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『記録されなかった罪 ――桜ヶ丘苑連続事故事件』  作者: キロヒカ.オツマ―


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第5章 隙間

雨の朝だった。


屋上の排水が詰まっているのか、天井のどこかで水が滴る音がする。

ぽつ、ぽつ、と、規則正しく。


憲治は、その音を聞きながら、今日が「動く日」になることを直感していた。


理由はない。

だが、長い人生で身についた感覚だった。


――何かが、ずれる。



朝食の配膳が遅れていた。


厨房でトラブルがあったらしく、職員たちが苛立っている。

ナースステーションでは、看護師長が電話口で声を荒げていた。


「だから!昨日の夜勤の記録が合わないのよ!」


記録。


その言葉を聞いた瞬間、憲治の意識が、鋭く研ぎ澄まされた。


食堂では、石田奈緒が、明らかに眠そうな顔でトレーを配っていた。

まぶたが重く、動きが遅い。


(……徹夜だな)


テーブルに置かれた流動食の蓋が、少しずれている。


彼女は気づかず、次の利用者のところへ行った。


憲治は、目だけを動かし、カップの中を覗いた。


白い液体。

だが、表面に、わずかな泡が浮いている。


(薬を、溶かしたか)


ここでは、眠らせることが、管理の第一歩だ。

暴れないように。

呼ばないように。

静かにさせるために。


だが、今日は違った。


石田は、分量を、間違えている。


彼女の手が震えていたことを、憲治は見逃さなかった。



数分後、向かいの席の老人が、急に咳き込み始めた。


「ゴホッ……ゴホ……!」


スプーンを落とし、胸を押さえる。


職員が慌てて駆け寄る。


「どうしたの、どうしたの!」


老人の顔色が、みるみる青くなっていく。


「……息、苦しい……」


その声は、誰にも届かなかった。


ナースコール。

車椅子の騒音。

誰かの悲鳴。


医務室へ運ばれていく。


その一部始終を、憲治は、瞬き一つせずに見ていた。


――事故。


記録には、こう書かれるだろう。


「誤嚥の疑い」

「高齢による急変」


誰も、投薬ミスなど疑わない。


石田は、廊下の隅で、青ざめて立ち尽くしていた。


(弱い……)


心の中で、静かに評価する。



昼前、ナースステーションが一時的に無人になった。


電話対応と、救急搬送の連絡で、全員が奥に集まっている。


廊下は、奇妙なほど静かだった。


その瞬間を、憲治は、何日も前から待っていた。


彼は、ゆっくりと、指を動かした。


今朝、拘束はされていない。

人手不足の朝は、よくある。


肘掛けに隠していた、小さなプラスチック片を、指先で引き出す。


点滴パックの留め具から、数日前に外しておいたものだ。


それを、車椅子のブレーキのラチェット部分に、留め具を噛ませた。


ほんの、わずか。


だが、確実に効く。


(これで……止まらない)



午後、リハビリ室。


田島が、車椅子を押してきた。


「今日は歩行訓練だぞ、北尾」


乱暴に立たせようとする。


憲治は、力を抜き、体を預けた。


ぐらりと、体が傾く。


「……重いな」


田島は舌打ちし、無理に前へ出そうとする。


その瞬間。


車椅子が、音もなく、後ろへ動き出した。


ブレーキが、効いていない。


田島の足が、フットレストに引っかかる。


体勢を崩し、前のめりに倒れ込む。


「うわっ――」


鈍い音。


床。

肘。

そして、後頭部。


短い悲鳴のあと、動かなくなった。


室内が、一瞬、凍りついた。


誰かが叫ぶ。


「転倒!職員転倒!」


駆け寄る足音。

無線。

担架。


憲治は、床に座り込んだまま、震える演技をしていた。


「……あ……あ……」


だが、内心では、冷静に確認していた。


――位置、完璧。

――証拠、なし。



その夜。


ナースステーションは、異様な空気に包まれていた。


「田島、脳震盪だって」

「階段から落ちたって書いたらしいよ」


階段。


憲治は、心の中で、静かに繰り返した。


(違う……リハビリ室だ)


だが、誰も訂正しない。


事故は、また、書き換えられた。


ベッドに戻され、消灯。


拘束帯は、今日は巻かれなかった。


忙しすぎて、忘れられたのだ。


暗闇の中で、憲治は、ゆっくりと目を開いた。


初めて、歯車が一つ、外れた。


だが、誰も、彼を疑っていない。


完全な被害者。

完全な無力者。


その役を演じたまま、


老人は、静かに、次の名前を思い浮かべていた。


――石田奈緒。


偶然の事故は、

まだ、始まったばかりだった。


――続く。

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