第6章 揺らぎ
田島の転倒事故は、翌朝には「軽傷」で片づけられていた。
申し送りノートには、たった二行。
――リハビリ中、職員転倒。
――利用者に怪我なし。
それで終わりだった。
誰も、車椅子のブレーキを調べなかった。
誰も、床の位置を正確に測らなかった。
事故は事故として、静かに処理され、昼の業務は何事もなかったように再開された。
憲治は、ベッドに横たわりながら、その紙の音を聞いていた。
ナースステーションで、記録用紙がめくられる、かさり、という音。
(……本当に、誰も見ない)
予想以上に、この場所は脆かった。
*
午前中、看護師長が病室を回ってきた。
「北尾さん、昨日は大変でしたねえ」
優しい声。
だが、目は、まったく笑っていない。
彼女は、憲治の腕や脚を、形式的に触って確認した。
「……特に外傷はないわね」
カルテに丸をつける。
その瞬間、彼女の手元のファイルが、わずかに開いているのを、憲治は見逃さなかった。
田島の記録。
転倒場所の欄に、はっきりと「階段」と書かれている。
だが、昨日、田島が倒れたのは――
リハビリ室の入口だった。
(……書き換えたな)
しかも、階段の防犯カメラは、数週間前から「故障中」になっている。
点検依頼も、修理記録も、すべて止まったまま。
事故は、最初から、
「調べられない場所」で起きたことにされていた。
皆、最初から口裏を合わせている。
事故は、個人の問題ではなく、組織の都合で形を変える。
*
昼食後、石田奈緒が、また配膳に来た。
目の下に、濃い隈。
化粧も、ほとんどしていない。
彼女は、周囲を何度も気にしながら、流動食を配っている。
憲治の前にトレーを置くと、ほんの一瞬、手が止まった。
視線が、彼の顔に向く。
ほんの、二秒。
だが、その二秒に、奇妙な戸惑いが混じっていた。
(……気づいたか?)
憲治は、わざと、舌を出し、意味のない声を漏らした。
「……あう……」
石田は、はっとして視線を逸らし、慌てて次へ行った。
壊れかけた人間は、危険だ。
自分の身を守るためなら、何を話すかわからない。
*
午後、施設内に、警察が来た。
朝方、誤嚥で搬送された老人が、病院で亡くなったのだ。
形式上の事故確認。
刑事は二人。
年配の男と、若い女。
女刑事は、利用者一人ひとりに、簡単な聞き取りをしていた。
「おじいちゃん、昨日の朝、何か見ましたか?」
憲治は、視線を泳がせ、意味のない唸り声を出した。
「あー……うー……」
彼女は一度、立ち上がりかけ、また、憲治の目を見た。
ほんの一瞬。
(……鋭い)
だが、記録は、すでに出来上がっている。
*
夜。
消灯後、廊下の向こうで、石田の泣き声が聞こえた。
「……私のせいじゃない……」
憲治は、目を閉じたまま、静かに指を動かした。
――石田、動揺。
――記録、改ざん継続。
――看護師長、主導。
事故は、まだ、入口にすぎない。
次は――
「選ばせる」番だ。




