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『記録されなかった罪 ――桜ヶ丘苑連続事故事件』  作者: キロヒカ.オツマ―


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第4章 観察者

朝の回診は、形式だけの儀式だった。


白衣の医師が二人、看護師を連れて各部屋を回る。

名前を呼び、瞳孔を覗き、腕を持ち上げ、反応を確かめる。


「北尾さん……刺激に対する反応、乏しいですね」

「認知症、進行しています」


淡々と告げられ、カルテに書き込まれる。


憲治は、まぶたの裏で笑った。


(正しい。すべて、正しいよ)


正しく壊れた老人として、完璧に振る舞っている。



この日から、憲治は意識的に「観察」を始めた。


ただ見るのではない。

――記憶する。

――分類する。


職員の動線。

勤務表の癖。

夜勤と日勤の引き継ぎの隙間。


ナースステーションの引き出しは、必ず一段、閉め忘れがある。

鍵のかかる薬品棚は、夜勤の田島が開けたまま戻すことが多い。


午前十時、入浴時間。

午後三時、レクリエーション。

夕方六時、投薬。


この施設は、機械のように動いている。

だが、歯車は古く、油も切れている。


(ここには、必ず隙がある)



昼下がり、リハビリ室。


理学療法士が、利用者の足を持ち上げ、歩行訓練をしている。

だが、憲治の番は、いつも後回しだった。


「北尾さんは、どうせ無理だから」


そう言って、車椅子のまま壁際に寄せられる。


隣の席の男が、突然、立ち上がって倒れた。


鈍い音。

頭が床に打ちつけられる音。


誰も、すぐには来なかった。


三十秒。

四十秒。


やっと職員が走ってくる。


「また転倒?ほんと学習しない」


血が、床に細く伸びている。


その瞬間、憲治の頭の中で、はっきりと一つの事実が刻まれた。


――ここでは、倒れても、すぐには助けられない。



夕方、面会室。


娘と、その夫が来ていた。


「ねえ、施設費、もっと安くならない?」

「もう何もわからないんだから、個室じゃなくていいよね」


施設長は、愛想よく頷いている。


「ご本人の状態を考えると、処置の簡略化も検討できます」


処置の、簡略化。


それは、延命しないという意味だ。


憲治は、車椅子の肘掛けを、内側から強く握った。


爪が食い込み、皮膚が破れそうになる。


だが、顔は動かさない。


娘が、彼の顔を覗き込む。


「……ほんと、空っぽね」


その言葉が、胸の奥に沈んだ。


怒りではなかった。

悲しみでもなかった。


ただ、冷たい確信。


――この人間たちは、自分が死んでも、何も感じない。



夜。


消灯後、廊下の奥で、職員同士の会話が聞こえた。


「最近さ、事故多くない?」

「どうせ痴呆ばっかりじゃん。書類さえ整えとけば問題ないよ」


笑い声。


憲治は、目を閉じたまま、静かに数を数えた。


一人。

二人。

三人。


声の主。

足音の重さ。

止まる位置。


――全員、覚えた。



その夜、拘束を外すふりをして、田島がベッドの脇に屈んだ。


「……ほんと、早く死ねばいいのに」


小さな声。


だが、確かに聞こえた。


その瞬間、憲治の中で、最後の迷いが消えた。


復讐ではない。

怒りでもない。


――これは、整理だ。


壊れたものを、正しい位置に戻すだけの作業。


彼は、シーツの裏に、ゆっくりと指を走らせた。


――田島。

――暴言、夜勤。

――鍵、管理不十分。


そして、最後に、小さく印をつけた。



最初の標。


老人は、静かに天井を見つめた。


次に壊れる歯車の音を、

もう、はっきりと想像しながら。


――続く。

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