第28章 偽りの遺書
久保田は、一睡もできなかった。
天井を見つめたまま、夜が明ける。
目を閉じると、
あの声が、蘇る。
「……せ……ん……せ……」
老人の、
掠れた、
責めるような声。
(……幻聴だ……)
何度も、そう、言い聞かせた。
だが、スマートフォンの通話履歴を、何度確認しても、
非通知・五秒。
消えていない。
(……生きている……)
(……しかも……意識が……)
*
午前十時。
県の医療安全委員会。
小さな会議室に、
久保田は、呼び出されていた。
正面には、三人。
医師会の監査官。
県の担当官。
そして――刑事、佐伯。
「……今回の件ですが」
監査官が、淡々と、切り出す。
「処方量が、通常の二倍を超えています」
「ご高齢で、腎機能も低下していますね」
「……なぜ、この量を?」
久保田は、喉を鳴らした。
「……興奮が、激しくて……夜間せん妄も……」
「それでも、危険域です」
佐伯が、口を挟む。
「……薬の相互作用、理解されていますよね」
久保田は、うなずいた。
だが、声が、出ない。
「……あなた、事故だと思っていますか?」
佐伯の視線が、刺さる。
「それとも――」
「……故意ですか?」
その言葉に、
久保田の指が、痙攣した。
「……そんな……」
「……殺すつもりなんて……」
「……ただ……少し……静かに……」
言った瞬間、
自分の言葉に、凍りついた。
(……今の……言い方……)
佐伯の眉が、わずかに、動いた。
*
昼。
病院。
憲治のベッドの横に、
新しい封筒が、置かれていた。
誰が置いたのか、分からない。
宛名もない。
中には、
一枚の紙。
震える字。
だが、
はっきり、読める。
――せんせいへ
――くるしくて もう むりです
――あのよで あやまってください
誤字だらけ。
認知症の老人が、
必死に書いたような、文字。
看護師は、すぐ、主治医に渡した。
主治医は、首を傾げた。
「……この人……筆談、できないはずだが……」
だが、
誰も、深くは、追及しない。
その紙は、
回り回って、
夕方には、佐伯の手に渡った。
(……遺書……?)
(……いや……誘導……)
佐伯は、すぐ、久保田に、電話を入れた。
*
「……遺書のようなものが、出てきました」
電話口。
久保田の呼吸が、荒くなるのが、分かる。
「……な……何て……?」
「……あなた宛てです」
沈黙。
次の瞬間。
「……違う……」
「……私は……」
「……本当に……事故で……」
声が、震え、裏返る。
佐伯は、低く言った。
「……今夜、北尾さん、面会できますよ」
「……直接、話してみますか?」
久保田は、即答できなかった。
だが――
「……行きます……」
言ってしまった。
(……聞かないと……)
(……責められる前に……)
*
夜。
病室。
カーテンを閉め、
照明を落とす。
看護師は、外に出した。
二人きり。
ベッドの上の憲治は、
相変わらず、虚ろな目で、天井を見ている。
久保田は、椅子に座り、
汗だくのまま、言った。
「……北尾さん……」
「……聞こえますか……」
沈黙。
心電図の音だけ。
「……あの……紙……」
「……私の……せい……ですか……?」
しばらくして。
ゆっくり。
憲治の目が、
久保田の方を、向いた。
それだけで、
久保田の心臓は、跳ね上がった。
唇が、
わずかに、動く。
「……く……る……し……」
かすれた声。
「……くるしい……」
久保田は、立ち上がった。
「……ご……ごめんなさい……」
「……わざとじゃ……」
「……でも……量が……多かったかも……」
言いながら、
自分で、気づいていた。
(……認めている……)
(……録音されたら……終わりだ……)
だが、止まらない。
「……もう……許して……」
そのとき。
憲治の口角が、
ほんの、わずかに、上がった。
一瞬。
幻覚かと思うほど、微細な笑み。
そして、
枕元に置いてあった、
水のコップに、視線を移した。
意味ありげに。
久保田は、息を呑んだ。
「……水……?」
手が、震えながら、
コップを持つ。
(……飲ませろ……?)
(……それで……終わりに……?)
一歩、近づいたとき。
憲治の唇が、動く。
「……じ……ぶ……ん……で……」
その一言で、
久保田の理性が、崩れた。
(……自殺……?)
(……私に……見せたい……?)
(……いや……手伝え……と……?)
頭の中で、
最悪の想像が、連鎖する。
*
同じ頃。
廊下の奥。
佐伯は、モニター越しに、
二人を、見ていた。
盗聴ではない。
ただの、見守りカメラ。
だが、
空気は、十分、伝わる。
(……やっぱり……誘導している……)
(……だが……証拠が……)
そのとき。
久保田が、
コップを持ったまま、
立ち尽くした。
顔面蒼白。
汗だく。
震え。
佐伯は、
直感的に、悟った。
(……壊れる……)
*
病室。
久保田は、
コップを、床に、落とした。
ガシャン、と、割れる音。
「……無理だ……」
「……できない……」
その場に、崩れ落ちる。
「……警察に……言う……」
「……全部……」
憲治の目が、
静かに、細まった。
――失敗。
だが、
構わない。
医者は、もう、十分、割れている。
自白は、近い。
それより――
次は、
“自殺未遂”を、
本物に、仕立てる。
医師が、
「止めなかった」ことに、する。
天井を見つめながら、
憲治は、ゆっくり、瞬きをした。
次に、死ぬのは、
自分ではない。
医者の「社会」だ。
――続く。




