第29章 告白未遂
久保田は、病院を出て、そのまま、どこにも行けなかった。
車に乗り、
エンジンをかけ、
駐車場から動かず、二時間。
ハンドルに、額を押しつけたまま。
頭の中では、
老人の目が、
あの、わずかな笑みが、
何度も、再生されていた。
(……気づいている……)
(……最初から……)
(……俺を……嵌めている……)
だが――
それでも。
“量を多く出した”のは、自分だ。
“危険だと分かっていた”のに、出した。
完全な無罪では、ない。
(……なら……)
(……終わらせるしか……)
*
自宅。
夜。
久保田は、風呂にも入らず、
診察用バッグを、机の上に置いた。
中から、
処方ノート。
ボールペン。
睡眠薬の瓶。
市販薬ではない。
自分の、処方用サンプル。
強い。
老人用ではない。
机に、紙を広げる。
震える手で、書き始める。
――私は、医師として、取り返しのつかない過ちを犯しました
――患者を、殺しかけました
――これは、事故ではありませんでした
そこで、ペンが、止まる。
(……故意……と……書くのか……?)
(……本当に……俺は……)
書けない。
だが、
「事故」と書いた瞬間、
頭の中で、あの声が、響いた。
「……じ……ぶ……ん……で……」
自分で。
自分で、死ね。
自分で、終われ。
久保田は、目を閉じ、
文字を、書き直した。
――私は、患者を、意図的に、危険な状態に追い込みました
(……違う……)
(……でも……そう見える……)
紙は、ぐしゃぐしゃになり、
何枚も、床に落ちた。
*
深夜二時。
久保田は、瓶を開け、
錠剤を、掌に、山のように出した。
コップに、水。
喉が、鳴る。
(……これで……終わる……)
そのとき。
スマートフォンが、震えた。
非通知。
一瞬、固まる。
出ない。
だが――
震えは、止まらない。
何度も。
何度も。
逃げるように、
通話ボタンを、押してしまった。
「……も……し……」
低い、老人の声。
「……せ……ん……せ……」
久保田の全身から、力が抜けた。
「……ま……だ……」
「……は……な……し……」
「……お……わ……っ……て……な……い……」
通話は、切れた。
そのまま。
五秒。
発信履歴、なし。
久保田は、
錠剤を、床に、ばらまいた。
(……殺される……)
(……いや……)
(……生かされる……)
そのまま、
台所の引き出しを開け、
果物ナイフを、取り出した。
*
三十分後。
隣人の通報で、
救急が、来た。
玄関は、内側から、施錠。
警察が、踏み込んだとき、
久保田は、
浴室で、倒れていた。
左手首。
深い。
だが、
致命傷ではない。
睡眠薬も、
中途半端な量。
「……未遂……」
救急隊員が、低く、言った。
*
翌朝。
病院。
久保田は、
拘束ベルトをつけられ、
ベッドに、横たわっていた。
自殺企図。
保護入院。
医療事故調査は、
即座に、停止。
代わりに――
刑事事件として、動き出す。
*
佐伯は、面会室で、
久保田の「遺書未遂」を、読んでいた。
ぐしゃぐしゃの紙。
破れ。
訂正。
だが、
はっきり、書いてある一文。
――私は、患者を、意図的に、危険な状態に追い込みました
(……認めている……)
(……だが……動機が、ない……)
佐伯は、廊下を歩きながら、
強く、考えていた。
久保田は、
金も、恨みも、ない。
殺す理由が、ない。
あるのは――
“誘導された恐怖”。
*
病室。
憲治は、今日も、
認知症の老人の顔で、
天井を見つめていた。
看護師が、噂話をする。
「……久保田先生、自殺未遂だって……」
「……ショックだったんだろうね……」
「……北尾さんの件で……」
憲治の目が、
わずかに、動く。
――成功。
医師は、壊れた。
社会的にも、ほぼ、終わり。
だが――
まだ、足りない。
自白が、必要だ。
「故意だった」と、
本人の口から、言わせる。
そして――
次は、
“家族”。
あの、笑いながら、
自分を、侮辱した、
血縁。
*
その夜。
佐伯は、
病室に、一人で、入った。
カメラは、止めさせた。
椅子に座り、
静かに、言う。
「……北尾さん……」
「……あなたが……久保田医師を……ここまで追い込んだ……」
沈黙。
「……あなた……」
「……本当に……何も……分からない人ですか……?」
そのとき。
憲治の視線が、
ゆっくり、
佐伯に、合った。
はっきりと。
今までで、
一番、はっきりと。
そして。
ほんの、わずか。
口の端が、
――笑った。
一瞬。
だが、確かに。
佐伯の背筋に、
氷が、流れ落ちた。
(……確信……)
(……回復している……)
(……しかも……最初から……)
佐伯は、
声を、震わせずに、言った。
「……あなた……」
「……次は……誰ですか……」
憲治は、答えない。
ただ、
ゆっくり、瞬きをした。
それは、
「まだ、言わない」という、
合図だった。
――続く。




