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『記録されなかった罪 ――桜ヶ丘苑連続事故事件』  作者: キロヒカ.オツマ―


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第29章 告白未遂

久保田は、病院を出て、そのまま、どこにも行けなかった。


車に乗り、

エンジンをかけ、

駐車場から動かず、二時間。


ハンドルに、額を押しつけたまま。


頭の中では、

老人の目が、

あの、わずかな笑みが、

何度も、再生されていた。


(……気づいている……)


(……最初から……)


(……俺を……嵌めている……)


だが――


それでも。


“量を多く出した”のは、自分だ。


“危険だと分かっていた”のに、出した。


完全な無罪では、ない。


(……なら……)


(……終わらせるしか……)



自宅。


夜。


久保田は、風呂にも入らず、

診察用バッグを、机の上に置いた。


中から、

処方ノート。

ボールペン。

睡眠薬の瓶。


市販薬ではない。


自分の、処方用サンプル。


強い。


老人用ではない。


机に、紙を広げる。


震える手で、書き始める。


――私は、医師として、取り返しのつかない過ちを犯しました

――患者を、殺しかけました

――これは、事故ではありませんでした


そこで、ペンが、止まる。


(……故意……と……書くのか……?)


(……本当に……俺は……)


書けない。


だが、

「事故」と書いた瞬間、

頭の中で、あの声が、響いた。


「……じ……ぶ……ん……で……」


自分で。


自分で、死ね。


自分で、終われ。


久保田は、目を閉じ、

文字を、書き直した。


――私は、患者を、意図的に、危険な状態に追い込みました


(……違う……)


(……でも……そう見える……)


紙は、ぐしゃぐしゃになり、

何枚も、床に落ちた。



深夜二時。


久保田は、瓶を開け、

錠剤を、掌に、山のように出した。


コップに、水。


喉が、鳴る。


(……これで……終わる……)


そのとき。


スマートフォンが、震えた。


非通知。


一瞬、固まる。


出ない。


だが――


震えは、止まらない。


何度も。


何度も。


逃げるように、

通話ボタンを、押してしまった。


「……も……し……」


低い、老人の声。


「……せ……ん……せ……」


久保田の全身から、力が抜けた。


「……ま……だ……」


「……は……な……し……」


「……お……わ……っ……て……な……い……」


通話は、切れた。


そのまま。


五秒。


発信履歴、なし。


久保田は、

錠剤を、床に、ばらまいた。


(……殺される……)


(……いや……)


(……生かされる……)


そのまま、

台所の引き出しを開け、

果物ナイフを、取り出した。



三十分後。


隣人の通報で、

救急が、来た。


玄関は、内側から、施錠。


警察が、踏み込んだとき、

久保田は、

浴室で、倒れていた。


左手首。


深い。


だが、

致命傷ではない。


睡眠薬も、

中途半端な量。


「……未遂……」


救急隊員が、低く、言った。



翌朝。


病院。


久保田は、

拘束ベルトをつけられ、

ベッドに、横たわっていた。


自殺企図。


保護入院。


医療事故調査は、

即座に、停止。


代わりに――


刑事事件として、動き出す。



佐伯は、面会室で、

久保田の「遺書未遂」を、読んでいた。


ぐしゃぐしゃの紙。


破れ。


訂正。


だが、

はっきり、書いてある一文。


――私は、患者を、意図的に、危険な状態に追い込みました


(……認めている……)


(……だが……動機が、ない……)


佐伯は、廊下を歩きながら、

強く、考えていた。


久保田は、

金も、恨みも、ない。


殺す理由が、ない。


あるのは――


“誘導された恐怖”。



病室。


憲治は、今日も、

認知症の老人の顔で、

天井を見つめていた。


看護師が、噂話をする。


「……久保田先生、自殺未遂だって……」


「……ショックだったんだろうね……」


「……北尾さんの件で……」


憲治の目が、

わずかに、動く。


――成功。


医師は、壊れた。


社会的にも、ほぼ、終わり。


だが――


まだ、足りない。


自白が、必要だ。


「故意だった」と、

本人の口から、言わせる。


そして――


次は、

“家族”。


あの、笑いながら、

自分を、侮辱した、

血縁。



その夜。


佐伯は、

病室に、一人で、入った。


カメラは、止めさせた。


椅子に座り、

静かに、言う。


「……北尾さん……」


「……あなたが……久保田医師を……ここまで追い込んだ……」


沈黙。


「……あなた……」


「……本当に……何も……分からない人ですか……?」


そのとき。


憲治の視線が、

ゆっくり、

佐伯に、合った。


はっきりと。


今までで、

一番、はっきりと。


そして。


ほんの、わずか。


口の端が、

――笑った。


一瞬。


だが、確かに。


佐伯の背筋に、

氷が、流れ落ちた。


(……確信……)


(……回復している……)


(……しかも……最初から……)


佐伯は、

声を、震わせずに、言った。


「……あなた……」


「……次は……誰ですか……」


憲治は、答えない。


ただ、

ゆっくり、瞬きをした。


それは、

「まだ、言わない」という、

合図だった。


――続く。

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