第3章 記録
夜は、この施設でいちばん正直な時間だった。
消灯は二十一時。
廊下の照明は半分に落とされ、ナースステーションだけが白く光る。
昼間、笑顔を貼りつけていた職員たちは、夜になると別の顔を見せる。
言葉は荒れ、足音は乱暴になり、カートは壁にぶつかりながら走る。
憲治は、そのすべてを、静かに聞いていた。
右耳が、少しだけよく聞こえる。
医師には言わなかった。
それは、武器になるからだ。
*
「また北尾か……」
廊下で、夜勤の男がぼやいた。
「今日も拘束しとけ。動かれると面倒だ」
ベッド柵が上げられ、両手首に布の帯が巻かれる。
力任せに引かれ、骨に食い込む。
「痛いなぁ……」と、わざと間の抜けた声を出す。
「うるさい」
男は吐き捨てるように言って、照明を消した。
闇。
だが、憲治の頭の中は、冴えきっていた。
(今のは……田島だ)
二十代後半、夜勤専属。
酒の匂いを隠すために、いつも強い整髪料を使っている。
三週間前、入居者の財布から千円札を抜いたのを、偶然見た。
――一人目。
心の中で、静かに印をつける。
*
深夜二時。
ナースコールが、どこかで鳴った。
誰もすぐには来ない。
廊下の向こうで、車椅子が倒れる音。
女の泣き声。
「だから言ったでしょ、立つなって!」
叩く音。
何かが、床に転がる音。
憲治は、目を閉じたまま、耳だけを澄ませていた。
――場所。
――時間。
――声の主。
すべて、頭の中に刻み込む。
そのうち、足音が遠ざかり、静寂が戻る。
憲治は、ゆっくりと、右手の指を動かした。
拘束帯は、少し緩い。
いつも、同じ締め方だ。
人差し指が、かろうじて外に出る。
その指で、シーツの裏をなぞる。
点。
線。
見えない文字。
彼は、毎晩、ここに「書いて」いた。
日付。
名前。
出来事。
もちろん、誰にも読めない。
だが、自分にはわかる。
忘れないための、唯一の帳簿。
――六月十二日。
――田島、拘束強化。暴言あり。
書き終えると、指を止め、また動かなくなる。
完全な痴呆の老人に戻る。
*
数日後。
昼の入浴介助の時間。
脱衣所で、職員が二人、話している。
「この前さ、三号室の婆さん、夜に転ばせちゃって」
「え、バレた?」
「大丈夫大丈夫。“徘徊中の転倒”で書いといた」
笑い声。
その瞬間、憲治の背中を、冷たいものが走った。
――書類。
――記録。
事故は、作られる。
介護記録という名の、免罪符。
(そうか……)
ここでは、紙の上に書かれたことが、真実になる。
利用者の記憶など、誰も信じない。
憲治は、初めて、はっきりと道筋を見た。
復讐は、力ではない。
怒鳴り声でも、刃物でもない。
――記録だ。
*
その夜、面会室の隅で、家族が施設長と話していた。
「財産の管理なんですが……」
「後見制度を使えば、こちらで手続きできますよ」
「父はもう何もわからないので」
その言葉を、憲治は、すぐ後ろの車椅子で聞いていた。
何もわからない。
そう思われている。
娘の声には、迷いも、罪悪感もなかった。
ただ、早く終わらせたい、という色だけがあった。
その瞬間、決定的に理解した。
――助けは来ない。
――ここから、誰も救ってくれない。
帰室後、消灯。
憲治は、天井の染みを見つめながら、ゆっくりと考えた。
事故は作れる。
記録は書き換えられる。
責任は、認知症に押しつけられる。
しかも――
自分は、完璧な「無力な老人」だ。
その夜、彼は、シーツの裏に、いつもより長く指を走らせた。
――計画、開始。
誰にも見えない場所で、
最初の歯車が、静かに、音もなく噛み合った。
――続く。




