第23章 管理者の部屋
施設長・三浦健一は、その夜も、自室のソファで一人、酒を飲んでいた。
六十二歳。
この施設に来て、十五年。
「事故」は、何度も経験してきた。
骨折。誤嚥。転落。急変。
だが今回は、違う。
警察。
鑑識。
告発。
そして――
「北尾憲治」。
あの、ほとんど言葉も話さない老人。
なぜか、頭から離れない。
*
机の上には、古い書類の山が積まれている。
事故報告書。
家族説明文。
再発防止策。
すべて、同じ文言。
――不可抗力。
――高齢による転倒。
――職員に過失なし。
それで、ここまで来た。
(三十年、守ってきたんだ……)
施設を。
自分の地位を。
そして――
「組織」を。
*
ノック。
「……誰だ」
「夜勤です。少し、確認を」
副施設長の声。
三浦は、舌打ちしながら立ち上がった。
「今は忙しい」
「警察から、追加の資料請求が……」
その言葉で、空気が変わる。
「……入れ」
*
副施設長は、顔色が悪かった。
「防犯カメラのバックアップ、県警が持っていきました」
「……どこの分だ」
「リハビリ室前と、階段横……」
三浦の手が、止まる。
(……階段……)
田島の事故の、あの階段。
「……壊れてたはずだろ」
「形式上は……でも、サーバー側に、断片が……」
三浦は、グラスを机に置いた。
「……石田は、何を話した」
「……職員の暴言、身体拘束、記録改ざん……それと……」
副施設長は、言葉を詰まらせた。
「……“特定の利用者に対する、繰り返しの虐待”……」
「誰だ」
「……北尾憲治です……」
一瞬、頭が白くなる。
あの、動かない老人。
あの、何もわからないはずの男。
(三人とも……田島も、誤嚥死も、全部、あいつの病棟だ……)
偶然か?
それとも――
*
深夜一時。
三浦は、確認のため、病棟を回った。
夜勤の職員は、疲れ切った顔で、淡々と業務をしている。
北尾憲治の病室の前で、足を止める。
ドアは、半開き。
中は、暗い。
ベッドの上で、老人が、静かに横たわっている。
人工呼吸器も、点滴もない。
ただの、寝たきりの老人。
(三ヶ月前から、ここにいる……)
何も、起きていない。
何も、していない。
はずだ。
*
三浦は、そっと、部屋に入った。
足音を殺し、ベッドの横に立つ。
老人の顔は、しわだらけで、口はわずかに開いている。
呼吸は浅く、不規則。
「……北尾さん……」
小さく、声をかける。
反応はない。
(……やはり、ただの認知症だ……)
安堵が、胸に広がる。
そのとき。
老人の指が、
わずかに、動いた。
毛布の端を、
“正確に”、つまむ。
一瞬。
ほんの、一瞬。
だが――
三浦の目は、それを、はっきり見た。
(……今のは……)
老人の目は、閉じたまま。
だが、口元が――
ほんのわずか、歪んだように、見えた。
錯覚か。
酒のせいか。
三浦は、急に、寒気を覚えた。
*
翌朝。
施設長室に、一本の電話が入った。
「……県警ですが。三浦施設長、少し、お時間を」
「……はい……」
「“昨夜の巡回”について、確認したいことがあります」
心臓が、強く打つ。
「……巡回……?」
「はい。午前一時二十分頃、あなた、病棟に入ってますね」
――防犯カメラ。
壊れていたはずの。
いや、
“壊れていたことにしていた”だけの。
「……あ、あれは……」
「北尾憲治さんの部屋に、入ってます」
沈黙。
女刑事の声が、続く。
「……何を、しに行ったんですか?」
*
その頃。
病室。
憲治は、目を閉じたまま、静かに考えていた。
――施設長、夜間侵入。
――防犯記録、復活。
――刑事、接触。
すべて、予定より、少し早い。
だが、問題ない。
むしろ――
(……“触らせた”のは、正解だった)
夜中、
わざと、指を動かした。
わざと、気づかせた。
恐怖は、証言を狂わせる。
焦った管理者ほど、
自分で、墓穴を掘る。
次は――
「事故」ではない。
「事件」に、してやる。
施設長は、
逃げ場のない場所で、
必ず、証拠を残す。
それが――
“管理責任”という名の、処刑だった。




