第27章 疑念という病巣
病院の廊下は、夜でも白かった。
無機質な灯り。
消毒液の匂い。
靴音だけが、やけに大きく響く。
佐伯は、集中治療室の前に立ち、
ガラス越しに、ベッドを見つめていた。
北尾憲治。
酸素マスク。
点滴。
心電図。
生きている。
だが――
「ほとんど死んでいた」と、医師は言った。
(……偶然、にしては……)
*
「薬剤性ショックの可能性が高いですね」
担当医が、カルテをめくりながら言う。
「処方は、施設の嘱託医・久保田先生のものです」
佐伯は、ゆっくり、うなずいた。
「投与量は?」
「高齢者としては……かなり強めです」
「致死量ではない?」
「単独なら、ほぼありえません」
佐伯は、視線を上げた。
「“単独なら”?」
医師は、言葉を選んだ。
「……複数の薬が重なって、相互作用を起こした可能性はあります」
「誰が、投与を?」
「施設の看護師です。記録上は」
記録。
また、それだ。
*
桜ヶ丘苑。
翌朝。
施設は、異様な静けさに包まれていた。
入居者には、何も説明されない。
掲示板には、ただ一行。
――北尾憲治、体調不良のため入院中。
それだけ。
だが、職員たちは、全員、知っている。
「……死にかけた……」
「……薬の事故らしい……」
噂は、廊下を、這うように広がっていた。
*
久保田修一は、診察室で、一人、座っていた。
机の上。
カルテ。
処方箋の写し。
県からの照会書。
指が、止まらない。
ペンを持っても、字が、歪む。
(……強すぎた……?)
自分は、慎重な医者だ。
認知症患者に、多少、多めに出すことはある。
だが――
あそこまで、急激に、落ちる量ではない。
(……誰かが、量を変えた……?)
その考えが浮かんだ瞬間、
背筋に、冷たいものが走った。
看護師。
新人。
夜勤。
だが。
記録には、
「指示通り」と、書いてある。
自分のサイン。
逃げ場は、ない。
*
午後。
佐伯は、施設を再訪した。
今度は、令状付き。
任意ではない。
ナースステーション。
記録室。
サーバー室。
すべて、開けさせる。
職員たちは、廊下に並ばされ、
一人ずつ、事情を聞かれる。
「北尾さんの投薬、誰が担当しましたか」
若い看護師が、青ざめた顔で答える。
「……わ、私です……」
「間違いは?」
「……い、いえ……ちゃんと……」
声が、震える。
「……一錠、落としましたけど……すぐ、補充して……」
佐伯のペンが、止まった。
「落とした?」
「は、はい……床に……」
「拾いましたか?」
「……いえ……時間なくて……」
沈黙。
佐伯は、顔を上げた。
「……その後、床は確認しましたか」
「……いいえ……」
(……一錠……消えた……)
*
夜。
病院。
憲治は、すでに、一般病棟に移されていた。
意識は、ほぼ清明。
だが、
話せない。
動けない。
「重度のまま」。
佐伯は、椅子に座り、
低い声で言った。
「……あなたの薬、一錠、消えていました」
沈黙。
「誰かが、拾ったか」
「あなたが、取ったか」
沈黙。
佐伯は、ぐっと、唇を噛んだ。
「……久保田医師、内部調査に入りました」
「処方ミスの可能性で」
「……あなたが生きているせいで、あの人は、終わる」
心電図の音。
ぴ……ぴ……ぴ……
憲治の指が、
シーツの下で、
ほんの、わずかに、動いた。
気づくのは、佐伯だけ。
(……やっぱり……)
佐伯は、声を、震わせた。
「……あなた……」
「……誰を……殺したいんですか……」
そのとき。
酸素マスクの奥で、
喉が、動いた。
かすれた、
ほとんど、空気だけの声。
「……せ……ん……せ……」
佐伯は、凍りついた。
医師。
久保田。
(……狙っている……)
*
同じ夜。
久保田は、自宅で、酒を飲んでいた。
珍しく、強い酒。
電話は、切っている。
机の上に、
県の調査通知。
施設からの謝罪文案。
どれも、
「責任は医師にある」文面だった。
(……切られる……)
そのとき。
スマートフォンが、震えた。
非通知。
一瞬、迷って、出る。
「……はい……」
低い、
老人の声。
「……せ……ん……せ……」
久保田は、息を呑んだ。
「……き……い……て……ま……す……」
電話は、切れた。
通話時間、五秒。
発信履歴、なし。
久保田は、立ち上がろうとして、
膝から、崩れ落ちた。
(……生きてる……)
(……しかも……話せた……?)
*
病室。
憲治は、目を閉じたまま、
ゆっくりと、息を吐いた。
――釣れた。
電話は、
看護師のPHSを、
一瞬だけ、借りただけ。
声は、
録音を、
ほんの一音、流しただけ。
「せんせ」。
それで、十分。
久保田は、もう、眠れない。
疑念。
恐怖。
罪悪感。
医者は、
自分の“失敗”に、
一番、弱い。
次は――
「追い込む」。
事故ではない。
薬でもない。
“自分の手で、死なせた”と、
信じ込ませる。
天井を見つめながら、
憲治は、静かに、次の処方を考え始めた。
今度は、
誰の手も、使わない。
自分の身体と、
医師の“心”だけで。
――続く。




