第22章 沈黙の鑑定
施設に、白いワゴン車が止まったのは、午前九時を少し過ぎた頃だった。
側面には、小さく「県警鑑識課」と書かれている。
誰も大声を出さなかった。
だが、その場にいた職員全員が、一斉に動きを止めた。
廊下の空気が、目に見えて重くなる。
(……来たか)
憲治は、ベッドに横になったまま、天井の染みを見つめていた。
予定より、三日早い。
だが、遅すぎもしない。
*
最初に呼ばれたのは、看護師長だった。
施設長室のドアが閉まる。
中から、低い声と、紙をめくる音が、断続的に聞こえてくる。
四十分。
出てきたとき、彼女の顔色は、はっきりと変わっていた。
唇が乾き、視線が定まらない。
誰とも目を合わせず、ナースステーションへ戻っていく。
(……防犯記録を、出させたな)
鑑識が来た理由は、一つしかない。
田島の事故。
誤嚥死。
石田の告発。
それらが、一本の線になり始めている。
*
次に呼ばれたのは、夜勤主任。
その次は、介護士二人。
そして――
「北尾憲治さん、お願いします」
ついに、彼の名前が呼ばれた。
車椅子を押す若い職員の手が、わずかに震えている。
面会室の奥、簡易的に仕切られた一角。
そこに、女刑事が座っていた。
最初に来た、あの目の鋭い女だ。
机の上には、録音機と、分厚いファイル。
「……こんにちは、北尾さん」
優しい声。
だが、視線は、逃がさない。
「今日は、簡単な確認だけです」
憲治は、ゆっくりと首を傾け、口を半開きにした。
「……う……」
「大丈夫。難しいことは聞きません」
彼女は、ファイルを一枚開いた。
「田島さんが転倒した日、あなた、リハビリ室の近くにいましたね」
憲治は、意味のない声を出しながら、天井を見上げた。
「……あー……」
沈黙。
女刑事は、次の紙をめくる。
「この日、石田さんと話しましたか?」
返事はしない。
ただ、指先が、毛布の縁を、ゆっくりとなぞった。
(……観察している)
彼女は、質問を変えた。
「ご家族のこと、覚えていますか?」
その瞬間。
ほんの一瞬だけ、
憲治の視線が、彼女の顔に、正確に戻った。
一秒にも満たない。
だが――
女刑事の眉が、わずかに動いた。
(……気づいたな)
「……あー……うー……」
すぐに、視線を逸らす。
だが、もう遅い。
彼女は、確実に、何かを見た。
*
鑑定医が入ってきたのは、その十分後だった。
白衣の男。
五十代半ば。
県警嘱託の精神科医。
「北尾さん、少し、検査をしますね」
簡単な質問。
自分の名前。
年齢。
今日は何月か。
すべて、わざと外す。
「……な……まえ……わから……」
計算問題。
時計の絵。
三語記憶。
すべて、失敗したふりをする。
だが、医師は、途中で、質問を変えた。
「……じゃあ、これは?」
紙に、簡単な文章を書く。
――「私は昨日、階段で転びました」
「読めますか?」
憲治は、しばらく紙を見つめ、ゆっくりと口を動かした。
「……き……の……」
そこで、止めた。
女刑事が、無言で、その様子を見ている。
医師は、頷いた。
「重度認知症相当。意思疎通困難」
形式的な言葉。
だが、最後に、医師は、こう付け加えた。
「……ただし、瞬間的な反応に、軽い保持能力が見られます。経過観察が必要です」
女刑事のペンが、止まった。
(……十分だ)
完全に疑われる必要はない。
「可能性」だけ、残せばいい。
*
その夜。
施設長室で、緊急会議が開かれた。
防犯カメラ。
事故記録。
勤務表。
次々に、提出を求められている。
看護師長は、震える声で言った。
「……あの老人……本当に、何もわかってないんですよね……?」
誰も、答えなかった。
*
深夜。
消灯後、女刑事が、一人で廊下を歩いていた。
憲治の病室の前で、足を止める。
静かに、覗く。
ベッドの上で、老人は、目を閉じて眠っている。
呼吸は、不規則で、弱々しい。
完全な、要介護の老人。
彼女は、小さく息を吐いた。
「……考えすぎか……」
そのまま、立ち去る。
だが――
彼女が角を曲がった瞬間。
憲治の目が、ゆっくりと開いた。
闇の中で、天井を見つめながら、静かに、指を動かす。
(……次は、施設長だ)
組織の心臓。
逃げ場のない場所で。
ここからが、本番だった。




