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『記録されなかった罪 ――桜ヶ丘苑連続事故事件』  作者: キロヒカ.オツマ―


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第3章 記録

夜は、この施設でいちばん正直な時間だった。


消灯は二十一時。

廊下の照明は半分に落とされ、ナースステーションだけが白く光る。


昼間、笑顔を貼りつけていた職員たちは、夜になると別の顔を見せる。

言葉は荒れ、足音は乱暴になり、カートは壁にぶつかりながら走る。


憲治は、そのすべてを、静かに聞いていた。


右耳が、少しだけよく聞こえる。

医師には言わなかった。


それは、武器になるからだ。



「また北尾か……」


廊下で、夜勤の男がぼやいた。


「今日も拘束しとけ。動かれると面倒だ」


ベッド柵が上げられ、両手首に布の帯が巻かれる。

力任せに引かれ、骨に食い込む。


「痛いなぁ……」と、わざと間の抜けた声を出す。


「うるさい」


男は吐き捨てるように言って、照明を消した。


闇。


だが、憲治の頭の中は、冴えきっていた。


(今のは……田島だ)


二十代後半、夜勤専属。

酒の匂いを隠すために、いつも強い整髪料を使っている。

三週間前、入居者の財布から千円札を抜いたのを、偶然見た。


――一人目。


心の中で、静かに印をつける。



深夜二時。


ナースコールが、どこかで鳴った。

誰もすぐには来ない。


廊下の向こうで、車椅子が倒れる音。

女の泣き声。


「だから言ったでしょ、立つなって!」


叩く音。

何かが、床に転がる音。


憲治は、目を閉じたまま、耳だけを澄ませていた。


――場所。

――時間。

――声の主。


すべて、頭の中に刻み込む。


そのうち、足音が遠ざかり、静寂が戻る。


憲治は、ゆっくりと、右手の指を動かした。


拘束帯は、少し緩い。

いつも、同じ締め方だ。


人差し指が、かろうじて外に出る。


その指で、シーツの裏をなぞる。


点。

線。


見えない文字。


彼は、毎晩、ここに「書いて」いた。


日付。

名前。

出来事。


もちろん、誰にも読めない。

だが、自分にはわかる。


忘れないための、唯一の帳簿。


――六月十二日。

――田島、拘束強化。暴言あり。


書き終えると、指を止め、また動かなくなる。


完全な痴呆の老人に戻る。



数日後。


昼の入浴介助の時間。


脱衣所で、職員が二人、話している。


「この前さ、三号室の婆さん、夜に転ばせちゃって」

「え、バレた?」

「大丈夫大丈夫。“徘徊中の転倒”で書いといた」


笑い声。


その瞬間、憲治の背中を、冷たいものが走った。


――書類。

――記録。


事故は、作られる。


介護記録という名の、免罪符。


(そうか……)


ここでは、紙の上に書かれたことが、真実になる。


利用者の記憶など、誰も信じない。


憲治は、初めて、はっきりと道筋を見た。


復讐は、力ではない。

怒鳴り声でも、刃物でもない。


――記録だ。



その夜、面会室の隅で、家族が施設長と話していた。


「財産の管理なんですが……」

「後見制度を使えば、こちらで手続きできますよ」

「父はもう何もわからないので」


その言葉を、憲治は、すぐ後ろの車椅子で聞いていた。


何もわからない。


そう思われている。


娘の声には、迷いも、罪悪感もなかった。


ただ、早く終わらせたい、という色だけがあった。


その瞬間、決定的に理解した。


――助けは来ない。

――ここから、誰も救ってくれない。


帰室後、消灯。


憲治は、天井の染みを見つめながら、ゆっくりと考えた。


事故は作れる。

記録は書き換えられる。

責任は、認知症に押しつけられる。


しかも――


自分は、完璧な「無力な老人」だ。


その夜、彼は、シーツの裏に、いつもより長く指を走らせた。


――計画、開始。


誰にも見えない場所で、

最初の歯車が、静かに、音もなく噛み合った。


――続く。

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