第7章 兆し
翌朝、桜ヶ丘苑には、妙な静けさが漂っていた。
いつもなら、早朝から怒鳴り声やナースコールが飛び交う廊下が、ひどく整然としている。
職員たちの動きは早く、声は小さく、誰も余計な雑談をしない。
事故と死亡。
二つが続いたことで、施設全体が、無言の緊張に包まれていた。
憲治は、ベッドに横たわりながら、その空気の変化を、皮膚で感じ取っていた。
(……効いている)
恐怖は、暴力よりもよく効く。
*
午前の回診が終わるころ、施設長がナースステーションに現れた。
背の低い、五十代半ばの男。
いつもは愛想笑いを絶やさないが、今日は顔色が悪い。
「しばらく、事故報告は必ず私を通すように」
「警察がまた来るかもしれない」
職員たちは、無言でうなずく。
その中に、看護師長の姿があった。
白衣のポケットに、何冊もの記録用紙。
背筋は伸び、表情は完璧に整っている。
だが、憲治には、わかった。
――この女は、怯えている。
視線が、何度も廊下の奥を確認している。
指先が、微かに震えている。
(……弱点は、ある)
*
昼前、憲治は、久しぶりに個別リハビリに呼ばれた。
担当は、若い理学療法士。
まだ、この施設の「裏」を知らない顔だった。
「北尾さん、少し立ってみましょうか」
両脇を支えられ、ゆっくりと立たされる。
膝は震えたが、倒れない程度に力を抜く。
歩行バーの前。
そのとき、廊下の向こうで、看護師長と石田が言い争っている声が聞こえた。
「……だから、あなたの記録、時間が合わないのよ」
「でも、私、本当にその時間に……」
「言い訳はいらない。書き直して」
鋭い声。
石田の、かすれた返事。
憲治は、目を伏せたまま、すべてを聞いていた。
――圧力。
――責任の押し付け。
組織は、必ず、弱い者から切り捨てる。
*
午後、女刑事が、再び施設を訪れた。
今度は、一人だった。
事務室で、施設長と話したあと、廊下をゆっくり歩き、利用者の様子を見て回っている。
彼女の歩き方は、静かで、無駄がない。
目だけが、鋭く動いている。
憲治の前で、足を止めた。
「……北尾さん」
小さく名前を呼び、しゃがみ込む。
「今日は、調子どうですか」
憲治は、いつものように、虚ろな視線を向け、意味のない声を出した。
「あ……あう……」
女刑事は、すぐには立ち上がらなかった。
じっと、彼の顔を見つめる。
瞳孔。
瞬きの間隔。
ほんの、数秒。
だが、その沈黙は、異様に長く感じられた。
(……見ている)
何を、ではない。
「誰を」かを。
やがて彼女は、静かに立ち上がった。
「……失礼しました」
去り際、彼女は、ナースステーションの方向を、ちらりと見た。
看護師長の背中を。
*
夕方、石田が、突然、憲治の部屋に来た。
配膳でも、清拭でもない時間。
ドアを閉め、誰もいないことを確認してから、ベッドの脇に立つ。
顔は青白く、目が赤い。
「……北尾さん……」
小さな声。
憲治は、反応しない。
彼女は、しばらく黙っていたが、突然、ぽつりと呟いた。
「……私、悪くないですよね……」
返事はない。
「……あの人、勝手に飲んだだけで……」
誰のことを言っているのか、憲治には、すぐにわかった。
朝食で倒れた、あの老人。
石田は、震える手で、自分の腕を掴んだ。
「……記録、書き換えさせられたんです……」
その瞬間、憲治の中で、はっきりと音がした。
――最初の、ひびが、割れた音。
だが、彼は、何も示さない。
ただ、よだれを垂らし、虚ろに天井を見つめる。
石田は、しばらく彼を見つめていたが、やがて、泣きそうな顔で部屋を出て行った。
*
その夜。
消灯後、憲治は、久しぶりに、深く息を吐いた。
恐怖は、伝染している。
疑念は、芽を出した。
刑事は、嗅ぎ始めている。
職員は、互いを疑い始めている。
――もう、事故だけでは、終わらない。
次は、
「誰かが、何かを話す」。
そのための、舞台は、ほぼ整った。
シーツの裏に、ゆっくりと指を走らせる。
――石田、動揺、告白未遂。
――刑事、再訪、看護師長注視。
最後に、名前の横に、新しい印をつけた。
○ 石田奈緒
壊すのではない。
――“開かせる”。
口を。
記録を。
組織の、奥の扉を。
老人は、暗闇の中で、静かに笑った。
誰にも気づかれないまま、
真実が、少しずつ、外へ滲み出していることを。
――続く。




