第25章 沈黙の証言
雨が降っていた。
細かく、長く、音もなく、
桜ヶ丘苑の屋根を、じわじわと叩いている。
夜勤帯。
廊下は暗く、足音だけが、異様に響く。
ナースステーションの奥で、
看護師長・村瀬は、一人で机に向かっていた。
机の上には、三つの封筒。
――事故報告書。
――県への提出用記録。
――内部用の修正済みカルテ。
どれも、同じ日付。
だが、内容は、微妙に違っている。
彼女の指は、震えていた。
(……もう、無理……)
施設長が、いない。
あの男が捕まった朝から、
職員たちの視線が、変わった。
誰も、口には出さない。
だが、
「次は、誰か」
それだけが、空気に漂っている。
*
午後十時すぎ。
村瀬は、誰にも告げず、二階病棟を回っていた。
懐中電灯。
鍵束。
カルテの束。
逃げる準備だった。
今夜、すべてを、捨てて帰る。
念書。
メモ。
USB。
証拠になりそうなものは、
すべて、ロッカーから抜き取った。
最後に――
北尾憲治の病室。
なぜか、
どうしても、そこだけ、素通りできなかった。
(……あの老人……)
理由は、わからない。
ただ、
あの目だけが、
ずっと、脳裏に残っている。
カーテンを、そっと、開ける。
ベッドの上。
憲治は、目を閉じ、
口を開けたまま、眠っている。
いつも通り。
腐った、無力な、
何もわからない、老人。
――の、はずだった。
村瀬は、近づき、
小さく、囁いた。
「……あなた……何、見てたの……?」
返事は、ない。
心臓の音だけが、
耳の奥で、うるさく鳴る。
彼女は、衝動的に、
彼の手首を、つかんだ。
冷たい。
脈は、弱い。
だが。
その瞬間。
――ぎゅ。
指が、
彼女の手首を、
はっきりと、握り返した。
力は、弱い。
だが、
「反射」ではない。
はっきりと、
“掴もうとした動き”。
村瀬は、声にならない悲鳴をあげ、
手を振りほどいた。
後ずさる。
「……い、今の……?」
ベッドの上の老人は、
もう、元の無表情に戻っている。
目は、閉じたまま。
口も、半開き。
ただ――
口角だけが、
ほんの、ほんの少し、
上がっているように、見えた。
*
その夜。
村瀬は、逃げなかった。
逃げられなかった。
部屋に戻り、
ロッカーに、証拠を戻し、
何事もなかった顔で、夜勤を続けた。
――「見られている」。
その感覚が、
背中から、離れなかった。
*
翌朝。
県警本部。
佐伯は、一通の封筒を、受け取った。
差出人、なし。
中には――
コピーされた、事故修正前のカルテ。
石田奈緒のメモの、写し。
そして、一枚の紙。
震える字で、こう書かれていた。
『北尾憲治の部屋を、調べてください』
佐伯は、しばらく、その文字を見つめていた。
(……内部告発……)
だが、
なぜ、名指しで、
“あの老人”なのか。
*
同じ日、午後。
桜ヶ丘苑に、家宅捜索が入った。
県警と、監査。
職員は、全員、廊下に並ばされる。
ロッカー。
記録室。
サーバー。
すべて、押さえられていく。
村瀬は、顔面蒼白で、壁にもたれていた。
――自分が、送った。
――だが、
なぜか、
助かった気が、しなかった。
むしろ――
「……終わった……」
何か、
もっと、ひどいことが、
始まる気がしていた。
*
夕方。
佐伯は、再び、憲治の病室を訪れた。
今度は、一人。
カメラも、録音も、使わない。
椅子に座り、
低い声で言った。
「……内部から、あなたの名前が出ました」
沈黙。
「事故。誤嚥死。記録改ざん」
「……全部、あなたの周りで起きている」
沈黙。
佐伯は、じっと、顔を見つめる。
「……もし、わかっているなら……」
「今、瞬き、二回してください」
何も、起きない。
十秒。
二十秒。
諦めかけた、そのとき。
――一回。
――間。
――二回。
ゆっくりと。
はっきりと。
瞬き。
佐伯の呼吸が、止まる。
「……やっぱり……」
憲治の目は、開かない。
だが。
喉の奥から、
かすかな、
言葉とも息ともつかない音が、漏れた。
「……お……そ……」
遅い。
佐伯は、凍りついた。
老人は、もう、何も動かない。
いつもの、
壊れた人形に、戻っている。
*
夜。
憲治は、ひとり、天井を見つめていた。
村瀬は、
自分から、口を開いた。
警察は、
もう、逃げられない。
そして――
刑事は、
「気づいた」。
(……でも……)
まだ、証拠は、ない。
自分は、まだ、
「被害者」でいられる。
次に壊すのは――
「医師」。
自分を、
この身体に、
閉じ込めた男。
事故ではなく。
記録でもなく。
もっと、
「静かで、確実な方法」で。
誰にも、
気づかれないまま。
彼の口が、
わずかに、動いた。
音のない声。
――やっと、始まった。
――続く。




