第31章 疑念の輪郭
藤堂理沙は、三度目の資料を閉じた。
北尾家関係者の事故一覧。
・妻――数年前、階段転落死
・娘――現在入院中、階段転落
・義母――重体、病院非常階段転落未遂
そして――
・施設内の事故死 二件
・看護師 失踪
・施設長 自殺未遂
すべて、
「偶然」として、処理されている。
だが。
(……同じ形、同じ順番……)
藤堂は、机に、もう一枚の紙を広げた。
北尾憲治・七十七歳。
重度認知症。
意思疎通不可。
――公式には。
だが。
彼女の頭から、どうしても、消えない映像があった。
数日前。
面会室。
婿が怒鳴り、怯え、逃げ出した、あの場面。
その直後。
ほんの一瞬。
あの老人が、
“こちらを見た”気がした。
虚ろではない。
はっきりと。
(……錯覚……?)
*
同日午後。
藤堂は、単独で、病院を訪れていた。
娘――北尾真理子の病室。
意識は、ある。
だが、
ベッド柵に、強く、しがみついていた。
「……夜が……怖いんです……」
藤堂が名刺を出すと、
真理子は、泣きそうな顔で、言った。
「……誰かが……来る気がして……」
「……階段の音が……毎晩……」
「……夢じゃ……ない……」
点滴。
心電図。
何も異常はない。
看護師に、尋ねる。
「夜勤中、誰か入室しましたか?」
「いえ……監視カメラも……」
言葉が、止まる。
「……あ……いえ……その……」
「何?」
看護師は、目を伏せた。
「……非常階段のカメラ……」
「……先週から……調整中で……」
藤堂の背中に、
冷たいものが、走った。
(……また……)
*
夕方。
藤堂は、施設に、戻っていた。
桜ヶ丘苑。
面会室のガラス越し。
北尾憲治は、
いつも通り、車椅子に座り、
天井を、見つめている。
藤堂は、職員を下がらせ、
一人で、前に、座った。
「……北尾さん」
反応、なし。
「……奥さんのこと……覚えてますか?」
まばたき、一回。
「……娘さん……危ない事故が、続いてます」
沈黙。
藤堂は、声を、低くした。
「……あなたの周りで、たくさん、人が、落ちています」
一秒。
二秒。
そのとき。
憲治の、右手の指が、
ほんの、わずかに、動いた。
床を。
――とん。
――とん。
三回。
(……今の……?)
藤堂は、息を、止めた。
「……北尾さん……?」
顔は、動かない。
目も、虚ろなまま。
だが。
藤堂は、見た。
彼の、口の端が、
ほんの、わずかに、上がったのを。
(……笑った……?)
背筋が、凍る。
*
その夜。
病院。
真理子の病室。
消灯後。
廊下の灯りが、
一つ、落ちる。
もう一つ。
静寂。
午前二時。
非常階段の扉が、
――かすかに、開いた。
看護師は、いない。
巡回は、五分後。
足音。
……こと。
……こと。
点滴スタンドの影が、
壁に、長く、伸びる。
真理子は、目を、覚ました。
誰か、いる。
心臓が、跳ねる。
「……だ、れ……?」
返事、なし。
カーテンの向こうに、
人影。
ゆっくり、近づく。
手。
白い、ゴム手袋。
点滴の管に、触れる。
「……や……やめ……」
声が、出ない。
次の瞬間。
病室のドアが、勢いよく、開いた。
「動かないで!」
藤堂だった。
ライト。
影が、跳ねる。
非常階段の方へ、
誰かが、走って、逃げる。
藤堂は、追う。
だが。
階段の踊り場で、
影は、忽然と、消えた。
扉は、内側から、施錠されている。
逃げ場は、ない。
なのに。
誰も、いない。
(……ありえない……)
*
数時間後。
施設。
憲治のベッドの脇。
藤堂は、深夜の訪問で、立っていた。
職員は、不審そうに、離れている。
藤堂は、静かに、言った。
「……あなたですね」
沈黙。
「……家族の事故……施設の崩壊……」
「……全部……あなたが、見ていた」
憲治は、動かない。
だが。
そのとき。
布団の下。
彼の、左手の指が、
ゆっくり、動いた。
シーツの裏に、
何かを、なぞる。
藤堂は、布団を、めくった。
そこに、
爪で、刻まれた、文字。
歪んだ、ひらがな。
――「つぎ むすめ」
藤堂は、息を、呑んだ。
顔を、上げる。
その瞬間。
初めて。
北尾憲治の目が、
真正面から、
彼女を、見た。
完全に、正気の目。
ゆっくり。
はっきり。
唇が、動く。
「……お……そ……い……」
藤堂は、
一歩、後ずさった。
理解した。
――この事件の犯人は、
――この国で、最も、疑われない人間。
認知症の、老人。
そして。
娘は、
まだ、終わっていない。
(……止めなきゃ……)
だが。
もう。
彼は、
次の場所へ、
手を、伸ばしている。
――続く。




