表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『記録されなかった罪 ――桜ヶ丘苑連続事故事件』  作者: キロヒカ.オツマ―


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

26/37

第26章 処方という名の刃

朝の回診は、九時きっかりに始まる。


時計の針が、九を指すと、

白衣の列が、二階病棟の廊下に現れる。


主治医・久保田修一。


五十代後半。

温厚そうな顔。

県内でも評判の「高齢者医療の専門医」。


――そして。


北尾憲治を、

「重度の認知症」に、確定させた男。



憲治は、ベッドに横たわり、

天井の蛍光灯を、ぼんやりと眺めていた。


(……来たな)


足音。


白衣の擦れる音。


看護師が、カルテを持ち、

久保田が、彼の横に立つ。


「北尾さん、どうですか、最近」


優しい声。


誰にでも、同じ声。


脈。

瞳孔。

胸の音。


形式的な診察。


「……夜間せん妄は、少し落ち着いていますね」


看護師が答える。


「睡眠薬、前回より増量しています」


久保田は、軽くうなずいた。


「うん、それでいいでしょう」


カルテに、さらさらと書き込む。


憲治は、目を半開きにし、

わざと、舌をもつれさせた。


「……あ……う……く……」


久保田は、微笑んだ。


「無理に話さなくていいですよ」


その指が、

カルテの「処方欄」に、止まる。


抗精神病薬。

睡眠導入剤。

血圧降下剤。


三種類。


(……相変わらず、出しすぎだ)


だが――


それでいい。


むしろ、

「それ」が、必要だった。



回診が終わったあと。


憲治は、ゆっくりと、考え始める。


久保田は、慎重な医者だ。


簡単な投薬ミスなど、しない。


だが。


この施設では――


・記録は、改ざんされる

・看護師は、疲弊している

・医師は、毎日は来ない


そして何より。


「認知症患者の異変」は、

ほとんど、誰も、正確に把握しない。


眠っているのか。

意識がないのか。

副作用か。

老衰か。


すべて、

“よくあること”で、片づけられる。


(……殺す必要は、ない)


(……“殺したように、させればいい”)



午後。


看護師が、薬カートを押してきた。


夕方の投薬準備。


憲治のベッドの横で、

一瞬、手元が、止まる。


新人。


顔色が悪い。


震える手で、錠剤を分けている。


(……いい……)


憲治は、わざと、咳き込み、

身体を、ぐらりと揺らした。


「……げほ……」


「あっ……す、すみません……!」


新人は、慌てて、トレーを支える。


その瞬間。


小さな、白い錠剤が、

一粒、床に落ちた。


誰も、気づかない。


新人は、別の錠剤を、

急いで補充し、配薬を続けた。


憲治は、視線だけで、

床のその一点を、覚えた。


(……これで、一つ)



夜。


消灯後。


巡回の足音が、遠ざかった頃。


憲治は、ゆっくりと、身体を起こした。


誰にも、見られない角度。


ベッドの柵の影。


昼に落ちた錠剤は、

まだ、そこにあった。


彼は、指先で、それを拾い上げ、

掌の中で、砕いた。


粉。


白い、細かい粉。


匂いを、確かめる。


――睡眠薬。


(……弱いな)


だが、

「単独」で使う気は、ない。



翌日。


久保田が、再び来た。


今度は、施設長と一緒に。


家宅捜索の影響で、

医師にも、事情聴取が入っている。


「最近、患者の容体変動が多いですね」


施設長が、探るように言う。


「高齢ですから」


久保田は、即答した。


「薬の調整で、対応できます」


その言葉。


その“調整”。


憲治の胸の奥で、

静かに、扉が開いた。


(……それだ)



数日後。


新しい処方が出た。


睡眠薬、増量。


抗精神病薬、変更。


そして――


血圧の薬が、一種類、追加された。


副作用。


「起立性低血圧」

「意識障害」

「不整脈」


(……十分だ)



事故は、

三日後の夜、起きた。


当直医のいない夜。


看護師は、二人だけ。


久保田は、家で、テレビを見ていた。



深夜二時。


ナースコール。


――四号室、転倒。


駆けつけたとき、

憲治は、床に横たわっていた。


意識、混濁。


脈、微弱。


血圧、測定不能。


「……さっき、薬飲んだばかりなのに……」


看護師が、震える声で言う。


救急要請。


搬送。


心電図、異常。


医師の診断。


「……急性の循環不全……薬の影響も、考えられます」


誰も、口にしなかった。


“処方医の名前”を。



翌朝。


県警の佐伯は、病院から、連絡を受けた。


「桜ヶ丘苑の利用者が、重篤で……薬剤性の可能性が……」


彼女の脳裏に、

一つの名前が、浮かぶ。


――北尾憲治。


急いで、病院へ向かう。



集中治療室。


ベッドの上。


酸素マスク。


心電図の音。


ぴ、……ぴ、……ぴ……


佐伯は、カーテンの横で、

低く、囁いた。


「……あなた……やったんですか」


反応は、ない。


だが。


心電図の波形が、

一瞬だけ、乱れた。


ほんの、一拍。


(……生きている……意識がある……)


佐伯は、背筋が、凍る。


そのとき。


医師が、入ってきた。


白衣。


名札。


――久保田修一。


「……ああ、この患者さん……」


カルテを見て、

眉をひそめる。


「処方、少し強すぎたかもしれませんね」


その一言で。


すべてが、

“医療事故”に、決まった。



夜。


ICUの灯りの下。


憲治は、静かに、意識を戻していた。


殺す気は、なかった。


まだ。


これは、

「刃の切れ味」を、

確かめただけ。


久保田は、もう、逃げられない。


自分の処方で、

患者を、殺しかけた。


記録は、残る。


疑念は、残る。


そして――


次は、

“完全な量”を、使う。


天井を見つめながら、

憲治は、ゆっくりと、笑った。


医者は、

人を、治す。


そして――


一番、

「上手に殺せる」職業でもある。


――続く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ