第21章 来訪者
翌日の午後三時。
雨は降っていなかったが、空は低く、重かった。
桜ヶ丘苑の裏口に、一台の古いセダンが止まった。
運転席から降りてきた男は、何度も周囲を見回し、帽子を深くかぶり直した。
北尾達也。
正面玄関は使わない。
受付にも顔を出さない。
電話で指示された通り、裏の職員通用口から入った。
インターホンを押す。
「……はい」
「……面会……北尾憲治……」
一瞬、間。
「……少々……お待ちください……」
ロックが、解除される。
達也の背中を、嫌な汗が伝った。
*
三階、奥の廊下。
昼の時間帯だというのに、人影は少ない。
事件のあと、職員が一斉に休職し、応援の人間だけで回している。
空気が、薄い。
「……こちらです……」
案内の若い介護士が、憲治の部屋の前で止まった。
「……お一人で……大丈夫ですか……?」
達也は、無理に笑った。
「……ええ……すぐ……終わります……」
ドアが、閉まる。
カチャリ、と、鍵の音。
静寂。
*
部屋の中。
カーテンは、半分閉められ、薄暗い。
ベッドの上に、憲治が、横たわっている。
いつものように、口を半開きにし、天井を見つめたまま。
「……お父……さん……」
声が、震えた。
近づく。
(……本当に……ボケた顔だ……)
「……電話……もらって……」
憲治は、ゆっくり、顔を向けた。
焦点の合わない目。
「……あ……あぁ……」
達也は、ほっと、息をついた。
(……やっぱり……)
だが。
次の瞬間。
その目が、鋭く、達也を捉えた。
「……遅かったな……達也……」
低い、はっきりした声。
別人の声。
達也は、後ずさった。
「……な……なに……」
「……鍵……閉めたか……」
「……え……?」
「……閉めろ……」
命令口調。
達也は、無意識に、ドアに手を伸ばし、内側から、鍵をかけた。
カチリ。
その音が、異様に、大きく響いた。
*
憲治は、ゆっくり、上体を起こした。
背筋は、まっすぐ。
手の震えも、ない。
「……いつから……だと……思う……?」
「……な……何が……」
「……お前が……俺の前で……金の話を……したのは……」
達也の喉が、鳴った。
「……お前が……娘の前で……俺を……“もう人じゃない”……と言った夜……」
一つ一つ、正確な記憶。
達也の顔から、血の気が引いた。
「……録音……してある……」
憲治は、枕の下から、小さなICレコーダーを出した。
「……職員の……暴力も……投薬も……拘束も……」
「……家族の……言葉も……全部……」
達也は、声を失った。
「……警察に……渡せば……」
「……お前は……終わりだ……」
「……妻も……巻き込まれる……」
「……娘も……父親が……何を言っていたか……知る……」
達也は、膝から、崩れ落ちた。
「……な……何が……欲しい……」
その言葉を、待っていた。
憲治の目が、細く、笑った。
「……簡単だ……」
「……証言しろ……」
「……施設の……不正を……全部……」
「……だが……」
一拍。
「……“俺が……認知症だった”……という……証言は……するな……」
「……最後まで……俺は……何も……分からなかった……」
「……そう……言え……」
達也は、必死に、うなずいた。
「……わ……分かった……何でも……」
*
その頃。
警察署。
藤堂理沙は、通信記録の一覧を、見つめていた。
事件前後、北尾憲治の病室の内線。
外線発信、二件。
一件は、施設長。
もう一件は――
北尾達也。
しかも。
通話時間、三分二十秒。
「……認知症患者が……外線……?」
藤堂は、静かに、席を立った。
(……おかしい……)
(……この老人……何か……隠している……)
*
部屋に戻ると。
達也は、泣きながら、床に額をつけていた。
「……約束……します……全部……話します……」
憲治は、再び、ベッドに横になり、
ゆっくり、あの“虚ろな顔”に、戻っていく。
「……いい……帰れ……」
「……もう……俺は……何も……分からん……」
数秒後。
完全な、認知症の老人。
達也は、這うように、部屋を出た。
*
夜。
憲治は、天井の染みを、数えていた。
三十九。
(……一人……確保……)
次は、刑事。
次は、真実。
だが――
(……お前……気づき始めたな……藤堂……)
遠くで、ナースコールが、鳴った。
物語は、静かに、臨界点へ、近づいていた。
――続く。




