老人の無知と、騎士の暴走
張り詰めた空気を切り裂いたのは、血の匂いでも、リヴィアの戦慄でもなかった。
「おや、いらっしゃい! 新しいお客さんかい? 随分と……まあ、物騒な格好をしてるが、怪我なら隣の薬屋に行ったほうがいいぞ」
店主の老人が、眼鏡をずらしながらのんびりとアルヴィスに話しかけた。アルヴィスの背後から立ち上る、戦場帰りの凄まじい「殺気」が、老人の目にはただの「元気のいい若者」くらいにしか見えていないらしい。
「アルヴィスさん、待って、その人は関係な――」
リヴィアが叫ぶより先に、アルヴィスの視線がゆっくりと老人に向けられた。その瞳は、もはや人間を見ている色ではない。自分の「宝物」を汚れた手で触れさせ、あまつさえ「お嬢ちゃん」などという不敬な名で呼んで労働を強いた、万死に値する罪人を見る目だ。
「……貴様か」
アルヴィスが一歩踏み出す。その拍子に、床の木板が悲鳴を上げて弾け飛んだ。
「貴様が、この方を……リヴィア様を、このような埃臭い場所で働かせ、その聖なる指先を煤で汚させた下種か。……この店のすべてを灰にしても、その罪はあがなえんぞ」
「ひっ……!? な、なんだ、急に……!」
老人がようやく事の異常さに気づき、腰を抜かして後退る。アルヴィスは腰の剣に手をかけ、一息に抜き放とうとした。抜剣の衝撃だけで、この小さな魔導具店は粉々に砕け散るだろう。
「やめて!! アルヴィス!!」
リヴィアが割って入り、アルヴィスの血に汚れた胸当てを両手で強く突き放した。
「この人は、私を助けてくれたの! 私に居場所をくれて、私が私でいられる時間を守ってくれた人なの! あなたが怒る理由なんて、どこにもない!」
「……居場所、だと?」
アルヴィスの動きが止まる。だが、その瞳に宿る暗い熱は消えない。
「私の隣こそが、貴女の居場所だ。……リヴィア様、貴女は理解していない。貴女がここで笑うたび、私の心臓がどれほど凍りつくか。貴女が自由を知るたびに、私は貴女を鎖で繋ぎたくなる……! この老いぼれは、私から貴女を奪おうとした。ならば、排除するのみだ」
「奪ってなんてない! 私が自分で選んだの! ……お願い、アルヴィス。これ以上、私を嫌いにさせないで」
リヴィアの瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。それを見た瞬間、アルヴィスの全身から力が抜けた。彼は剣から手を離し、がくりと膝をついた。その場に崩れ落ちる姿は、最強の騎士などではなく、ただ主を失うことを恐れる迷子の子供のようだった。
「……嫌いに、させないで……。ああ、何という呪いの言葉だ……。貴女に嫌われるくらいなら、私は……」
アルヴィスは血にまみれた手で、リヴィアのスカートの裾を握りしめ、額を地面に擦り付けた。
「……戻りましょう、リヴィア様。……もう、何も言いません。二度と、私の前から消えないと……それだけを約束してくださるなら、私はこの老人を殺さずにおきましょう」
店主の老人は、震えながらカウンターの影に隠れている。リヴィアは、自分の足元で震える「最強の番犬」の頭に、そっと手を置いた。
「……わかったわ。一緒に帰る。……でも、アルヴィス。次は、あなたが私と一緒に『普通』を学びに来て。それが、私の条件よ」
こうして、下町の小さな魔導具店から、女神と騎士は去っていった。残されたのは、半壊した床と、腰を抜かした店主、そして――リヴィアが直し、かつてないほど美しく輝き続ける魔導蓄音機の音色だけだった。




