第26章 処方という名の刃
朝の回診は、九時きっかりに始まる。
時計の針が、九を指すと、
白衣の列が、二階病棟の廊下に現れる。
主治医・久保田修一。
五十代後半。
温厚そうな顔。
県内でも評判の「高齢者医療の専門医」。
――そして。
北尾憲治を、
「重度の認知症」に、確定させた男。
*
憲治は、ベッドに横たわり、
天井の蛍光灯を、ぼんやりと眺めていた。
(……来たな)
足音。
白衣の擦れる音。
看護師が、カルテを持ち、
久保田が、彼の横に立つ。
「北尾さん、どうですか、最近」
優しい声。
誰にでも、同じ声。
脈。
瞳孔。
胸の音。
形式的な診察。
「……夜間せん妄は、少し落ち着いていますね」
看護師が答える。
「睡眠薬、前回より増量しています」
久保田は、軽くうなずいた。
「うん、それでいいでしょう」
カルテに、さらさらと書き込む。
憲治は、目を半開きにし、
わざと、舌をもつれさせた。
「……あ……う……く……」
久保田は、微笑んだ。
「無理に話さなくていいですよ」
その指が、
カルテの「処方欄」に、止まる。
抗精神病薬。
睡眠導入剤。
血圧降下剤。
三種類。
(……相変わらず、出しすぎだ)
だが――
それでいい。
むしろ、
「それ」が、必要だった。
*
回診が終わったあと。
憲治は、ゆっくりと、考え始める。
久保田は、慎重な医者だ。
簡単な投薬ミスなど、しない。
だが。
この施設では――
・記録は、改ざんされる
・看護師は、疲弊している
・医師は、毎日は来ない
そして何より。
「認知症患者の異変」は、
ほとんど、誰も、正確に把握しない。
眠っているのか。
意識がないのか。
副作用か。
老衰か。
すべて、
“よくあること”で、片づけられる。
(……殺す必要は、ない)
(……“殺したように、させればいい”)
*
午後。
看護師が、薬カートを押してきた。
夕方の投薬準備。
憲治のベッドの横で、
一瞬、手元が、止まる。
新人。
顔色が悪い。
震える手で、錠剤を分けている。
(……いい……)
憲治は、わざと、咳き込み、
身体を、ぐらりと揺らした。
「……げほ……」
「あっ……す、すみません……!」
新人は、慌てて、トレーを支える。
その瞬間。
小さな、白い錠剤が、
一粒、床に落ちた。
誰も、気づかない。
新人は、別の錠剤を、
急いで補充し、配薬を続けた。
憲治は、視線だけで、
床のその一点を、覚えた。
(……これで、一つ)
*
夜。
消灯後。
巡回の足音が、遠ざかった頃。
憲治は、ゆっくりと、身体を起こした。
誰にも、見られない角度。
ベッドの柵の影。
昼に落ちた錠剤は、
まだ、そこにあった。
彼は、指先で、それを拾い上げ、
掌の中で、砕いた。
粉。
白い、細かい粉。
匂いを、確かめる。
――睡眠薬。
(……弱いな)
だが、
「単独」で使う気は、ない。
*
翌日。
久保田が、再び来た。
今度は、施設長と一緒に。
家宅捜索の影響で、
医師にも、事情聴取が入っている。
「最近、患者の容体変動が多いですね」
施設長が、探るように言う。
「高齢ですから」
久保田は、即答した。
「薬の調整で、対応できます」
その言葉。
その“調整”。
憲治の胸の奥で、
静かに、扉が開いた。
(……それだ)
*
数日後。
新しい処方が出た。
睡眠薬、増量。
抗精神病薬、変更。
そして――
血圧の薬が、一種類、追加された。
副作用。
「起立性低血圧」
「意識障害」
「不整脈」
(……十分だ)
*
事故は、
三日後の夜、起きた。
当直医のいない夜。
看護師は、二人だけ。
久保田は、家で、テレビを見ていた。
*
深夜二時。
ナースコール。
――四号室、転倒。
駆けつけたとき、
憲治は、床に横たわっていた。
意識、混濁。
脈、微弱。
血圧、測定不能。
「……さっき、薬飲んだばかりなのに……」
看護師が、震える声で言う。
救急要請。
搬送。
心電図、異常。
医師の診断。
「……急性の循環不全……薬の影響も、考えられます」
誰も、口にしなかった。
“処方医の名前”を。
*
翌朝。
県警の佐伯は、病院から、連絡を受けた。
「桜ヶ丘苑の利用者が、重篤で……薬剤性の可能性が……」
彼女の脳裏に、
一つの名前が、浮かぶ。
――北尾憲治。
急いで、病院へ向かう。
*
集中治療室。
ベッドの上。
酸素マスク。
心電図の音。
ぴ、……ぴ、……ぴ……
佐伯は、カーテンの横で、
低く、囁いた。
「……あなた……やったんですか」
反応は、ない。
だが。
心電図の波形が、
一瞬だけ、乱れた。
ほんの、一拍。
(……生きている……意識がある……)
佐伯は、背筋が、凍る。
そのとき。
医師が、入ってきた。
白衣。
名札。
――久保田修一。
「……ああ、この患者さん……」
カルテを見て、
眉をひそめる。
「処方、少し強すぎたかもしれませんね」
その一言で。
すべてが、
“医療事故”に、決まった。
*
夜。
ICUの灯りの下。
憲治は、静かに、意識を戻していた。
殺す気は、なかった。
まだ。
これは、
「刃の切れ味」を、
確かめただけ。
久保田は、もう、逃げられない。
自分の処方で、
患者を、殺しかけた。
記録は、残る。
疑念は、残る。
そして――
次は、
“完全な量”を、使う。
天井を見つめながら、
憲治は、ゆっくりと、笑った。
医者は、
人を、治す。
そして――
一番、
「上手に殺せる」職業でもある。
――続く。




