第2章 仮面の老人
朝六時。
廊下の照明が一斉に点き、夜の匂いが押し流される時間。
消毒液と尿臭と、煮込み過ぎた味噌汁の匂いが混ざり合い、桜ヶ丘苑の一日は始まる。
「起きてくださーい、北尾さん」
カーテンが勢いよく引かれ、白い光が流れ込む。
憲治は、反射的に目を細めそうになるのを必死でこらえた。
代わりに、焦点の合わない目で天井を見つめ、口を半開きにする。
女の介護士が、無言でオムツをめくった。
「……また出てる。ほんと、毎朝ひどい」
鼻をつまみ、乱暴に身体を横向きにされる。
シーツが引き抜かれ、冷たい空気が、露出した皮膚に刺さった。
(力が強すぎる)
そう思いながらも、呻き声をわざと濁らせ、抵抗はしない。
抵抗すれば、「暴れる認知症」と記録されるだけだ。
女は無言のまま、濡れタオルで股間を拭き、勢いよくオムツを当てた。
「ほら、終わり。動かないで」
テープが皮膚に食い込み、息が詰まる。
だが、憲治は知っていた。
この女の手つき。
この女の癖。
朝の担当、佐伯美和。三十四歳。
二年前に離婚。夜勤明けによく職員室で泣いている。
入居者の年金口座を一度、無断で触ったことがある。
――忘れない。
洗面所へ連れて行かれる途中、廊下の向こうで怒鳴り声がした。
「だから動くなって言ってんだろ!」
若い男の声。
続いて、何かを叩きつける鈍い音。
他の職員は、誰も足を止めない。
「朝から元気ねぇ」と、佐伯は小さく笑った。
その瞬間、憲治ははっきりと理解した。
ここでは、悲鳴は日常なのだと。
*
朝食の食堂は、いつも騒がしい。
車椅子の列。
意味のない叫び。
テーブルに叩きつけられるスプーンの音。
テレビでは、朝の情報番組が流れている。
株価、天気、若いタレントの笑顔。
この空間だけが、まるで世界から切り離されているようだった。
「北尾さん、今日はちゃんと食べましょうね」
別の職員が、流動食のトレイを置く。
憲治は、スプーンの動きをじっと見つめた。
手首の角度。
力の入れ方。
この女――石田奈緒。二十六歳。
夜勤明けによく居眠りをする。
薬の準備で、何度か量を間違えている。
(危ない)
心の中で、静かにメモを取る。
食事の途中、突然、男の笑い声が響いた。
「アハハハハハ!」
向かいの席の利用者が、意味もなく笑い続けている。
職員は誰も止めない。
その笑い声を聞きながら、憲治は、自分の過去を思い出していた。
かつて、自分も、誰かの上司で、父で、夫だった。
人に命令し、人に頼られ、人の名前を呼んでいた。
今は――
名前を呼ばれることすら、ほとんどない。
「ほら、こぼしてる」
スプーンが強く押し込まれ、歯に当たる。
一瞬、痛みで表情が動きそうになる。
(だめだ)
堪えろ。
正気を悟られた瞬間、すべてが終わる。
*
午前のレクリエーション。
意味のない体操。
意味のない歌。
「幸せなら手をたたこう」
誰も幸せそうではなかった。
車椅子に縛られた女が、何度も立ち上がろうとして、転びそうになる。
職員は遠くから見ているだけだ。
「どうせまた転ぶんでしょ」
誰かが言った。
その言葉を聞いた瞬間、憲治の中で、何かが冷たく沈んだ。
――ここでは、転倒は事故ではない。
――管理の一部だ。
昼前、娘が面会に来た。
「まだ生きてたんだ」
第一声が、それだった。
「ねえ、ちゃんと食べてる?ほら、わかる?私だよ?」
顔を近づけ、試すような声。
憲治は、わざと視線を逸らし、意味のない唸り声を出した。
娘は笑った。
「やっぱりもうダメね。人じゃないみたい」
胸の奥で、何かが、確実に壊れた。
だが、憲治はうなだれたまま、静かに考えていた。
――この女の声。
――この女の言葉。
――この女の、指輪の傷。
すべて、忘れない。
その日の夜、消灯後。
天井の染みを見つめながら、憲治は、初めてはっきりと決意した。
ここで、終わらせる。
逃げない。
訴えない。
――奪われたものは、ここで、返してもらう。
もちろん、誰にも気づかれない形で。
老人は、静かに目を閉じた。
仮面をかぶったまま、
本当の顔だけを、闇の中で、ゆっくりと磨き始めていた。
――続く。




