三章 さて、何時でしょう? When do you tell him?
「なんじ」と読まないでください……。
1、
伊勢は自分の車の中からある一点を見つめていた。
ここはあるパチンコ店の前、駐車場の中の入り口に近い箇所に車を停めている。ある参考人に話を聞くためである。
幸いターゲットは入り口のすぐ近くの台で打っているため、監視は容易い。もっとも、見えなくとも出入り口はここしかないため逃げられる心配はない。
エンジンを切っているためエアコンが効かない。代わりに窓を全開にしているが、あいにく風がほとんど吹かない。玉のような汗が吹き出してくる。
「いやあ、暑いですね」池田がコンビニの袋を片手に助手席に乗り込んできた。中身は飲み物だけでなく、アイスも入っている。六十二円で買える最も売れている物だ。
本来、職務中に食べるものではないだろうが、誰も見てはいない。我慢しきれずに伊勢も池田からそれを受け取る。
「よく見つけたな。これ、かなり品薄らしいぞ」
「暑いですからね。そりゃ売れるでしょう。だって六十円ですよ?」
「猛暑の経済学ってやつか」
「なんすか、それ?」
「平均気温が一度上がると、千五百億円の経済効果があるらしい」
「へえ、そうなんですか」感心したのか、池田は頷きながらアイスを頬張る。
「ちなみに今年は平均気温が二・五度ほど高いらしい」
「日本、儲かってますね」
「そうでもないぞ。特定の業界で見れば、儲かっているかもしれんが、日本全体でみるとそれほど大きくはない」
「どうしてです? あ、当たり」池田は首を捻った後、当たりを見て小さくガッツポーズをした。相変わらず古臭い仕草をするやつだ、と思う。
「何かを買う、という事は何かを犠牲にしているに過ぎない。アイスが売れようが、ビールが売れようが、要はそのために例えば、新しい服を買うのを我慢したり、趣味の物を諦めたりしているだけだ。
”経済効果”という言葉はひどく曖昧だ。ある特定の分野で儲かっているだけで景気が良くなっているわけじゃない」
「へえ、よく知ってますね」
「……お前、どうやって警察に入った?」伊勢は呆れて物も言えなくなった。そして、無駄口を聞いている場合ではないと思いだし、店の方へと目を向ける。
「それにしても、昼間からパチンコですか」
「完全にプー太郎だな。どこから金を調達したんだか」
彼らが見ているのは伊東誠の弟、信二である。調べたところによると彼には借金があり、原因はもっぱらギャンブル。ギャンブルの負けを返すために借金をし、さらに負ける。ありがちな状況らしい。
身を滅ぼすのは時間の問題、むしろもう滅ぼしていると言っても過言ではない。
昨年、大学を卒業したが就職活動で失敗、一つも内定を取れずに卒業。もともとやる気がなかったとの話もある。その気になれば留年して新卒扱いで再び就活をする手もあるが、そうしなかった事、現状を見る限りでも現状を打開する気はないようだ。
「前の二件ではアリバイがないんだよな?」伊勢は池田に尋ねたが、彼はコーラを飲みながら呆けているところだった。いくら暑いとはいえ、職務中にだらけすぎだし、飲み物も不適切。伊勢は池田の頭に拳を一つ落とした。池田が頭を擦りながら蹲ったところで、低い声でもう一度尋ねる。
「っつ……。えと、そうです。一件目の時は自宅にいたと話していますが、彼は一人暮らしで、証人はいません。二件目はパチンコをしていたそうですが、そのパチンコ店で彼を覚えていた者はいません」
伊勢はそれを聞くと黙って考え込む。
一件目はわかる。借金の無心に来たところを断られてカッとなった。そんなところだろう。しかし二件目はどうだ。利点はない。やはり、無関係の者を巻き込むことで自分と被害者たちの関係をわかりにくくしようとしたのだろうか? それ以外にわざわざカルタをおく理由が思い至らない。あれは、それぞれが別の事件として扱われるのを防ぐためとしか思えない。
しかし、リスクが高すぎる。現に彼は警察に目をつけられ、アリバイも確保できていない。カモフラージュ作戦なんて、入れすぎた塩を誤魔化すために砂糖を加えるようなものだ。結局事態が悪化するだけ。
彼はシロだろうか? やはり六本松信太郎か。しかし彼にはアリバイがある……。
他には……。カモフラージュではない何かがあるのだろうか? 例えば、何かのメッセージ。しかし、不明瞭すぎる。現に警察も気づいていないし、カルタについては公表していないから警察以外にメッセージが届くことはない。この先、公表するような事態になるのだろうか。何らかのメッセージだった場合、公表するまで犯行を続けるという事も考えられる。どの時点で公表すべきだろうか。
「伊勢さん。出てきました」池田のその一言で思考を中断する。
伊東信二が出てくる。表情は芳しくない。一目で負けたとわかる。この状態で話を聞くのは困難ではないか。出直そうか。
しかし、時間を無駄にはできない。嘆息の後、伊勢は車のドアを開けた。
そこで、無線に連絡が入った。
2、
「えー!? それ、ラノベじゃない!」奈美香が大声をあげた。
「いや、まあ、そうなんだけど。ミステリーとしてもちゃんとしてるよ」中井夏美が困ったような顔で言った。
ここはH大に近いアパートの一室で、中井夏美の部屋である。中井はH大の三年生で、奈美香とは昨年の夏に知り合った。ミステリー好きという事で意気投合したのだった。
今は平日水曜日の昼間だが、H大は開校記念日で休日、奈美香もたいして重要な授業はとっていないため(つまりサボりである)中井の部屋にお邪魔した次第である。
「三作目くらいからもはやファンタジーじゃない!」
「三作目はギリ、ミステリー」中井は苦笑いする。
「そもそも、名前が嫌だ。なんか“すもももももも”みたいな人出てくるでしょ? 現実感なさ過ぎ」奈美香は笑って話す。
「いたっけ? ……ああ、いたね。全然主役級じゃないけど」中井もおかしかったようで、けらけらと笑っている。「けど、奈美香ちゃんの好きなこの作家だって」そう言って一冊の文庫本を手に取る。「結構、いろいろ言われてるじゃない。人物が描けてないとか」
「そんな事ないわよ」
「でも、あんな人たち現実にはいないよね。何か全体的にみんな賢すぎ」
「ああ、それは言えてる。けど、そんな非現実的だなんてどの小説でも一緒でしょ? それにものの道理が描けてないよりはずっといいわよ。読んでて、本当にできるの? ってよくあるじゃない。けど、その点は心配ないわよ」
「そういえば、読者の公開実験とかあったね」
「人物だってね、魅力的よ。だいたい、現実にいないような小説の人物っていっぱいいるじゃない。『私を喜ばせる、犯罪の中でも最良のものはないのだろうか』なんて普通言わないわよ」
「誰それ?」
「適当に作った。ポアロあたりが言ってそうじゃない」
「まあ、確実に言ってるね。でも古典と比べてもねえ。私は大好きだけど」
「古典の方が好きなの?」
「まあね。クイーンとポアロとか。どっちかっていうとクリスティの方が好きかな?」
「ホームズは?」
「嫌いじゃないけど、殺人が少ないんだよね」
「探偵小説には死体が絶対必要である。殺人より罪の軽い犯罪では不十分である」奈美香はテキストを棒読みしたような口調で言った。中井はそれが面白かったようで吹き出してしまった。
「ノックスの十戒?」
「違うわよ。そっちじゃない」
「あらら。あれってごっちゃになっちゃうんだよね」
「覚えなくていいわよ。あんなの」
「何か気に入らないみたいだね」
「別に」そう言って奈美香は少し前のある女優の台詞と一緒だと気付いた。「ただ、十戒にしても二十則にしても、それを破った名作はたくさんあるし。それに、馬鹿にした内容が多いじゃない? 超能力で解決しちゃいけないとか、未知の毒薬を使っちゃいけないとか、第六感で解決しちゃいけないとか。当たり前すぎて呆れるわ」
「でもちゃんとしたのも書いてるよね?」
「まあね。手がかりはすべて明示されてなくちゃいけないとかはね。けど、明示されてるなら、犯人が端役の使用人だろうが、複数人だろうが、探偵だろうが、自殺だろうが、中国人だろうが、別にいいと思わない?」
「ずいぶん熱く語ってるね」中井は笑いながら言った。奈美香はそれを聞いて我に返り、顔を真っ赤にしている。
ふと、隣の部屋で何かの音がした。
「何?」
「さあ、昼間から男でも垂らし込んでるんじゃない?」
音は止まない。とはいえ、それ程大きな音ではない。防音がしっかりしているようだ。
「女の人なの?」
「ていうか、H大。四年生だからよく知らないけど、先輩の友達」
音が止み、今度は扉の開く音がして、すぐに閉まった。
「何か変じゃない?」
「気にしない、気にしない」
突然、携帯電話が鳴った。中井の物だ。
「もしもし。あ、おはようございます。はい、そうですけど。……え? いや、でも。……はい、わかりました、一応。はい、失礼します」
「何?」
「いや、ちょっと」そう言って中井は立ち上がる。そのまま玄関へと向かう。奈美香もついて行く。
外に出ると隣の部屋に向かう。“橋本”とある。中井はドアベルを鳴らす。
反応はない。
「橋本さん?」今度はドアをノックする。
「どうしたのよ?」先ほどから中井が何も答えないために苛立った口調で尋ねた。
「先輩が、橋本さんの様子を見てくれって。何でかはわからないけど、焦ってたみたいで」
奈美香はドアノブを回してみる。するとすんなりと開いた。
「さっき、かけ忘れたのかな?」
先ほど何事もなく出て行っただけではないのだろうか。
多少の抵抗感はあったものの、二人は中を覗き込む。何もないように思えたが、荒れているようだ。しかし、さすがに奥へと進む気にはならなかった。
玄関の傘立ては倒され、壁にかけてあったであろうカレンダーが、床に落ちている。奥の方はもっと荒れているように見えたが、玄関からはよくわからなかった。
確かに何かあったようだ。しかし、どうするべきだろうか。
「あれ……」奈美香が困惑していると中井が奥を指をさす。短い廊下の奥はリビングだが、そこから人の足らしきものが見えた。奈美香が駆け出す。
「夏美、救急車! 急いで!」奈美香が叫ぶ。
「え!? う、うん!」中井は状況が飲み込めないようだったが、急いで指示に従った。
「警察も呼ばなきゃ……」中井が出て行った後、奈美香は一人で呟いた。
3、
「……次は誰だ?」彼は池田と共に車を降りた。眉間に皺を寄せ、たいそう重たい声で近くにいた部下の斎藤に尋ねた。
「橋本直美、二十二歳。H大の四年生です」斎藤が淡々と答えた。長身で表情に乏しい男で常に不機嫌そうにしている男である。
「今度は学生か……」
「決まったわけじゃないですよ」池田は苛立った様子の伊勢を励ますように言った。
「ここはどこだ?」
「……はるかぜ荘です」おそるおそる池田は答えた。すぐに伊勢が舌打ちをした。
「その内カルタも出てくる」
伊勢は部屋に入った。散乱した様子が見て取れる。廊下(狭いアパートなので廊下と呼べるかすら怪しいほど短い)の先のリビングはもっと荒れていた。部屋の中心のテーブルは不自然に隅に追いやられ、その上に載っていたであろうテレビのリモコンなどの小物が床に無造作に散っている。ゴミ箱も倒れて中身が出てしまっている。よほど争ったのだろう。その部屋のやや手前に被害者が倒れていた。
「凶器は発見されていませんが、鈍器で殴られたようです」
「同じか……。第一発見者は?」
「隣の部屋の中井夏美、それとその友人です。話を聞きますか?」
「…………」
伊勢はしゃがみこみ、黙ったまま被害者を観察している。
「伊勢さん?」池田が伊勢を覗き込むように尋ねた。
「……ああ、すぐ行く」そう言って、先に池田を向かわせた。斎藤と二人で部屋を出ていく。伊勢の手には、カルタ。“花より団子”。被害者のポケットに入っていた。
伊勢はそれを握り潰したい欲求を抑えて、部屋を出て行った。
「すぐに話を聞けますよ」池田は部屋の外で待っていた。斎藤は再び部屋に戻っていく。伊勢は話を聞くために隣の部屋を訪ねる。
「道警の伊勢です。お話を伺いたいの、です、が……」最後の方は声が窄んでしまった。見知った顔がそこにあったからだ。しかし、何というか、彼女は事件に憑かれてるのではないか。
「伊勢さん!」矢式奈美香だ。
「君か」
「ええ、ちょうど夏美さんの部屋にお邪魔してたんです」
「話を聞いてもいいかな? 中井さんも」
二人が同意したので、話を進める。
「隣の部屋にはなぜ?」
「先輩から電話があったんです」中井が説明した。「隣の橋本さんと友達なんですけど、様子を見てほしいって。よくわからなかったけど、切羽詰っているようだったんで」
「その先輩とは?」
「真田加奈さんです。連絡先を教えた方がいいですか?」
「ええ、お願いします」伊勢は彼女から真田加奈の連絡先を聞き、手帳にメモする。
「切羽詰っていたとはどういう事でしょうか?」
「とにかく様子が変だからとしか……」
「そうですか……。他に変わった事は?」
「音を聞きました」今度は奈美香が答える。「部屋に向かうほんの数分前です。このアパート、見た目以上に防音がしっかりしているみたいで、よくはわからなかったんですけど、今思えば、争っている音だったかもしれません。その後、ドアの開け閉めの音が聞こえました」
中井が「ボロアパートで悪かったね」と呟くのが聞こえた。
「わかりました。またお話を伺うかもしれません」伊勢は部屋を後にする。出る直前に奈美香を呼んだ。
「何です?」
伊勢は思いつめた顔で言った。
「猪狩君に伝えてほしい事があるんだ」
4、
「真田さんが橋本さんと電話をしていたときに橋本さんの方でインターフォンが鳴ったそうなの。で、橋本さんが出て、『宅配便だからちょっと待ってって』って。それで電源を切らずにいたんだけど、大きな音がしてそれきり橋本さんが出ないから不安になったんだって」
ここは藤井基樹の家である。この部屋には矢式奈美香、猪狩康平、新川怜奈ともちろん家主の藤井基樹の四人がいる。彼は一人暮らしのため、頻繁に集会に使われるのである。リビングの真ん中に置いてある正方形のテーブルを囲むのが大抵である。今は藤井以外の三人が座っている。
集会の半分以上は飲み会に使われるのだが、今回はそうではない。
奈美香は先日遭遇した事件のときに伊勢から聞いた情報と、その後やはり伊勢から聞いた情報を交えて、説明した。本来猪狩に伝えてくれとの事だったが、藤井と怜奈がいても問題はないだろうと判断した。
「で、これが連続殺人だって?」藤井が台所から聞いてきた。彼は四人分の飲み物を用意している。
「ええ、現場にはカルタが残されていたわ。“いろは”の順で、被害者の名前も、現場の名前も“いろは”の順。カルタも同じものだったわ。もちろん同じ種類の製品だったっていうだけで同一の物かはわからないけど」
「そもそも、何で?」怜奈が腕を組んで考える仕草をした。
「そう、そこがちょっとわからない。一番の利点は異常な猟奇的殺人犯を創り上げて、無関係の人も殺す事で被害者との関係を希薄にする。つまり、本命が一個で後はカモフラージュってところかしら?」
「でも、リスク高すぎねえ?」彼は四人分の麦茶をテーブルの上に乗せた。奈美香はお菓子を要求したが、睨まれただけで終わった。彼は貧乏学生なのでお菓子の常備などない。
「そう、犯人の意図がそこなら、関係者のアリバイを洗っていけばいい。この計画の弱点は自分が疑われたら終わり、ってところにあるのよ。アリバイを確保できないから」奈美香はおもむろに立ち上がり、台所へと向かう。
「じゃあ、他に何かある? って、オイ、コラ!」奈美香が台所を物色し始めたのを見て藤井が声を荒げる。
「うーん、そうね……。なかなか思いつかないわね。今の話の延長で、どこかにアリバイトリックを織り交ぜているとか」奈美香は藤井を無視して話を続ける。予想通り、特に目ぼしい物が見つからなかったので舌打ちをして席へ戻る。
「例えば?」怜奈が二人のやり取りを見て微笑みながら尋ねた。
「それがわかったら苦労しないわよ。ところで、あんたは何かないの?」奈美香は猪狩を睨むように見た。
「さあ? 何もないよ」
「ちょっとは考えなさいよ!」
「何で考えなきゃいけないのさ?」
「だって、康平に話してくれって、伊勢さんから聞いた話なんだから」
「え?」猪狩は目を丸くする。「何で?」
「何でって……」奈美香は額に手を当てた。呆れた、なんて無自覚、無責任なのだろう。「まあいいわ。とにかく、何かないの?」
「うーん」猪狩は少し考えてから言った。「被害者たちに微妙な、普通はわからない関係があって、その関係者が殺した」
「普通はわからない関係って……。都合良過ぎでしょ!」
「都合が良過ぎたから、計画を実行した」猪狩は淡々と答えた。
「確かに、そういう考えもできるけど……」奈美香は釈然としなかった。どうにも納得できない。やはりそんな関係は普通は有り得ないのではないか。
「とにかく、今のままじゃ何もわからないし」猪狩はそこで言葉を切った。「やっぱり関わりたくない」
奈美香は猪狩を思いっきり睨んだ。