女神のプライバシーが危ない
目覚めてから数時間。リヴィアは、豪華すぎて落ち着かない寝室で、目の前の光景に引きつった笑顔を浮かべていた。
「……あの、アルヴィスさん? その、ドレスを広げて待たなくても、自分で着替えられますよ?」
リヴィアが指差す先には、最高級の薄絹で作られたドレスをうやうやしく掲げたアルヴィスの姿がある。 彼は一点の曇りもない真剣な眼差しで、静かに首を振った。
「リヴィア様。千年の眠りから覚めたばかりの貴女様の御体は、いわば生まれたての雛と同じ。指先一つ動かすことさえ、我ら騎士団が奉仕すべき領域です。それに……」
アルヴィスは一歩、リリアとの距離を詰める。鋼の鎧がカチリと音を立て、彼の体温が伝わるほどの至近距離に、リヴィアの心臓が跳ねた。
「女神の柔肌に、この時代の粗末な空気を直接触れさせるなど、騎士としての名折れ。……さあ、腕を。私が責任を持って、一分の隙もなくお召し替えをいたします」
「ひ、一分の隙がありまくりです! 恥ずかしさで死んじゃいます!」
必死に布団にくるまって抵抗するリリア。しかし、アルヴィスは全く怯まない。
それどころか、リヴィアの頬が赤らんでいるのを見て、「おお……女神の祝福による紅潮か。尊い……」と、あらぬ方向に感動して拝み始める始末だ。
結局、女性の侍女を呼びにやることでなんとか着替えを終えた(それでもアルヴィスは扉のすぐ外で警護していた)リヴィアだったが、更なる難関が待ち受けていた。
◇◇◇
神殿の広場には、突然の「召喚」に震え上がる数十人のパン職人たちが集められていた。 そこへ、アルヴィスが重厚な鎧の音を響かせて現れる。
「者共、心して聞け。これから貴殿らには、女神様が召し上がる『伝説のパン』を焼いてもらう。もし女神様が一口食べて首を横に振られれば……貴殿らの店は即刻、聖域への出入りを禁ずる(=パン屋廃業)!」
職人たちが悲鳴のような声を上げ、血眼になって小麦粉を練り始める。 その様子をテラスから眺めていたリヴィアは、あまりの光景に頭を抱えた。
「……やりすぎ。絶対にやりすぎだってば……」
ようやくの前に運ばれてきたのは、黄金色に輝き、宝石のようなドライフルーツが散りばめられた、もはやパンというよりは「彫刻」に近い代物だった。アルヴィスが、まるで爆弾でも扱うような慎重さでそれを差し出す。
「リヴィア様、どうぞ。現時点でこの大陸で最も『聖なる』と認められたパンでございます。さあ、遠慮なく私の腕の中で召し上がってください」
「……う、腕の中?」
「当然です。女神様が咀嚼される際、万が一にも顎がお疲れにならぬよう、私がこの胸板でしっかりと支えます」
「余計に食べづらいわ!!」
結局、リヴィアは数百人の職人が見守る中、アルヴィスの至近距離からの熱視線を浴びながら、涙目でパンをかじる羽目に。
(……あ、美味しい?けど、みんなの視線が痛すぎて味に集中できない……!)
リヴィアは震える職人たちの指先や、冷や汗でぐっしょり濡れたエプロンを見て、胸が痛んだ。
このまま「美味しい」と言うだけでは、アルヴィスのことだ。「よし、明日からはこの味を基準にさらに精進せよ(地獄の継続)」と言い出しかねない。
リヴィアは、ゆっくりとパンを置き、立ち上がる。
「――皆様、素晴らしいパンをありがとうございます」
リヴィアの声が響いた瞬間、広場にいた全員がドサドサと床に膝をつく。
彼女はアルヴィスをそっと押し退け、テラスの端まで歩み寄った。
「アルヴィスさん。このパンには、千年前にはなかった『人々の真心』という最高の魔法がかかっていました。……でも、一つだけ足りないものがあります」
「なんですと……!? 不足があるというのですか! どこのパン屋だ、名乗り出ろ!」
殺気立つアルヴィスを制し、リリアは慈愛に満ちた(ただ微笑んでいるだけ)の微笑みを浮かべた。
「それは、職人の皆様の『笑顔』です。こんなに怯えた顔で作られたものを食べ続けては、私の神聖な魔力が、悲しみの魔力に変わってしまいます。皆様がそれぞれの店に戻り、家族や街の人と笑いながらパンを焼く……その幸せな空気が、風に乗って私に届くことこそが、私にとって一番の栄養なのです」
広場がしんと静まり返る。
リヴィアは、千年前の初歩的な生活魔法――『春風の祝福』をそっと指先で発動させた。
ふわりと暖かい風が広場を駆け抜け、職人たちの緊張で凝り固まった体を解きほぐしていく。
「……ああ、体が軽い」 「女神様が、俺たちのことを……」
一人の年老いた職人が、涙を流して叫んだ。
「女神様! 最高の、最高の笑顔でパンを焼くことを誓います!」 「俺もだ! 家族に自慢して、世界一幸せなパンを届けてみせる!」
広場は一転して、歓喜の怒号と拍手に包まれた。職人たちは互いに抱き合い、誇らしげに自分の道具を片付け始める。
一方、リヴィアの背後では――。
「……くっ、不覚。リヴィア様の慈悲は、私の想像を遥かに超えておられた……。職人たちの精神状態まで配慮され、さらに『笑顔というスパイス』を要求されるとは。なんという高度な神託だ……!」
アルヴィスが、ハンカチで目元を拭いながら深く感動していた。
「アルヴィスさん、納得してくれました? じゃあ、みんなを解放してあげてくださいね」
「もちろんです、リヴィア様。……今すぐ、国中のパン屋に『女神公認の笑顔推奨店』という看板を配布させましょう。笑顔が足りない店主は、私が直々に――」
「教育しに行かないで! 結局怖くなるから!!」
こうして、王都のパン職人たちは「女神に命を救われた」という伝説と共に、史上空前のパンブームを巻き起こすことになるのだが、それはまた別の話である。




