第8章 誘導
夜明け前、桜ヶ丘苑の空気は、ひどく重かった。
雨は止んでいたが、湿気が廊下に溜まり、足音が妙に響く。
ナースステーションの蛍光灯が、一つ、ちかちかと瞬いている。
憲治は、眠ったふりをしながら、その光の点滅を数えていた。
七回で止まる。
また七回。
(……癖だな)
この施設には、無意識の繰り返しが多すぎる。
人も、仕組みも、同じ動作を、同じ失敗を、何度もなぞる。
だから――壊しやすい。
*
朝の申し送り。
職員たちが、ナースステーションに集まり、夜勤から日勤へ引き継ぎをしている。
「昨夜は、特に異常なし」
「北尾さん、夜間覚醒なし」
その声を、憲治は、廊下の奥のベッドから、はっきり聞いていた。
(……嘘だ)
昨夜、三号室で、確かに怒鳴り声があった。
転倒の音も。
だが、誰も記録しない。
ここでは、記録されなかった出来事は、
最初から「なかった」ことになる。
*
午前中、看護師長が、珍しく各部屋を回り、職員の仕事ぶりを直接見ていた。
「ここ、清拭の時間、遅れてるわね」
「記録、後でまとめて書いたでしょう?」
鋭い声。
職員たちは、緊張で動きが固くなっている。
その中で、石田奈緒だけが、明らかに浮いていた。
手が震え、視線が定まらず、何度も時計を見る。
(……追い込まれている)
憲治は、わざと、昼前に失禁した。
シーツを濡らし、呼吸を荒くし、意味のない声を出す。
「……あ……あ……」
石田が、担当として呼ばれてきた。
「……北尾さん、また……」
だが、今日は、看護師長が、すぐ後ろについてきた。
「あなた、処置、一人でできる?」
石田は、びくっと肩を震わせた。
「は、はい……」
処置台の横。
看護師長は、腕を組み、じっと見ている。
石田の手つきは、ぎこちなく、何度もガーゼを落とした。
そのとき。
ポケットから、小さな紙片が、床に落ちた。
メモ。
看護師長の視線が、すっと動く。
「……それ、何?」
石田は、顔面蒼白になり、慌てて拾おうとした。
だが、遅い。
看護師長が、先に踏みつけた。
紙には、走り書きの数字と時間。
薬剤名。
量。
朝食の時間帯。
(……証拠だ)
看護師長の表情が、一瞬だけ、歪んだ。
「……あとで、話しましょう」
低い声。
石田は、何も言えず、うなずくだけだった。
*
午後、石田の姿が、急に消えた。
休憩室にも、詰所にもいない。
職員の間で、ひそひそ声が広がる。
「呼び出されたらしいよ……」
「施設長室だって……」
憲治は、車椅子で廊下の端に置かれたまま、静かに待っていた。
待つことには、慣れている。
一時間後。
石田が、施設長室から出てきた。
目は赤く腫れ、唇は震えている。
そのまま、まっすぐ外へ出て行った。
制服のまま。
戻ってこなかった。
*
夕方、ナースステーションに、また警察が来た。
今度は、年配の刑事も一緒だった。
事務室の扉が閉まり、低い声での話し合いが始まる。
職員たちは、誰も近づかない。
(……前から、嗅ぎつけていたのかもしれない)
空気が、はっきりと張りつめた。
(……動いたな)
だが、まだ足りない。
石田一人では、ただの「ミスした新人」で終わる。
切り捨てられて、終わりだ。
――狙うのは、もっと上。
*
その夜。
消灯後、廊下の向こうで、争う声が聞こえた。
「……あなたが、ちゃんと管理していれば……」
「静かにしなさい、壁が薄いのよ……」
看護師長と、施設長の声。
憲治は、目を閉じたまま、すべてを聞いていた。
「……あの子、余計なことをメモしてた……」
「処分は?」
「辞めさせたわ。念書も書かせた」
念書。
紙切れ一枚で、罪は消えない。
(……遅い)
石田は、もう、外に出た。
恐怖と罪悪感を抱えたまま。
その夜、憲治は、久しぶりに、はっきりと笑った。
音を立てず、喉も動かさず、
ただ、心の奥だけで。
シーツの裏に、ゆっくりと指を走らせる。
――石田、退職、証拠保持。
――看護師長、隠蔽、施設長関与。
そして、新しく、二つの名前に、太い線を引いた。
看護師長。
施設長。
偶然の事故は、もういらない。
次は――
「崩壊」だ。
組織そのものが、
音を立てて、倒れていく番だった。
――続く。




