回想短編 ――藤堂理沙・夜間記録
あの施設の廊下の匂いは、
今でも、ときどき、夢の中に出てくる。
消毒液と、古い布と、
わずかに混じった、腐った甘さ。
私は、あの夜のことを、
何度も、思い出そうとして、やめる。
思い出すと、
自分が、どこまで「正しい側」だったのか、
わからなくなるから。
*
最初に、違和感を覚えたのは、
北尾憲治のカルテだった。
七十七歳。
要介護三。
重度認知症。
転倒歴あり。
頭部打撲。
意識障害、数時間。
――そして、その後も、「変化なし」。
変化が、なさすぎた。
事故のあと、
会話量が、わずかに増えている。
視線の追従が、改善している。
夜間の徘徊が、止まっている。
なのに、
評価は、ずっと「重度」のまま。
誰も、
再評価を、していなかった。
いや。
誰も、
“したがらなかった”。
*
初めて、彼と、まともに目が合った日のことを、
私は、よく、覚えている。
取調室。
ストレッチャーのまま、運ばれてきた。
口は、開いたまま。
涎。
白目がち。
完全に、
「何もわからない老人」の顔。
私は、形式通り、名前を呼んだ。
「北尾さん。聞こえますか」
反応なし。
付き添いの看護師が、
小声で言った。
「もう、ほとんど、意思疎通できませんから」
その瞬間。
彼の、指先が、動いた。
ほんの、一瞬。
シーツの端を、
“二回”だけ、叩いた。
とん、とん。
リズム。
――合図。
理由は、わからない。
ただ、
背中に、ぞっとするものが、走った。
私は、無意識に、看護師を外に出した。
ドアが、閉まる。
静寂。
私は、
できるだけ、低い声で、言った。
「……今、わかってますよね」
沈黙。
十秒。
二十秒。
やがて。
かすれた声。
ほとんど、喉の奥の、空気の震えみたいな音。
「……しずかに……して……」
その瞬間、
私は、息が、止まった。
完全に、はっきりした、日本語。
発音も、理解も、正常。
私は、椅子から、立てなかった。
*
それからの、数日間。
私は、
“刑事”であることを、
半分、やめていた。
取り調べ。
記録。
鑑定。
全部、表向きの、仕事。
本当は。
彼の話を、
誰にも、聞かせないために、
必死だった。
あの人は、
淡々と、話した。
家族の、言葉。
職員の、手。
夜の、部屋。
名前。
回数。
癖。
一切、感情を、交えずに。
まるで、
天気予報みたいに。
「……ころすつもりは……なかった……」
「……でも……とまらなかった……」
その目は、
泣いていなかった。
怒っても、いなかった。
ただ、
深いところで、
“終わっていた”。
*
私は、途中から、
彼を、止めるべきか、
隠すべきか、
わからなくなっていた。
正義。
法律。
被害者。
加害者。
全部、
ぐちゃぐちゃに、混ざっていた。
彼は、確かに、
人を、殺した。
でも。
彼を、
あそこまで、壊した人間たちは、
誰も、裁かれなかった。
執行猶予。
不起訴。
業界異動。
名前も、出ない。
彼だけが、
“怪物”として、残った。
*
最後に、会った日のこと。
病室。
彼は、また、
「認知症」に、戻っていた。
本当に。
薬のせいか。
疲れたのか。
それとも。
もう、
役を、終えたのか。
私は、名札を外して、
一人の人間として、
彼の、そばに、座った。
何か、言いたかった。
謝るべきか。
礼を、言うべきか。
わからなかった。
彼は、私を、見なかった。
ただ、
窓の外を、見て、言った。
「……あそこ……むかし……うみ……」
でたらめ。
意味のない、言葉。
でも。
私は、なぜか、
泣きそうになった。
*
事件が、終わってから。
私は、
ずっと、考えている。
もし、あのとき。
誰かが。
医者が。
家族が。
職員が。
私が。
一つでも、
“ちゃんと、見て”いたら。
彼は、
怪物に、ならずに、
すんだのか。
それとも。
あの場所に、入った時点で、
もう、
誰でも、怪物に、なるしか、なかったのか。
*
今でも。
高齢者施設の、廊下を歩くと、
ときどき、思う。
ここにも。
もう一人、
目を開けたまま、
黙っている人が、
いるんじゃないかと。
誰にも、信じてもらえず。
誰にも、見つけてもらえず。
静かに、
“その時”を、待っている人が。
私は、
それを、探すために、
刑事を、続けている。
守るため、じゃない。
裁くため、でもない。
ただ。
次の、
北尾憲治を、
生まれさせないために。
それだけ。
それだけが、
今の、私の、仕事だ。




