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『記録されなかった罪 ――桜ヶ丘苑連続事故事件』  作者: キロヒカ.オツマ―


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第25章 沈黙の証言

雨が降っていた。


細かく、長く、音もなく、

桜ヶ丘苑の屋根を、じわじわと叩いている。


夜勤帯。

廊下は暗く、足音だけが、異様に響く。


ナースステーションの奥で、

看護師長・村瀬は、一人で机に向かっていた。


机の上には、三つの封筒。


――事故報告書。

――県への提出用記録。

――内部用の修正済みカルテ。


どれも、同じ日付。

だが、内容は、微妙に違っている。


彼女の指は、震えていた。


(……もう、無理……)


施設長が、いない。


あの男が捕まった朝から、

職員たちの視線が、変わった。


誰も、口には出さない。


だが、

「次は、誰か」


それだけが、空気に漂っている。



午後十時すぎ。


村瀬は、誰にも告げず、二階病棟を回っていた。


懐中電灯。

鍵束。

カルテの束。


逃げる準備だった。


今夜、すべてを、捨てて帰る。


念書。

メモ。

USB。


証拠になりそうなものは、

すべて、ロッカーから抜き取った。


最後に――


北尾憲治の病室。


なぜか、

どうしても、そこだけ、素通りできなかった。


(……あの老人……)


理由は、わからない。


ただ、

あの目だけが、

ずっと、脳裏に残っている。


カーテンを、そっと、開ける。


ベッドの上。


憲治は、目を閉じ、

口を開けたまま、眠っている。


いつも通り。


腐った、無力な、

何もわからない、老人。


――の、はずだった。


村瀬は、近づき、

小さく、囁いた。


「……あなた……何、見てたの……?」


返事は、ない。


心臓の音だけが、

耳の奥で、うるさく鳴る。


彼女は、衝動的に、

彼の手首を、つかんだ。


冷たい。


脈は、弱い。


だが。


その瞬間。


――ぎゅ。


指が、

彼女の手首を、

はっきりと、握り返した。


力は、弱い。


だが、

「反射」ではない。


はっきりと、

“掴もうとした動き”。


村瀬は、声にならない悲鳴をあげ、

手を振りほどいた。


後ずさる。


「……い、今の……?」


ベッドの上の老人は、

もう、元の無表情に戻っている。


目は、閉じたまま。


口も、半開き。


ただ――


口角だけが、

ほんの、ほんの少し、

上がっているように、見えた。



その夜。


村瀬は、逃げなかった。


逃げられなかった。


部屋に戻り、

ロッカーに、証拠を戻し、

何事もなかった顔で、夜勤を続けた。


――「見られている」。


その感覚が、

背中から、離れなかった。



翌朝。


県警本部。


佐伯は、一通の封筒を、受け取った。


差出人、なし。


中には――


コピーされた、事故修正前のカルテ。


石田奈緒のメモの、写し。


そして、一枚の紙。


震える字で、こう書かれていた。


『北尾憲治の部屋を、調べてください』


佐伯は、しばらく、その文字を見つめていた。


(……内部告発……)


だが、

なぜ、名指しで、

“あの老人”なのか。



同じ日、午後。


桜ヶ丘苑に、家宅捜索が入った。


県警と、監査。


職員は、全員、廊下に並ばされる。


ロッカー。

記録室。

サーバー。


すべて、押さえられていく。


村瀬は、顔面蒼白で、壁にもたれていた。


――自分が、送った。


――だが、

なぜか、

助かった気が、しなかった。


むしろ――


「……終わった……」


何か、

もっと、ひどいことが、

始まる気がしていた。



夕方。


佐伯は、再び、憲治の病室を訪れた。


今度は、一人。


カメラも、録音も、使わない。


椅子に座り、

低い声で言った。


「……内部から、あなたの名前が出ました」


沈黙。


「事故。誤嚥死。記録改ざん」


「……全部、あなたの周りで起きている」


沈黙。


佐伯は、じっと、顔を見つめる。


「……もし、わかっているなら……」


「今、瞬き、二回してください」


何も、起きない。


十秒。


二十秒。


諦めかけた、そのとき。


――一回。


――間。


――二回。


ゆっくりと。


はっきりと。


瞬き。


佐伯の呼吸が、止まる。


「……やっぱり……」


憲治の目は、開かない。


だが。


喉の奥から、

かすかな、

言葉とも息ともつかない音が、漏れた。


「……お……そ……」


遅い。


佐伯は、凍りついた。


老人は、もう、何も動かない。


いつもの、

壊れた人形に、戻っている。



夜。


憲治は、ひとり、天井を見つめていた。


村瀬は、

自分から、口を開いた。


警察は、

もう、逃げられない。


そして――


刑事は、

「気づいた」。


(……でも……)


まだ、証拠は、ない。


自分は、まだ、

「被害者」でいられる。


次に壊すのは――


「医師」。


自分を、

この身体に、

閉じ込めた男。


事故ではなく。


記録でもなく。


もっと、

「静かで、確実な方法」で。


誰にも、

気づかれないまま。


彼の口が、

わずかに、動いた。


音のない声。


――やっと、始まった。


――続く。

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