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沈黙の檻  作者: キロヒカ.オツマ―


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第8章 誘導

夜明け前、桜ヶ丘苑の空気は、ひどく重かった。


雨は止んでいたが、湿気が廊下に溜まり、足音が妙に響く。

ナースステーションの蛍光灯が、一つ、ちかちかと瞬いている。


憲治は、眠ったふりをしながら、その光の点滅を数えていた。


七回で止まる。

また七回。


(……癖だな)


この施設には、無意識の繰り返しが多すぎる。

人も、仕組みも、同じ動作を、同じ失敗を、何度もなぞる。


だから――壊しやすい。



朝の申し送り。


職員たちが、ナースステーションに集まり、夜勤から日勤へ引き継ぎをしている。


「昨夜は、特に異常なし」

「北尾さん、夜間覚醒なし」


その声を、憲治は、廊下の奥のベッドから、はっきり聞いていた。


(……嘘だ)


昨夜、三号室で、確かに怒鳴り声があった。

転倒の音も。


だが、誰も記録しない。


ここでは、記録されなかった出来事は、

最初から「なかった」ことになる。



午前中、看護師長が、珍しく各部屋を回り、職員の仕事ぶりを直接見ていた。


「ここ、清拭の時間、遅れてるわね」

「記録、後でまとめて書いたでしょう?」


鋭い声。


職員たちは、緊張で動きが固くなっている。


その中で、石田奈緒だけが、明らかに浮いていた。


手が震え、視線が定まらず、何度も時計を見る。


(……追い込まれている)


憲治は、わざと、昼前に失禁した。


シーツを濡らし、呼吸を荒くし、意味のない声を出す。


「……あ……あ……」


石田が、担当として呼ばれてきた。


「……北尾さん、また……」


だが、今日は、看護師長が、すぐ後ろについてきた。


「あなた、処置、一人でできる?」


石田は、びくっと肩を震わせた。


「は、はい……」


処置台の横。


看護師長は、腕を組み、じっと見ている。


石田の手つきは、ぎこちなく、何度もガーゼを落とした。


そのとき。


ポケットから、小さな紙片が、床に落ちた。


メモ。


看護師長の視線が、すっと動く。


「……それ、何?」


石田は、顔面蒼白になり、慌てて拾おうとした。


だが、遅い。


看護師長が、先に踏みつけた。


紙には、走り書きの数字と時間。

薬剤名。

量。


朝食の時間帯。


(……証拠だ)


看護師長の表情が、一瞬だけ、歪んだ。


「……あとで、話しましょう」


低い声。


石田は、何も言えず、うなずくだけだった。



午後、石田の姿が、急に消えた。


休憩室にも、詰所にもいない。


職員の間で、ひそひそ声が広がる。


「呼び出されたらしいよ……」

「施設長室だって……」


憲治は、車椅子で廊下の端に置かれたまま、静かに待っていた。


待つことには、慣れている。


一時間後。


石田が、施設長室から出てきた。


目は赤く腫れ、唇は震えている。


そのまま、まっすぐ外へ出て行った。

制服のまま。


戻ってこなかった。



夕方、ナースステーションに、また警察が来た。


今度は、年配の刑事も一緒だった。


事務室の扉が閉まり、低い声での話し合いが始まる。


職員たちは、誰も近づかない。


(……前から、嗅ぎつけていたのかもしれない)


空気が、はっきりと張りつめた。


(……動いたな)


だが、まだ足りない。


石田一人では、ただの「ミスした新人」で終わる。

切り捨てられて、終わりだ。


――狙うのは、もっと上。



その夜。


消灯後、廊下の向こうで、争う声が聞こえた。


「……あなたが、ちゃんと管理していれば……」

「静かにしなさい、壁が薄いのよ……」


看護師長と、施設長の声。


憲治は、目を閉じたまま、すべてを聞いていた。


「……あの子、余計なことをメモしてた……」

「処分は?」

「辞めさせたわ。念書も書かせた」


念書。


紙切れ一枚で、罪は消えない。


(……遅い)


石田は、もう、外に出た。

恐怖と罪悪感を抱えたまま。


その夜、憲治は、久しぶりに、はっきりと笑った。


音を立てず、喉も動かさず、

ただ、心の奥だけで。


シーツの裏に、ゆっくりと指を走らせる。


――石田、退職、証拠保持。

――看護師長、隠蔽、施設長関与。


そして、新しく、二つの名前に、太い線を引いた。


看護師長。

施設長。


偶然の事故は、もういらない。


次は――


「崩壊」だ。


組織そのものが、

音を立てて、倒れていく番だった。


――続く。

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