表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『記録されなかった罪 ――桜ヶ丘苑連続事故事件』  作者: キロヒカ.オツマ―


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

35/37

回想短編 ――藤堂理沙・夜間記録

あの施設の廊下の匂いは、

今でも、ときどき、夢の中に出てくる。


消毒液と、古い布と、

わずかに混じった、腐った甘さ。


私は、あの夜のことを、

何度も、思い出そうとして、やめる。


思い出すと、

自分が、どこまで「正しい側」だったのか、

わからなくなるから。



最初に、違和感を覚えたのは、

北尾憲治のカルテだった。


七十七歳。


要介護三。


重度認知症。


転倒歴あり。


頭部打撲。


意識障害、数時間。


――そして、その後も、「変化なし」。


変化が、なさすぎた。


事故のあと、

会話量が、わずかに増えている。


視線の追従が、改善している。


夜間の徘徊が、止まっている。


なのに、

評価は、ずっと「重度」のまま。


誰も、

再評価を、していなかった。


いや。


誰も、

“したがらなかった”。



初めて、彼と、まともに目が合った日のことを、

私は、よく、覚えている。


取調室。


ストレッチャーのまま、運ばれてきた。


口は、開いたまま。


涎。


白目がち。


完全に、

「何もわからない老人」の顔。


私は、形式通り、名前を呼んだ。


「北尾さん。聞こえますか」


反応なし。


付き添いの看護師が、

小声で言った。


「もう、ほとんど、意思疎通できませんから」


その瞬間。


彼の、指先が、動いた。


ほんの、一瞬。


シーツの端を、

“二回”だけ、叩いた。


とん、とん。


リズム。


――合図。


理由は、わからない。


ただ、

背中に、ぞっとするものが、走った。


私は、無意識に、看護師を外に出した。


ドアが、閉まる。


静寂。


私は、

できるだけ、低い声で、言った。


「……今、わかってますよね」


沈黙。


十秒。


二十秒。


やがて。


かすれた声。


ほとんど、喉の奥の、空気の震えみたいな音。


「……しずかに……して……」


その瞬間、

私は、息が、止まった。


完全に、はっきりした、日本語。


発音も、理解も、正常。


私は、椅子から、立てなかった。



それからの、数日間。


私は、

“刑事”であることを、

半分、やめていた。


取り調べ。


記録。


鑑定。


全部、表向きの、仕事。


本当は。


彼の話を、

誰にも、聞かせないために、

必死だった。


あの人は、

淡々と、話した。


家族の、言葉。


職員の、手。


夜の、部屋。


名前。


回数。


癖。


一切、感情を、交えずに。


まるで、

天気予報みたいに。


「……ころすつもりは……なかった……」


「……でも……とまらなかった……」


その目は、

泣いていなかった。


怒っても、いなかった。


ただ、

深いところで、

“終わっていた”。



私は、途中から、

彼を、止めるべきか、

隠すべきか、

わからなくなっていた。


正義。


法律。


被害者。


加害者。


全部、

ぐちゃぐちゃに、混ざっていた。


彼は、確かに、

人を、殺した。


でも。


彼を、

あそこまで、壊した人間たちは、

誰も、裁かれなかった。


執行猶予。


不起訴。


業界異動。


名前も、出ない。


彼だけが、

“怪物”として、残った。



最後に、会った日のこと。


病室。


彼は、また、

「認知症」に、戻っていた。


本当に。


薬のせいか。


疲れたのか。


それとも。


もう、

役を、終えたのか。


私は、名札を外して、

一人の人間として、

彼の、そばに、座った。


何か、言いたかった。


謝るべきか。


礼を、言うべきか。


わからなかった。


彼は、私を、見なかった。


ただ、

窓の外を、見て、言った。


「……あそこ……むかし……うみ……」


でたらめ。


意味のない、言葉。


でも。


私は、なぜか、

泣きそうになった。



事件が、終わってから。


私は、

ずっと、考えている。


もし、あのとき。


誰かが。


医者が。


家族が。


職員が。


私が。


一つでも、

“ちゃんと、見て”いたら。


彼は、

怪物に、ならずに、

すんだのか。


それとも。


あの場所に、入った時点で、

もう、

誰でも、怪物に、なるしか、なかったのか。



今でも。


高齢者施設の、廊下を歩くと、

ときどき、思う。


ここにも。


もう一人、

目を開けたまま、

黙っている人が、

いるんじゃないかと。


誰にも、信じてもらえず。


誰にも、見つけてもらえず。


静かに、

“その時”を、待っている人が。


私は、

それを、探すために、

刑事を、続けている。


守るため、じゃない。


裁くため、でもない。


ただ。


次の、

北尾憲治を、

生まれさせないために。


それだけ。


それだけが、

今の、私の、仕事だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ