらのほうがよほど、滅多に手に入らぬかけがえのない宝物であるような気がしたものだ。

(まったく、この私にそんなことを一瞬でも思わせる、おまえのほうがよほど凄いよ)

 ミュシアはそんなセンルの心中を知ってか知らずか、まるで精霊の住みかでもあるような王立魔術院の方角と、魔法のようなお城とを交互に眺め――そして星屑のような民家の明かりの数々を見つめてこう願った。今自分がとても幸せであるように、この不思議な光景の中にあるすべての人が、心から幸福でありますように、と……。




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