第32章 疑われない怪物
藤堂理沙は、その夜、眠れなかった。
シーツの裏に刻まれていた文字。
――「つぎ むすめ」
幻覚ではない。
確かに、あの指は、
“意志をもって”動いていた。
そして、あの目。
重度認知症の患者の目では、
決して、なかった。
(……でも……ありえない……)
机に並ぶ資料。
医師の診断書。
長期認知症。
意思疎通不能。
要介護3。
施設の記録は、すべて、完璧だった。
だが。
藤堂は、一つ、異様な点に、気づいていた。
北尾憲治の診断記録。
事故の、直後。
頭部打撲。
脳震盪。
だが、その後の再検査。
――簡易検査のみ。
MRIも、精密検査も、
一度も、行われていない。
(……誰かが……止めた……?)
*
翌朝。
藤堂は、単独で、病院に戻った。
真理子の病室。
今度は、警官を、廊下に立たせていた。
だが。
病室に入った瞬間。
藤堂の、心臓が、沈んだ。
ベッドは、空。
点滴スタンドだけが、
倒れたまま、残っている。
「……患者さんは!?」
看護師が、青ざめて答える。
「……さ、さっき……」
「……リハビリ室に……」
「……お父様が……来られて……」
藤堂の頭が、真っ白になる。
「……何て……?」
「……面会手続き……済んでて……」
「……“家族”だって……」
背筋が、凍りついた。
*
リハビリ棟。
誰もいない、廊下。
藤堂は、走った。
リハビリ室。
開いた扉の奥。
真理子は、
車椅子に、座らされていた。
腕と、脚。
ベルトで、固定されている。
口には、
白い、ガーゼ。
声を、出せない。
その前。
北尾憲治が、
車椅子に座って、
静かに、向き合っていた。
介護士の姿は、ない。
藤堂は、銃に、手をかけた。
「……北尾憲治……!」
ゆっくり。
老人が、振り向いた。
――完全に、正気の顔。
「……やっと……来たか……刑事さん……」
藤堂は、
言葉を、失った。
「……な……んで……」
「……歩けないはず……」
憲治は、
自分の膝を、軽く、叩いた。
「……歩けないのは……演技だ……」
「……でも……走るのは……無理でな……」
微笑。
優しい、祖父の顔。
だが、目だけが、
底なしに、冷たい。
「……やめて……父さん……」
真理子の目から、涙が、こぼれる。
憲治は、ゆっくり、彼女の頬を、撫でた。
「……おまえは……昔から……嘘が、下手だ……」
「……見舞いに来るたび……」
「……早く、死ねばいい……って……顔に……書いてあった……」
藤堂が、叫ぶ。
「放しなさい!」
「今なら……まだ……!」
憲治は、首を、振った。
「……刑事さん……」
「……これは……殺しじゃ……ない……」
「……“教育”だ……」
*
彼は、
車椅子の下のバッグから、
一本の、注射器を、取り出した。
透明な液体。
「……心臓の薬……少し……多め……」
「……止まりは……しない……」
「……ただ……」
「……半身が……動かなくなる……」
藤堂の声が、震える。
「……あなた……自分の娘ですよ……!」
憲治は、
初めて、少しだけ、笑みを消した。
「……娘だからだ……」
「……家族だから……逃げない……」
「……逃げられない……」
真理子は、
必死に、首を、振った。
涙で、顔が、ぐしゃぐしゃになる。
憲治は、
針を、ゆっくり、彼女の腕に、近づけた。
その瞬間。
廊下から、
警官の声。
「藤堂さん!」
「上の階で……!」
非常ベルが、鳴る。
――火災警報。
憲治の、口角が、上がった。
「……ほら……」
「……組織は……混乱すると……何も……見えなくなる……」
藤堂は、
一歩、踏み出した。
だが。
憲治は、
すでに、針を、刺していた。
ゆっくり。
押す。
真理子の、身体が、
びくり、と、跳ねた。
「……あ……あ……」
声にならない、悲鳴。
藤堂は、
銃を、構えた。
「……動かないで……!」
憲治は、
注射器を、置き、
両手を、上げた。
「……もう……いい……」
「……次は……婿だ……」
その瞬間。
廊下から、
複数の足音。
警官隊。
藤堂は、叫んだ。
「確保して!」
だが。
憲治は、
車椅子を、後ろに、下げ、
非常階段の扉を、開けた。
そして。
――ためらいもなく。
自分ごと、
階段の闇へ、
身を、落とした。
轟音。
悲鳴。
沈黙。
*
数分後。
階段の踊り場。
北尾憲治は、
血の海の中で、倒れていた。
首は、
不自然な角度。
即死。
顔には。
――満足そうな、微笑。
藤堂は、膝を、ついた。
理解した。
彼は、捕まるつもりなど、なかった。
最初から。
「……逃げ切る……つもりだった……」
*
病室。
真理子は、生きていた。
だが。
右半身。
完全麻痺。
声も、出ない。
藤堂は、ベッドの脇で、
拳を、強く、握った。
(……止めきれなかった……)
だが。
事件は、まだ、終わっていなかった。
翌日。
一本の電話。
「……刑事さん……」
「……北尾さんの……婿さんが……」
「……自宅で……首を……」
藤堂は、
ゆっくり、目を、閉じた。
最後まで。
彼は、
“家族”を、壊しきって、
死んだ。
――続く。




