第30章 最初の家族
婿は、事故だと思っていた。
義母の転落も、
病院の入院も、
すべて、「運が悪かっただけ」。
自分は、何もしていない。
していないのに――
夜になると、
必ず、夢を見る。
階段の上。
誰かが、後ろに、立っている。
振り向こうとすると、
体が、動かない。
「……お……ま……え……」
聞き覚えのない、老人の声。
喉元に、冷たい息。
そして、
必ず、階段を、踏み外す。
毎晩、同じ夢。
*
会社。
婿――北尾雅人は、
営業先で、ミスを連発していた。
数字を間違え、
約束を忘れ、
書類を落とす。
上司に、睨まれる。
「最近、どうしたんだ?」
「……すみません……」
手が、震える。
ポケットの中で、
スマートフォンが、何度も、震えた。
非通知。
出ない。
だが、
切っても、切っても、
また、鳴る。
昼休み。
意を決して、出た。
「……もしもし……」
雑音。
そして、
低く、かすれた声。
「……ま……だ……」
「……お……わ……っ……て……な……い……」
雅人は、
スマートフォンを、落とした。
周囲の社員が、
怪訝な顔で、見る。
「……誰だよ……今の……」
履歴、なし。
番号、なし。
*
帰宅。
夜。
妻は、実家の母の見舞いで、留守。
一人の、リビング。
テレビをつけるが、
音が、頭に、入らない。
テーブルの上に、
封筒が、置いてあった。
見覚えのない、白い封筒。
宛名、なし。
中。
写真。
施設の面会室。
車椅子の老人。
自分。
孫。
あの日。
孫が、額を、つついている瞬間。
その写真の、裏。
赤いペンで、
一行。
――「次は、お前」
喉が、鳴る。
(……見ていた……)
(……あの場に……誰か……)
いや。
職員しか、いない。
まさか――
*
深夜。
シャワーを浴び、
酒を飲み、
無理やり、眠ろうとした。
だが。
ベッドの下から、
音がした。
……きい。
……ぎし。
誰か、いる。
電気をつける。
何も、いない。
だが、
枕元に、
小さな、紙切れ。
「延命、いらないでしょ」
自分の、言葉。
面会室で、
笑いながら、言った、あの言葉。
雅人は、
初めて、はっきりと、悟った。
(……殺される……)
*
翌朝。
妻から、電話。
「……ねえ……お母さんの病院で……」
声が、震えている。
「……昨日……誰かが……病室に……」
夜中、
義母の点滴が、
外されていた。
看護師の巡回で、
すぐ、気づいた。
事故扱い。
監視カメラは、
ちょうど、点検中。
「……誰かの……いたずら……だよね……?」
雅人は、
答えられなかった。
*
その夜。
会社から、早退。
真っ直ぐ、帰宅。
だが。
玄関の鍵が、
内側から、開いていた。
心臓が、跳ねる。
恐る恐る、入る。
家の中は、
何も、荒れていない。
リビングの壁。
額縁の裏。
赤いペン。
大きな文字。
――「順番」
床に、
もう一枚、紙。
「階段、気をつけて」
雅人は、
声にならない悲鳴を、上げた。
*
翌日。
彼は、会社を休み、
一人で、施設へ、向かった。
理由もなく。
ただ、
確かめたかった。
あの老人が、
本当に、そこに、いるのか。
面会室。
ガラス越し。
憲治は、
いつものように、
虚ろな目で、
天井を、見ていた。
雅人は、
震える声で、言った。
「……あんた……」
「……あんたが……やってるんだろ……」
反応、なし。
職員が、
怪訝そうに、見る。
「……何か……?」
「……い、いえ……」
立ち去ろうとした、その瞬間。
背後から、
低い声。
「……あ……し……」
振り向く。
憲治の口が、
ゆっくり、動いていた。
「……す……べ……り……」
「……る……」
職員が、すぐ、駆け寄る。
「北尾さん、どうしました?」
だが、
その顔には、
いつもの、無表情。
雅人は、
逃げるように、施設を、出た。
*
三日後。
夜。
義母の病院から、
一本の電話。
「……ご家族の方……至急……」
階段。
病院の非常階段。
義母は、
転落していた。
今度は、
重体。
意識、戻らず。
警察が、来た。
だが。
監視カメラ、
やはり、故障。
手すりのボルト、
わずかに、緩んでいた。
「……事故でしょう……」
刑事は、そう言った。
だが。
雅人の携帯に、
同時刻。
非通知。
一通の、音声メッセージ。
再生。
「……じゅ……ん……ば……ん……」
「……つ……ぎ……は……」
それだけ。
雅人は、
その場で、崩れ落ちた。
*
同じ夜。
施設。
憲治は、
ベッドに、横たわりながら、
天井に、ゆっくり、指で、文字を、なぞっていた。
――母。
――婿。
次は――
娘。
一番、近くで、
一番、裏切った。
そして。
一番、苦しめる。
(……まだ……だ……)
(……壊……れ……る……ま……で……)
遠くで、
救急車のサイレンが、鳴っていた。
それが、
誰のためのものか、
彼は、もう、知っていた。
――続く。




