最後の独白 ――北尾憲治
暗い天井を、じっと見つめている。
染みの形は、もう何度も数えた。
右に三つ、左に二つ。
あれは、鳥の形に似ている。
ここに来てから、
世界は、ほとんど動かなくなった。
人は、私を「何もわからない老人」だと思っている。
――それで、よかった。
転んだあの日。
頭を打った、あの瞬間。
闇の底から、音がして、
私は、戻ってきた。
名前も、年も、
妻の顔も、娘の声も。
全部、はっきり、そこにあった。
だが私は、何も言わなかった。
言えば、ここから出される。
病院に戻され、
監視され、
普通の老人として、また壊れていくだけだ。
それよりも――
ここに、残るほうが、ずっとよかった。
彼らは、油断していた。
認知症の老人は、
聞いていない。
覚えていない。
何も理解していない。
そう、信じきっていた。
だから、殴った。
笑った。
触った。
嘘を書いた。
私の前で、私の死に方を相談した。
家族も、同じだった。
金の話をして、
延命はいらないと言って、
孫は、私の頭を玩具みたいにつついた。
私は、全部、覚えている。
殺すつもりは、最初は、なかった。
ただ、少しだけ、
転びやすくした。
少しだけ、
飲み込みにくくした。
少しだけ、
記録をずらした。
あとは、彼らが、自分で壊れた。
怖くなって、
隠して、
押しつけて、
裏切って。
私は、何もしなくても、
ここは、勝手に崩れていった。
刑事は、鋭かった。
だが、証拠は、なかった。
なにしろ私は、
「重度の認知症」だからだ。
私が何をしても、
偶然で、
事故で、
錯覚で、
妄想で、
終わる。
――それを、私は、知っていた。
後悔は、ない。
彼らは、私から、
尊厳を奪い、
記憶を奪い、
人としての形を、奪った。
私は、ほんの少しだけ、
それを、取り戻しただけだ。
もう、すぐ、
本当に、わからなくなる。
名前も、
今日も、
ここがどこかも。
だが、それでいい。
やるべきことは、
全部、終わった。
誰も、知らない。
誰も、証明できない。
だが――
私は、確かに、
ここで、すべてを、終わらせた。
静かだ。
とても、静かだ。
やっと――
誰も、私を、笑わない。
……これで、いい。
これで、全部、終わりだ。




