表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/7

一章 さて、何でしょう? What's happened?

地名は全く架空のものです。

1、

「何か参考になるものはあるかな?」猪狩康平の指導教官の哀澤俊彦は言った。

 月曜日。ここは哀澤の自宅、あるマンションの一室である。論文のための参考資料を借りるために猪狩が訪れた。

「そう、ですね……」猪狩は歯切れ悪く言葉を濁して言った。

「でしょ? だから言ったのに」哀澤は白い歯を見せて笑った。

「僕はね、O大の中でも希少な理系の人間なんだよ。さらに言うなら情報学ね。

文系大学の中にあってうちの学科はちょっと理系っぽい。情報システムをビジネスに生かそう、みたいな学科だからね。そのためのコンピュータによる分析とかを行うためにプログラミングとかを教えているんだけど、やっぱり理系の学生と比べると覚えが悪いというか、拒否反応が強いというか。だから授業では基礎しか教えられない。けど基礎だけ教えても研究に役立たない」

 そう言って苦笑いする。

「だからもっと勉強してみたいっていう学生がたまにいるんだよ。君みたいに」

「はあ」猪狩は頷くしかなかった。

「けど元の人間は文系だから、僕の所に来てもちんぷんかんぷん、わかりませんってなっちゃう。そりゃそうだよ、C言語の基礎しか知らないんだもん」

「すいません。言い返せません」

「いやいや、怒ってないよ。誰だって最初は知らない。理系の人だって最初は知らない、僕だってわからなかった。これって当たり前のことだよね? これから覚えればいいのさ。

 けどね、僕が言いたいのは、プログラミングに夢中になって学部本来の目的を忘れてませんか? って事。ちゃんと経済・経営の勉強をしようよ、って僕は思うんだけど」

「耳が痛いです」猪狩がそう言うと哀澤は声をあげて笑った。

「ごめんごめん。そうだな、例えばビジネスにおけるWeb推奨システム、これなんかは立派に経営の話だよね。けどこれにはやっぱり情報系の知識が必要だし、興味があったら勉強してみるのもいい。こういうののために文系の大学にわざわざ僕みたいな理系の人間がいるわけだよ。さて、話が長くなったね。何か持っていくかい?」

「そうですね、じゃあこれを」猪狩は一冊の本を手に取った。

「うん、プログラミングの基礎だね」

 O大では学生の自主的な学習の奨励と称して「学生論文賞」というものを行っていて、優秀な論文には賞金が出るらしい。哀澤ゼミでは三年生のうちから応募している。うまくいけば四年生時の学生論文賞、さらには卒業論文へと繋がっていく。そのため、将来への投資だと思えばまだ救いがあるが、何しろ論文については右も左もわからない。せいぜい授業レポート程度しか書いたことがない猪狩には苦痛ともいえるものだった。

 ため息交じりに部屋を出ると何だか騒がしいことに気づく。下を覗き込むとパトカーが見え、猪狩はもう一度ため息をついた。ため息をつくと幸せが逃げる、と幼いころ母に教わったが、年々数を増すばかりである。そう言えば先日も母に注意されたばかりである。なぜこうもため息をつきたくなるのだろうと考えるともう一度ため息が出そうになったが、今度は我慢した。

 どうやら二つ下の六階で何かが起きているようだ。いつもの猪狩なら無視して帰宅するところだが、どういう風の吹きまわしか様子を見てみようと思った。どうやら、事件に慣れすぎて焼きが回ってしまったらしい。やはり、猪狩はため息をついた。

 

2、

 伊勢浩太郎は重い足取りで愛車から降りた。瞬間に汗が噴き出してくる。車のエアコンをかけ過ぎたと思った。避けることのできない反作用だ。上着を脱ぎ車内に置いておく。

 もう既に午後六時半を過ぎている。北海道も暑くなったものだ。

というより、最近は異常に暑い。まだ六月の終わり、本州ではどうだか知らないが、やはり七月にならないと夏だと思えない。(夏至は六月だが)

 地球温暖化というやつか。まったくもって迷惑な話だ。とはいえ、自分自身温暖化に貢献しているのは否めない。他人事ではないが、スケールがでかすぎて他人事のようだ。

 自分みたいなやつがたくさん集まって、社会を形成しているのだから、環境問題が解決しないのも頷ける。どこぞの自動車大国を見れば一目瞭然だ。

 せめてエアコンは節約しようか。あれは電源を切った時の反動が大きすぎる。エアコンの効いた空間から一歩外へ踏み出した時のもわっとした感触がたまらなく嫌いだ。これなら一石二鳥だ。

 ……ずいぶん勝手な考えだな。

 伊勢は自分の思考を戒めた後、気持ちを仕事に切り替えた。

 ここはあるマンションの前、すでに野次馬が集まりつつある。

 その野次馬をかき分けて玄関に入ると“伊原マンション”という名が目に付いた。おそらくオーナーが伊原という名前なのだろう、あまりに安易過ぎる。

 このマンションはそれほど新しくないようで、セキュリティが万全というわけではないようだ。玄関のすぐ横に管理人室があるが、居住者でなくとも簡単に通れるようだった。

「被害者は?」伊勢は部下の池田に質問した。

「伊東誠二十五歳、会社員。頭部を殴打されたようです」池田は手帳を手際よく開き、お望みの箇所を見つけ出した。

「第一発見者は?」

「妻の伊東葉月です。二十四歳、若妻ですよ」池田は鼻の下をだらしなく伸ばして言った。彼は面食いなので相当な美人なのだろう。ついでに言うと、自分の力量をわきまえないから、当分彼女はできないだろう。

「その表現をやめろ。何か卑猥だ」

「卑猥だと思う伊勢さんの方が卑猥だと思いますよ」池田はニヤニヤと伊勢の方を見た。

 伊勢は池田を睨んで黙らせた。

「で? どういう状況で発見したんだ?」伊勢は気を取り直して聞いた。

「あ、は、はい」池田は伊勢の睨みに少し怯んだようで、慌てて手帳を見直す。一つ咳払いをしてから答える。

「彼女は友人たちと土・日・月と二泊三日の旅行に行っていたらしいです。今日は有休をとったそうで。それで自宅に帰ってきたところを発見したと」

「彼女はいつ戻ってきた?」伊勢は手袋をはめながら質問を続ける。

「五時頃だと言っています。直後に通報したようですね」

 二人は現場の部屋に到着した。まず玄関の小奇麗な花瓶が目に入る。これは何の花だろうか、伊勢は興味がないのでわからなかった。玄関を抜けてリビングに入ると真新しいテレビ、おそらく地デジ対応だろう、羨ましい。全体として整頓が行き届いている印象を受ける。

 そして被害者はリビングの右奥、寝室の中に倒れていた。今はシートが掛けられている。

「……見事に陥没してるな」伊勢はシートをめくり、被害者の状態を確認すると顔をしかめた。顔の右側が陥没している。どうやら正面右寄りから殴られたらしい。

「死亡推定時刻は?」今度はすぐそばにいた監察医の本川に話しかけた。

 伊勢より十は上で眼鏡と口髭がトレードマークの中年男。

「毎回毎回、検死を待てねえのか。そうだな、ざっと見昨夜の十時前後一時間って所か。」本川は頬を指で引っ掻きながら面倒くさそうに答えた。

「ありがとうございます」そう言うと伊勢は再び遺体を見た。

 Tシャツにスウェットという完全な部屋着状態。六階だから窓からの侵入は不可能。寝室に倒れていた事からも顔見知りの犯行だろう。何か口論になってカッとなってやった。ありきたりなストーリーが思い浮かんだ。

「……ん?」伊勢はスウェットのポケットに何かが入っているのに気が付いた。

 それはカルタだった。“い”の取り札、犬の絵が描かれている。

「なあ、“犬も歩けば棒に当たる”って上方カルタだったか?」

「え? 知りませんよ、そんなの。どうかしたんですか?」池田は突拍子もない質問をした伊勢を訝しげに見た。

「いや、いい」伊勢はそのカルタを鑑識に渡した。「奥さんに話を聞こう」

 

 被害者の妻、伊東葉月はリビングで俯いていた。長袖カーディガンに長めのスカート、おしとやかな雰囲気がある。染めていない真っ黒で、肩を優に超える長さの髪の毛が日本人形のようだった。

 彼女はずっと下を向き、それこそ人形のように動かずにいた。だが、人形のような可愛らしさはない。悪く言えば蝋人形のように表情が硬い。とにかく悲しみに暮れているだろうとはわかった。

「奥さん、この度のご不幸、ご無念のほどをお察しします」

「……悪い夢を見ているようです」葉月は伊勢の方をチラリと見た後、再び俯きそのまま答えた。

「我々もできるだけ早くご無念を晴らせるように努めていきます。そのためにも奥さんの協力が必要なんです。少しお話を伺ってよろしいでしょうか?」

「……はい」少し間が空いた後、ゆっくりと答える。

「ご遺体を発見された時の状況をお伺いしてよろしいでしょうか? 何でも友人と旅行だったとか」

「ええ、大学時代の友人と函館に一泊したんです。それで今日の夕方、五時頃に帰ってきたんです。そしたら鍵が開いていて、誠さんがいるのかなと思ったんですけど妙に静かで、それで……」

「ご主人の死亡推定時刻は昨夜の九時から十一時頃です。その頃はもちろん函館ですよね? あ、いえ、関係者には全員聞かなくてはならないんです。お気を悪くなさらないで下さい」伊勢はあらかじめ釘を刺してから質問した。

「大丈夫です」彼女はそう答え、もちろん函館にいたとも答えた。

「わかりました。では、ご主人の交友関係で何か揉め事があったりはしないでしょうか?」

「私の知る限りではありません。活発で人付き合いの良い人でしたから……」

 玄関の方で警官の大声が聞こえてきた。

「関係者以外は入らないでください!」

 どうやら、野次馬らしい。ここの住民だろうか。ところが、聞いたことのある声が聞こえてきた。

「いや、まあ、入る気はないですけど」

 その声を聞いて伊勢は玄関へと向かう。案の定、数か月ぶりの顔がそこにあった。

「やあ、猪狩君」伊勢は笑顔で挨拶をする。その後で、殺人現場で笑顔とはなんと場違いだろうという事に気づく。

「ああ、こんばんは。伊勢さんがいるって事は殺人事件ですか?」猪狩は部屋の中を覗き込むようにして聞いた。この部屋は玄関からリビングまで見ることができる。状況を観察しているようだ。

「うん。言っておくと、密室じゃないよ」伊勢は冗談めかして言った。それから、これも場違いだと反省。猪狩が伊勢の方を見た。心なしか睨んでいたようにも見える。

「……知り合い同士、口論になってカッとなってやった。そんなところですか? 不審者の侵入には見えませんけど」猪狩は伊勢の肩口に部屋を覗き込んだまま聞いてきた。

「どうしてそう思う? まあ、その辺で検討はつけているけど」

「いや、まあ、いろいろと」猪狩は言葉を濁した。「じゃあ、頑張って下さい。帰ります」

 猪狩は頭を下げて帰っていった。


3、

 伊勢は被害者の左隣の部屋のインターフォンを押した。“紀伊”とある。

「はい」

「すいません、北海道警察の者です。少々お話を伺いたいのですが」

「……ちょっと待ってください」

 しばらくしてほんの十センチほど扉が開いた。警戒しているようだ。四十代ほどの女性が覗いている。

「伊勢と申します。お話よろしいでしょうか?」伊勢が警察手帳を見せると、女性はやや警戒を解いたようだ。つまり、警察を装った詐欺でも想像したのだろうか。だとしたら手帳も疑ってかからなくてはいけないだろうに。しかし、それを気にしている場合ではない。

「あの……何かあったんでしょうか?」彼女は隣の部屋が慌しいのを見て、不安げに質問した。

「実は隣のご主人が何者かに殺害されまして」言った途端に、紀伊の顔がみるみる青ざめていく。

「そんな……」

「伊東さんとご交流は?」

「いえ、あのご夫婦、一年くらい前に引っ越してきたんですけど、その時に挨拶に来られた時くらいしか……」

「そうですか。では伊東さんの親交関係とかも」

「全く存じ上げません」

「わかりました。では昨夜の九時から十一時の間に不審な物音を聞いたとかはありませんでしょうか?」

「いえ、私は……ちょっと待ってください。主人と息子に聞いてきますので」そう言うと紀伊は家の奥へと向かって行った。しばらくすると彼女が戻ってきた。

「すいません。二人ともわからないそうです」彼女は申し訳なさそうに頭を下げた。

「わかりました。ありがとうございます。何か思い出したらご連絡下さい」礼を言って伊勢と池田はその部屋を後にする。

 何も収穫がなかったが、気を取り直して右隣の部屋を訪ねる。今度は“東野”だった。“紀伊”“伊東”“東野”、まるでしりとりだ。

 三十ほどの男が出てきた。

「何すか?」男は不機嫌そうに言った。

 伊勢は先ほどと同じように手帳を見せて名乗った。

「……隣で何かあったんすか?」東野は警官だらけの隣家の様子を見て訝しげに言った。

「伊東さんのご主人が何者かに殺害されたんです」

「へえ……」東野はやや眉を吊り上げたが、さして興味がないように淡々と言った。「もしかして、昨日の十時くらいすか?」

 池田が「えっ!?」と声を上げた。この程度の情報で驚いているようでは池田もまだまだだ、と伊勢は部下の精進を願った。

「何かご存じですか?」

「ん? いや。ただ十時くらいに隣で大きな物音がしたからさ」

「物音、ですか? どんな感じでした?」

「さあ、あんまり興味なかったからな。このマンション、防音しっかりしてるから何の音かまでは分かんないっす。それに、ちょうど見たい番組が入るところでさ」

 どうやらこのマンションの住人は社交性に欠けるらしい。隣人とすら会話を交わさない、隣で大きな物音がしても興味を示さない。これは現代の日本全体に言える事だろう。隣人の顔・名前を知らない人間はめずらしくないらしい。

 二人は礼を言うと、その階の他の部屋もまわったが目ぼしい情報は得られなかった。

「犯行時刻は十時頃、これしかわかりませんでしたね。目撃情報もなかったですね」池田はがっかりした様子で話す。

「もう一つ。被害者は“活発で人付き合いの良い人”だったとは限らない」

「え? 何でそんな事言えるんですか?」池田は首を傾げる。

「暑いな、今日は」

「はい? ……暑いですけど」池田は目を丸くし、そして言われて思い出したのか、ハンカチを取り出して額の汗を拭った。

「伊東葉月の服装は?」

「え、カーディガンにスカートだったと思いますけど。二十四ですよね? もっとミニでも……。美人だし」池田は鼻の下を伸ばしてだらしなく微笑んでいる。にやけている、と言った方が正しい。

「阿呆。長袖は暑過ぎると思わないか?」そういう二人は上着を脱ぎワイシャツを捲くっている。できるならばネクタイも緩めたい、今日はそれくらいの気温である。

「まあ、言われてみれば……。でもあれって夏物ですよ?」

「確かにそれだけじゃ説得力がないがな」

「何がですか?」

「お前はもっと観察力を付けろ。よく見ると袖の下にアザがあった」

「アザ、ですか?」

「ああ、あれは――DVの痕だ」

「え? 本当ですか!? ……でも葉月は函館にいたんですよ? 十津川警部もびっくりのアリバイトリックを用意しないと無理ですよ!」池田はそう叫んだ。友人が共犯ならできなくもないが、さすがに距離が離れすぎている。往復で何時間かかるだろうか。空白の時間が多すぎる。

「わかってる。彼女はシロだ。だが、そういう裏の顔があるという事は他にもその“裏の顔”の被害を被っている人がいるかもしれない。確かにこういう輩は、外では“表の顔”を貫き通す傾向にあるが、“裏の顔”があるというだけで疑う余地は生じるさ」

「なるほど、わかりました! 被害者の周辺洗ってみます」池田はそう言ってエレベーターの方へ駆け出して行った。

 伊勢は署に戻ろうと歩き出す。何となく階段から降りて行った。車に乗り込むと一息ついた。もう辺りは暗い。

 そして、ふと思い出す。

「……“犬も歩けば棒に当たる”は江戸カルタだ」

 そして上方カルタの“い”は、


 一寸先は闇


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ