第4章 観察者
朝の回診は、形式だけの儀式だった。
白衣の医師が二人、看護師を連れて各部屋を回る。
名前を呼び、瞳孔を覗き、腕を持ち上げ、反応を確かめる。
「北尾さん……刺激に対する反応、乏しいですね」
「認知症、進行しています」
淡々と告げられ、カルテに書き込まれる。
憲治は、まぶたの裏で笑った。
(正しい。すべて、正しいよ)
正しく壊れた老人として、完璧に振る舞っている。
*
この日から、憲治は意識的に「観察」を始めた。
ただ見るのではない。
――記憶する。
――分類する。
職員の動線。
勤務表の癖。
夜勤と日勤の引き継ぎの隙間。
ナースステーションの引き出しは、必ず一段、閉め忘れがある。
鍵のかかる薬品棚は、夜勤の田島が開けたまま戻すことが多い。
午前十時、入浴時間。
午後三時、レクリエーション。
夕方六時、投薬。
この施設は、機械のように動いている。
だが、歯車は古く、油も切れている。
(ここには、必ず隙がある)
*
昼下がり、リハビリ室。
理学療法士が、利用者の足を持ち上げ、歩行訓練をしている。
だが、憲治の番は、いつも後回しだった。
「北尾さんは、どうせ無理だから」
そう言って、車椅子のまま壁際に寄せられる。
隣の席の男が、突然、立ち上がって倒れた。
鈍い音。
頭が床に打ちつけられる音。
誰も、すぐには来なかった。
三十秒。
四十秒。
やっと職員が走ってくる。
「また転倒?ほんと学習しない」
血が、床に細く伸びている。
その瞬間、憲治の頭の中で、はっきりと一つの事実が刻まれた。
――ここでは、倒れても、すぐには助けられない。
*
夕方、面会室。
娘と、その夫が来ていた。
「ねえ、施設費、もっと安くならない?」
「もう何もわからないんだから、個室じゃなくていいよね」
施設長は、愛想よく頷いている。
「ご本人の状態を考えると、処置の簡略化も検討できます」
処置の、簡略化。
それは、延命しないという意味だ。
憲治は、車椅子の肘掛けを、内側から強く握った。
爪が食い込み、皮膚が破れそうになる。
だが、顔は動かさない。
娘が、彼の顔を覗き込む。
「……ほんと、空っぽね」
その言葉が、胸の奥に沈んだ。
怒りではなかった。
悲しみでもなかった。
ただ、冷たい確信。
――この人間たちは、自分が死んでも、何も感じない。
*
夜。
消灯後、廊下の奥で、職員同士の会話が聞こえた。
「最近さ、事故多くない?」
「どうせ痴呆ばっかりじゃん。書類さえ整えとけば問題ないよ」
笑い声。
憲治は、目を閉じたまま、静かに数を数えた。
一人。
二人。
三人。
声の主。
足音の重さ。
止まる位置。
――全員、覚えた。
*
その夜、拘束を外すふりをして、田島がベッドの脇に屈んだ。
「……ほんと、早く死ねばいいのに」
小さな声。
だが、確かに聞こえた。
その瞬間、憲治の中で、最後の迷いが消えた。
復讐ではない。
怒りでもない。
――これは、整理だ。
壊れたものを、正しい位置に戻すだけの作業。
彼は、シーツの裏に、ゆっくりと指を走らせた。
――田島。
――暴言、夜勤。
――鍵、管理不十分。
そして、最後に、小さく印をつけた。
○
最初の標。
老人は、静かに天井を見つめた。
次に壊れる歯車の音を、
もう、はっきりと想像しながら。
――続く。




