第5章 隙間
雨の朝だった。
屋上の排水が詰まっているのか、天井のどこかで水が滴る音がする。
ぽつ、ぽつ、と、規則正しく。
憲治は、その音を聞きながら、今日が「動く日」になることを直感していた。
理由はない。
だが、長い人生で身についた感覚だった。
――何かが、ずれる。
*
朝食の配膳が遅れていた。
厨房でトラブルがあったらしく、職員たちが苛立っている。
ナースステーションでは、看護師長が電話口で声を荒げていた。
「だから!昨日の夜勤の記録が合わないのよ!」
記録。
その言葉を聞いた瞬間、憲治の意識が、鋭く研ぎ澄まされた。
食堂では、石田奈緒が、明らかに眠そうな顔でトレーを配っていた。
まぶたが重く、動きが遅い。
(……徹夜だな)
テーブルに置かれた流動食の蓋が、少しずれている。
彼女は気づかず、次の利用者のところへ行った。
憲治は、目だけを動かし、カップの中を覗いた。
白い液体。
だが、表面に、わずかな泡が浮いている。
(薬を、溶かしたか)
ここでは、眠らせることが、管理の第一歩だ。
暴れないように。
呼ばないように。
静かにさせるために。
だが、今日は違った。
石田は、分量を、間違えている。
彼女の手が震えていたことを、憲治は見逃さなかった。
*
数分後、向かいの席の老人が、急に咳き込み始めた。
「ゴホッ……ゴホ……!」
スプーンを落とし、胸を押さえる。
職員が慌てて駆け寄る。
「どうしたの、どうしたの!」
老人の顔色が、みるみる青くなっていく。
「……息、苦しい……」
その声は、誰にも届かなかった。
ナースコール。
車椅子の騒音。
誰かの悲鳴。
医務室へ運ばれていく。
その一部始終を、憲治は、瞬き一つせずに見ていた。
――事故。
記録には、こう書かれるだろう。
「誤嚥の疑い」
「高齢による急変」
誰も、投薬ミスなど疑わない。
石田は、廊下の隅で、青ざめて立ち尽くしていた。
(弱い……)
心の中で、静かに評価する。
*
昼前、ナースステーションが一時的に無人になった。
電話対応と、救急搬送の連絡で、全員が奥に集まっている。
廊下は、奇妙なほど静かだった。
その瞬間を、憲治は、何日も前から待っていた。
彼は、ゆっくりと、指を動かした。
今朝、拘束はされていない。
人手不足の朝は、よくある。
肘掛けに隠していた、小さなプラスチック片を、指先で引き出す。
点滴パックの留め具から、数日前に外しておいたものだ。
それを、車椅子のブレーキのラチェット部分に、留め具を噛ませた。
ほんの、わずか。
だが、確実に効く。
(これで……止まらない)
*
午後、リハビリ室。
田島が、車椅子を押してきた。
「今日は歩行訓練だぞ、北尾」
乱暴に立たせようとする。
憲治は、力を抜き、体を預けた。
ぐらりと、体が傾く。
「……重いな」
田島は舌打ちし、無理に前へ出そうとする。
その瞬間。
車椅子が、音もなく、後ろへ動き出した。
ブレーキが、効いていない。
田島の足が、フットレストに引っかかる。
体勢を崩し、前のめりに倒れ込む。
「うわっ――」
鈍い音。
床。
肘。
そして、後頭部。
短い悲鳴のあと、動かなくなった。
室内が、一瞬、凍りついた。
誰かが叫ぶ。
「転倒!職員転倒!」
駆け寄る足音。
無線。
担架。
憲治は、床に座り込んだまま、震える演技をしていた。
「……あ……あ……」
だが、内心では、冷静に確認していた。
――位置、完璧。
――証拠、なし。
*
その夜。
ナースステーションは、異様な空気に包まれていた。
「田島、脳震盪だって」
「階段から落ちたって書いたらしいよ」
階段。
憲治は、心の中で、静かに繰り返した。
(違う……リハビリ室だ)
だが、誰も訂正しない。
事故は、また、書き換えられた。
ベッドに戻され、消灯。
拘束帯は、今日は巻かれなかった。
忙しすぎて、忘れられたのだ。
暗闇の中で、憲治は、ゆっくりと目を開いた。
初めて、歯車が一つ、外れた。
だが、誰も、彼を疑っていない。
完全な被害者。
完全な無力者。
その役を演じたまま、
老人は、静かに、次の名前を思い浮かべていた。
――石田奈緒。
偶然の事故は、
まだ、始まったばかりだった。
――続く。




