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沈黙の檻  作者: キロヒカ.オツマ―


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第22章 沈黙の鑑定

施設に、白いワゴン車が止まったのは、午前九時を少し過ぎた頃だった。


側面には、小さく「県警鑑識課」と書かれている。


誰も大声を出さなかった。

だが、その場にいた職員全員が、一斉に動きを止めた。


廊下の空気が、目に見えて重くなる。


(……来たか)


憲治は、ベッドに横になったまま、天井の染みを見つめていた。


予定より、三日早い。


だが、遅すぎもしない。



最初に呼ばれたのは、看護師長だった。


施設長室のドアが閉まる。


中から、低い声と、紙をめくる音が、断続的に聞こえてくる。


四十分。


出てきたとき、彼女の顔色は、はっきりと変わっていた。


唇が乾き、視線が定まらない。


誰とも目を合わせず、ナースステーションへ戻っていく。


(……防犯記録を、出させたな)


鑑識が来た理由は、一つしかない。


田島の事故。

誤嚥死。

石田の告発。


それらが、一本の線になり始めている。



次に呼ばれたのは、夜勤主任。


その次は、介護士二人。


そして――


「北尾憲治さん、お願いします」


ついに、彼の名前が呼ばれた。


車椅子を押す若い職員の手が、わずかに震えている。


面会室の奥、簡易的に仕切られた一角。


そこに、女刑事が座っていた。


最初に来た、あの目の鋭い女だ。


机の上には、録音機と、分厚いファイル。


「……こんにちは、北尾さん」


優しい声。


だが、視線は、逃がさない。


「今日は、簡単な確認だけです」


憲治は、ゆっくりと首を傾け、口を半開きにした。


「……う……」


「大丈夫。難しいことは聞きません」


彼女は、ファイルを一枚開いた。


「田島さんが転倒した日、あなた、リハビリ室の近くにいましたね」


憲治は、意味のない声を出しながら、天井を見上げた。


「……あー……」


沈黙。


女刑事は、次の紙をめくる。


「この日、石田さんと話しましたか?」


返事はしない。


ただ、指先が、毛布の縁を、ゆっくりとなぞった。


(……観察している)


彼女は、質問を変えた。


「ご家族のこと、覚えていますか?」


その瞬間。


ほんの一瞬だけ、

憲治の視線が、彼女の顔に、正確に戻った。


一秒にも満たない。


だが――


女刑事の眉が、わずかに動いた。


(……気づいたな)


「……あー……うー……」


すぐに、視線を逸らす。


だが、もう遅い。


彼女は、確実に、何かを見た。



鑑定医が入ってきたのは、その十分後だった。


白衣の男。


五十代半ば。

県警嘱託の精神科医。


「北尾さん、少し、検査をしますね」


簡単な質問。


自分の名前。

年齢。

今日は何月か。


すべて、わざと外す。


「……な……まえ……わから……」


計算問題。


時計の絵。


三語記憶。


すべて、失敗したふりをする。


だが、医師は、途中で、質問を変えた。


「……じゃあ、これは?」


紙に、簡単な文章を書く。


――「私は昨日、階段で転びました」


「読めますか?」


憲治は、しばらく紙を見つめ、ゆっくりと口を動かした。


「……き……の……」


そこで、止めた。


女刑事が、無言で、その様子を見ている。


医師は、頷いた。


「重度認知症相当。意思疎通困難」


形式的な言葉。


だが、最後に、医師は、こう付け加えた。


「……ただし、瞬間的な反応に、軽い保持能力が見られます。経過観察が必要です」


女刑事のペンが、止まった。


(……十分だ)


完全に疑われる必要はない。


「可能性」だけ、残せばいい。



その夜。


施設長室で、緊急会議が開かれた。


防犯カメラ。

事故記録。

勤務表。


次々に、提出を求められている。


看護師長は、震える声で言った。


「……あの老人……本当に、何もわかってないんですよね……?」


誰も、答えなかった。



深夜。


消灯後、女刑事が、一人で廊下を歩いていた。


憲治の病室の前で、足を止める。


静かに、覗く。


ベッドの上で、老人は、目を閉じて眠っている。


呼吸は、不規則で、弱々しい。


完全な、要介護の老人。


彼女は、小さく息を吐いた。


「……考えすぎか……」


そのまま、立ち去る。


だが――


彼女が角を曲がった瞬間。


憲治の目が、ゆっくりと開いた。


闇の中で、天井を見つめながら、静かに、指を動かす。


(……次は、施設長だ)


組織の心臓。


逃げ場のない場所で。


ここからが、本番だった。

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