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『記録されなかった罪 ――桜ヶ丘苑連続事故事件』  作者: キロヒカ.オツマ―


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第6章 揺らぎ

田島の転倒事故は、翌朝には「軽傷」で片づけられていた。


申し送りノートには、たった二行。


――リハビリ中、職員転倒。

――利用者に怪我なし。


それで終わりだった。


誰も、車椅子のブレーキを調べなかった。

誰も、床の位置を正確に測らなかった。


事故は事故として、静かに処理され、昼の業務は何事もなかったように再開された。


憲治は、ベッドに横たわりながら、その紙の音を聞いていた。


ナースステーションで、記録用紙がめくられる、かさり、という音。


(……本当に、誰も見ない)


予想以上に、この場所は脆かった。



午前中、看護師長が病室を回ってきた。


「北尾さん、昨日は大変でしたねえ」


優しい声。

だが、目は、まったく笑っていない。


彼女は、憲治の腕や脚を、形式的に触って確認した。


「……特に外傷はないわね」


カルテに丸をつける。


その瞬間、彼女の手元のファイルが、わずかに開いているのを、憲治は見逃さなかった。


田島の記録。


転倒場所の欄に、はっきりと「階段」と書かれている。


だが、昨日、田島が倒れたのは――


リハビリ室の入口だった。


(……書き換えたな)


しかも、階段の防犯カメラは、数週間前から「故障中」になっている。


点検依頼も、修理記録も、すべて止まったまま。


事故は、最初から、

「調べられない場所」で起きたことにされていた。


皆、最初から口裏を合わせている。


事故は、個人の問題ではなく、組織の都合で形を変える。



昼食後、石田奈緒が、また配膳に来た。


目の下に、濃い隈。

化粧も、ほとんどしていない。


彼女は、周囲を何度も気にしながら、流動食を配っている。


憲治の前にトレーを置くと、ほんの一瞬、手が止まった。


視線が、彼の顔に向く。


ほんの、二秒。


だが、その二秒に、奇妙な戸惑いが混じっていた。


(……気づいたか?)


憲治は、わざと、舌を出し、意味のない声を漏らした。


「……あう……」


石田は、はっとして視線を逸らし、慌てて次へ行った。


壊れかけた人間は、危険だ。


自分の身を守るためなら、何を話すかわからない。



午後、施設内に、警察が来た。


朝方、誤嚥で搬送された老人が、病院で亡くなったのだ。


形式上の事故確認。


刑事は二人。

年配の男と、若い女。


女刑事は、利用者一人ひとりに、簡単な聞き取りをしていた。


「おじいちゃん、昨日の朝、何か見ましたか?」


憲治は、視線を泳がせ、意味のない唸り声を出した。


「あー……うー……」


彼女は一度、立ち上がりかけ、また、憲治の目を見た。


ほんの一瞬。


(……鋭い)


だが、記録は、すでに出来上がっている。



夜。


消灯後、廊下の向こうで、石田の泣き声が聞こえた。


「……私のせいじゃない……」


憲治は、目を閉じたまま、静かに指を動かした。


――石田、動揺。

――記録、改ざん継続。

――看護師長、主導。


事故は、まだ、入口にすぎない。


次は――


「選ばせる」番だ。

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