狡猾な贈り物と、理性の毒
騎士団長アルヴィスが、ハチミツパン一切れで知恵熱を出し、意識不明の重体(精神的な意味で)に陥っているという報せは、瞬く間に神殿中に広まった。 この好機を、教皇ピウス・ベルナルドが逃すはずもなかった。
「……嘆かわしい。ルミナス最強の盾が、甘味一つで崩壊するとはな」
教皇の執務室。ピウスは窓の外、リヴィアの居室がある塔を見上げ、冷たく口角を上げた。彼にとって、アルヴィスはリヴィアを独占しようとする「狂犬」だ。その犬が寝込んでいる隙に___
◇◇◇
翌日。 アルヴィスの不在を守る副官たちが「女神様の御身が心配です!」と騒ぐ中、教皇が自ら選んだという「教師」がリヴィアの元を訪れた。
「失礼いたします、リヴィア様。本日より貴女様の教育を拝命いたしました、カイル・フォン・ザインと申します」
現れたのは、アルヴィスのような荒々しさとは無縁の、眼鏡をかけた物静かな美青年だった。彼は教会の魔導大学を飛び級で卒業したという超エリートで、その物腰は柔らかく、知性に溢れている。
「教皇様から伺っております。リヴィア様は、この千年の間に失われた『世界の法』を学ばれたいと。……粗野な騎士では教えきれない、歴史と論理の深淵をご案内いたしましょう」
カイルは優雅な所作で椅子を引き、リヴィアに座るよう促した。
「……あ、よろしくお願いします、カイルさん。でも、私はそんなに頭良くないので難しい勉強は……」
「ご安心を。まずは、リヴィア様がなぜ『神』として扱われなければならないのか、その経済的、政治的メリットから紐解いてまいりましょう」
カイルの教え方は、完璧だった。
アルヴィスが「不敬です!」「絶対です!」と感情で押し通してきたのに対し、カイルは「リヴィア様が微笑むだけで、この国の小麦の価格が安定し、貧しい子供が十人救われる計算になります」と、数字と論理でリヴィアを納得させていく。
(……すごい。アルヴィスの話より、ずっと分かりやすい……)
リヴィアは、カイルの理知的な語り口に、少しずつ引き込まれていった。だが、カイルの目的は単なる教育ではない。教皇からの密命は、「リヴィアに『自分の意志を捨てる方が、世界のためになる』と思わせること」だった。
「リヴィア様。自由とは、時に残酷なものです。貴女様が一人で街へ出れば、それだけで経済が混乱し、死者が出る可能性すらある。……貴女様は、何も考えず、我々が用意した『完璧な女神』という役割を演じていればいい。それが、この国の幸福の最適解なのです」
カイルの穏やかな声が、呪文のようにリヴィアの思考を麻痺させていく。 アルヴィスのような激しい執着ではなく、静かな「洗脳」に近い論理。
その時だ。
「……おい、眼鏡。その汚い口を、今すぐ閉じろ」
部屋の入り口に、フラフラになりながらも立ち上がる、包帯まみれの男がいた。アルヴィスだ。彼はまだ高熱で目が血走っているが、その瞳にはカイルを塵にするほどの怒りが宿っている。
「……アルヴィス! 寝てなきゃダメだよ!」
「……リヴィア様……。その男の言葉は、毒です。……論理という名の鎖だ。……私は、そんな賢しらな理由で、貴女を閉じ込めたりはしない……。貴女が泣くなら、私は経済など……世界など、滅ぼしてでも……っ」
アルヴィスは壁を支えに一歩踏み出すが、あまりの眩暈にまた膝をつく。カイルは眼鏡を指で押し上げ、冷ややかにアルヴィスを見下ろした。
「騎士団長。貴方の時代は終わりました。女神様には、野蛮な暴力ではなく、高度な理性が。……さあ、リヴィア様。授業を続けましょう。この男は、もう役に立ちません」
リヴィアは、論理的なカイルと、ボロボロになっても自分を「一人の人間」として守ろうとするアルヴィスの間で、大きく揺れ動く。




