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『記録されなかった罪 ――桜ヶ丘苑連続事故事件』  作者: キロヒカ.オツマ―


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第27章 疑念という病巣

病院の廊下は、夜でも白かった。


無機質な灯り。

消毒液の匂い。

靴音だけが、やけに大きく響く。


佐伯は、集中治療室の前に立ち、

ガラス越しに、ベッドを見つめていた。


北尾憲治。


酸素マスク。

点滴。

心電図。


生きている。


だが――

「ほとんど死んでいた」と、医師は言った。


(……偶然、にしては……)



「薬剤性ショックの可能性が高いですね」


担当医が、カルテをめくりながら言う。


「処方は、施設の嘱託医・久保田先生のものです」


佐伯は、ゆっくり、うなずいた。


「投与量は?」


「高齢者としては……かなり強めです」


「致死量ではない?」


「単独なら、ほぼありえません」


佐伯は、視線を上げた。


「“単独なら”?」


医師は、言葉を選んだ。


「……複数の薬が重なって、相互作用を起こした可能性はあります」


「誰が、投与を?」


「施設の看護師です。記録上は」


記録。


また、それだ。



桜ヶ丘苑。


翌朝。


施設は、異様な静けさに包まれていた。


入居者には、何も説明されない。


掲示板には、ただ一行。


――北尾憲治、体調不良のため入院中。


それだけ。


だが、職員たちは、全員、知っている。


「……死にかけた……」


「……薬の事故らしい……」


噂は、廊下を、這うように広がっていた。



久保田修一は、診察室で、一人、座っていた。


机の上。


カルテ。

処方箋の写し。

県からの照会書。


指が、止まらない。


ペンを持っても、字が、歪む。


(……強すぎた……?)


自分は、慎重な医者だ。


認知症患者に、多少、多めに出すことはある。


だが――


あそこまで、急激に、落ちる量ではない。


(……誰かが、量を変えた……?)


その考えが浮かんだ瞬間、

背筋に、冷たいものが走った。


看護師。


新人。


夜勤。


だが。


記録には、

「指示通り」と、書いてある。


自分のサイン。


逃げ場は、ない。



午後。


佐伯は、施設を再訪した。


今度は、令状付き。


任意ではない。


ナースステーション。


記録室。


サーバー室。


すべて、開けさせる。


職員たちは、廊下に並ばされ、

一人ずつ、事情を聞かれる。


「北尾さんの投薬、誰が担当しましたか」


若い看護師が、青ざめた顔で答える。


「……わ、私です……」


「間違いは?」


「……い、いえ……ちゃんと……」


声が、震える。


「……一錠、落としましたけど……すぐ、補充して……」


佐伯のペンが、止まった。


「落とした?」


「は、はい……床に……」


「拾いましたか?」


「……いえ……時間なくて……」


沈黙。


佐伯は、顔を上げた。


「……その後、床は確認しましたか」


「……いいえ……」


(……一錠……消えた……)



夜。


病院。


憲治は、すでに、一般病棟に移されていた。


意識は、ほぼ清明。


だが、

話せない。

動けない。

「重度のまま」。


佐伯は、椅子に座り、

低い声で言った。


「……あなたの薬、一錠、消えていました」


沈黙。


「誰かが、拾ったか」


「あなたが、取ったか」


沈黙。


佐伯は、ぐっと、唇を噛んだ。


「……久保田医師、内部調査に入りました」


「処方ミスの可能性で」


「……あなたが生きているせいで、あの人は、終わる」


心電図の音。


ぴ……ぴ……ぴ……


憲治の指が、

シーツの下で、

ほんの、わずかに、動いた。


気づくのは、佐伯だけ。


(……やっぱり……)


佐伯は、声を、震わせた。


「……あなた……」


「……誰を……殺したいんですか……」


そのとき。


酸素マスクの奥で、

喉が、動いた。


かすれた、

ほとんど、空気だけの声。


「……せ……ん……せ……」


佐伯は、凍りついた。


医師。


久保田。


(……狙っている……)



同じ夜。


久保田は、自宅で、酒を飲んでいた。


珍しく、強い酒。


電話は、切っている。


机の上に、

県の調査通知。


施設からの謝罪文案。


どれも、

「責任は医師にある」文面だった。


(……切られる……)


そのとき。


スマートフォンが、震えた。


非通知。


一瞬、迷って、出る。


「……はい……」


低い、

老人の声。


「……せ……ん……せ……」


久保田は、息を呑んだ。


「……き……い……て……ま……す……」


電話は、切れた。


通話時間、五秒。


発信履歴、なし。


久保田は、立ち上がろうとして、

膝から、崩れ落ちた。


(……生きてる……)


(……しかも……話せた……?)



病室。


憲治は、目を閉じたまま、

ゆっくりと、息を吐いた。


――釣れた。


電話は、

看護師のPHSを、

一瞬だけ、借りただけ。


声は、

録音を、

ほんの一音、流しただけ。


「せんせ」。


それで、十分。


久保田は、もう、眠れない。


疑念。

恐怖。

罪悪感。


医者は、

自分の“失敗”に、

一番、弱い。


次は――


「追い込む」。


事故ではない。


薬でもない。


“自分の手で、死なせた”と、

信じ込ませる。


天井を見つめながら、

憲治は、静かに、次の処方を考え始めた。


今度は、

誰の手も、使わない。


自分の身体と、

医師の“心”だけで。


――続く。

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