最後の一枚、君の残像
東京を出る朝、
**藤崎 直哉**は、カメラを売るつもりだった。
脱サラして三年。
貯金は底をつき、仕事も続かない。
「写真で食べていく」なんて言葉は、もう口にするのも恥ずかしかった。
バッグの中のカメラは、重かった。
重いのは、機材のせいじゃないとわかっていた。
——これで終わりにしよう。
そう決めたはずなのに、電車の中でふと、昔のことを思い出した。
大学二年の春。
初めてできた彼女、美月。
「ねえ、写真撮ってよ」
西伊豆の海だった。
合宿の帰りに寄った、小さな入り江。
風に髪を揺らしながら、彼女は笑っていた。
「将来、写真家になるんでしょ?」
冗談みたいに言ったその言葉を、
直哉はなぜか本気にしてしまった。
カメラを向けると、彼女は少し照れて、それでもちゃんと笑った。
カシャ。
あの一枚が、すべての始まりだった。
「応援してるよ」
そう言ってくれたのに、
結局、彼女とは別れた。
夢を追う自分と、現実を見始めた彼女。
どちらが間違っていたのか、今でもわからない。
ただ、最後に言われた言葉だけは、忘れられなかった。
「好きなものまで嫌いにならないでね」
気づけば、電車は西伊豆へ向かっていた。
売る前に、最後に一枚だけ。
ただそれだけのつもりだった。
海は、あの頃と同じだった。
いや、違う。
変わったのは、自分の方だ。
カメラを取り出す。
久しぶりに触れるその感触に、胸がざわつく。
ファインダーを覗く。
あの日と同じ場所。
同じ光。
同じ海。
でも、そこに彼女はいない。
カシャ。
シャッターを切る。
その瞬間、胸の奥がほどけた。
もう一枚。
カシャ。
もう一枚。
気づけば、息が浅くなっていた。
そして、突然。
涙が、溢れた。
止まらなかった。
理由なんて、いくらでもあったはずなのに、
どれも違う気がした。
失敗したからじゃない。
貧乏だからでもない。
——思い出したからだ。
あの時の自分を。
ただ好きで、
ただ楽しくて、
誰に認められなくても、シャッターを切っていた自分を。
そして、その隣で笑っていた彼女を。
「好きなものまで嫌いにならないでね」
その言葉が、波の音に重なった。
直哉は、ぐしゃぐしゃのまま笑った。
——まだ、好きだ。
写真も。
あの時間も。
彼女のことさえも。
夕日が沈みかけていた。
海が赤く染まり、世界がゆっくり終わっていく。
ファインダーを覗く。
そこに、いないはずの姿が見えた気がした。
風に髪を揺らす、あの頃の美月。
もちろん幻だ。
でも、それでよかった。
「ありがとう」
誰に向けたのかもわからないまま、呟く。
そして——
カシャ。
最後の一枚を撮った。
東京へ戻る電車の中。
カメラは、まだバッグの中にある。
売るつもりだったはずなのに、
もうその気はなかった。
うまくいく保証なんて、どこにもない。
でも、それでもいいと思えた。
遠回りでもいい。
何も残らなくてもいい。
それでも残るものがあるなら、それが本当だ。
スマホを取り出し、ひとつのフォルダを開く。
昔の写真。
西伊豆で撮った、彼女の笑顔。
少しだけ見つめて、そっと閉じた。
そして、新しい写真を保存する。
今日撮った、最後の一枚。
そこには誰も写っていない。
ただの海と、夕焼け。
それなのに、不思議と温かかった。
直哉は、窓の外を見ながら、小さく息を吐いた。
「もう一回だけ、やってみるか」
その声は、誰に届くわけでもない。
それでも確かに、自分には届いていた。
遠回りの先に、ようやく見つけたもの。
それは成功じゃない。
ただ、好きでいられるということだった。




