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『記録されなかった罪 ――桜ヶ丘苑連続事故事件』  作者: キロヒカ.オツマ―


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第7章 兆し

翌朝、桜ヶ丘苑には、妙な静けさが漂っていた。


いつもなら、早朝から怒鳴り声やナースコールが飛び交う廊下が、ひどく整然としている。

職員たちの動きは早く、声は小さく、誰も余計な雑談をしない。


事故と死亡。

二つが続いたことで、施設全体が、無言の緊張に包まれていた。


憲治は、ベッドに横たわりながら、その空気の変化を、皮膚で感じ取っていた。


(……効いている)


恐怖は、暴力よりもよく効く。



午前の回診が終わるころ、施設長がナースステーションに現れた。


背の低い、五十代半ばの男。

いつもは愛想笑いを絶やさないが、今日は顔色が悪い。


「しばらく、事故報告は必ず私を通すように」

「警察がまた来るかもしれない」


職員たちは、無言でうなずく。


その中に、看護師長の姿があった。


白衣のポケットに、何冊もの記録用紙。

背筋は伸び、表情は完璧に整っている。


だが、憲治には、わかった。


――この女は、怯えている。


視線が、何度も廊下の奥を確認している。

指先が、微かに震えている。


(……弱点は、ある)



昼前、憲治は、久しぶりに個別リハビリに呼ばれた。


担当は、若い理学療法士。

まだ、この施設の「裏」を知らない顔だった。


「北尾さん、少し立ってみましょうか」


両脇を支えられ、ゆっくりと立たされる。

膝は震えたが、倒れない程度に力を抜く。


歩行バーの前。


そのとき、廊下の向こうで、看護師長と石田が言い争っている声が聞こえた。


「……だから、あなたの記録、時間が合わないのよ」

「でも、私、本当にその時間に……」

「言い訳はいらない。書き直して」


鋭い声。

石田の、かすれた返事。


憲治は、目を伏せたまま、すべてを聞いていた。


――圧力。

――責任の押し付け。


組織は、必ず、弱い者から切り捨てる。



午後、女刑事が、再び施設を訪れた。


今度は、一人だった。


事務室で、施設長と話したあと、廊下をゆっくり歩き、利用者の様子を見て回っている。


彼女の歩き方は、静かで、無駄がない。

目だけが、鋭く動いている。


憲治の前で、足を止めた。


「……北尾さん」


小さく名前を呼び、しゃがみ込む。


「今日は、調子どうですか」


憲治は、いつものように、虚ろな視線を向け、意味のない声を出した。


「あ……あう……」


女刑事は、すぐには立ち上がらなかった。


じっと、彼の顔を見つめる。

瞳孔。

瞬きの間隔。


ほんの、数秒。


だが、その沈黙は、異様に長く感じられた。


(……見ている)


何を、ではない。


「誰を」かを。


やがて彼女は、静かに立ち上がった。


「……失礼しました」


去り際、彼女は、ナースステーションの方向を、ちらりと見た。


看護師長の背中を。



夕方、石田が、突然、憲治の部屋に来た。


配膳でも、清拭でもない時間。


ドアを閉め、誰もいないことを確認してから、ベッドの脇に立つ。


顔は青白く、目が赤い。


「……北尾さん……」


小さな声。


憲治は、反応しない。


彼女は、しばらく黙っていたが、突然、ぽつりと呟いた。


「……私、悪くないですよね……」


返事はない。


「……あの人、勝手に飲んだだけで……」


誰のことを言っているのか、憲治には、すぐにわかった。


朝食で倒れた、あの老人。


石田は、震える手で、自分の腕を掴んだ。


「……記録、書き換えさせられたんです……」


その瞬間、憲治の中で、はっきりと音がした。


――最初の、ひびが、割れた音。


だが、彼は、何も示さない。

ただ、よだれを垂らし、虚ろに天井を見つめる。


石田は、しばらく彼を見つめていたが、やがて、泣きそうな顔で部屋を出て行った。



その夜。


消灯後、憲治は、久しぶりに、深く息を吐いた。


恐怖は、伝染している。

疑念は、芽を出した。


刑事は、嗅ぎ始めている。

職員は、互いを疑い始めている。


――もう、事故だけでは、終わらない。


次は、

「誰かが、何かを話す」。


そのための、舞台は、ほぼ整った。


シーツの裏に、ゆっくりと指を走らせる。


――石田、動揺、告白未遂。

――刑事、再訪、看護師長注視。


最後に、名前の横に、新しい印をつけた。


○ 石田奈緒


壊すのではない。


――“開かせる”。


口を。

記録を。

組織の、奥の扉を。


老人は、暗闇の中で、静かに笑った。


誰にも気づかれないまま、

真実が、少しずつ、外へ滲み出していることを。


――続く。

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