第19章 立ち入り
午前九時。
桜ヶ丘苑の正面玄関に、二台の黒いワンボックスが止まった。
スーツ姿の男女。
バッジ。
書類の束。
警察だった。
受付の若い職員が、瞬間、固まる。
「……何か、ご用でしょうか……?」
年配の刑事が、淡々と答えた。
「捜索令状です」
「業務記録、事故報告書、職員の勤務記録一式。提出してください」
一瞬で、空気が凍りついた。
ナースステーションに、ざわめきが走る。
誰かが、施設長室に走った。
*
施設長は、電話を切った瞬間、椅子から立ち上がれなくなっていた。
手が、震える。
額に、冷や汗。
机の引き出しには、まだ、処分しきれなかったファイル。
夜勤記録。
拘束指示書。
「転倒事故」一覧。
(……間に合わなかった……)
ドアが、ノックもなく、開いた。
女刑事だった。
その後ろに、二人の捜査員。
「……失礼します」
声は、低く、静かだった。
だが、逃げ道は、完全に、塞がれていた。
「令状があります」
「今から、この部屋を含め、施設全体を捜索します」
施設長は、必死に笑顔を作った。
「い、いえ……これは……ちょっとした誤解で……」
女刑事は、机の上の灰皿を、無言で見つめた。
まだ、温かい灰。
焦げた紙片。
「……何を、燃やしていたんですか」
答えられない。
その沈黙だけで、十分だった。
*
ナースステーションでは、職員たちが、壁際に並ばされていた。
ロッカー。
私物。
記録棚。
次々と、開けられていく。
捜査員が、声を上げた。
「……これ……」
古いファイル。
夜勤記録の束。
ページの端に、同じ修正液の跡。
筆跡が、途中から、変わっている。
「改ざん、ですね」
看護師長の代理で立っていた副師長が、顔面蒼白になる。
*
医務室。
薬品棚。
鎮静剤の在庫が、帳簿と合わない。
「……多いな」
「……減りすぎてる」
投薬記録と、使用量。
誰が、いつ、どれだけ使ったか。
そこには、石田奈緒の名前が、何度も、出てきた。
だが――
その直後のページには、必ず、別の名前で、上書きされていた。
看護師長。
副施設長。
施設長。
三人の署名。
女刑事は、静かに、息を吐いた。
(……組織的……完全に……)
*
一方。
憲治の部屋の前で、捜査員が立ち止まった。
名札を見る。
「北尾……憲治……」
女刑事が、ゆっくり、近づく。
ドアを、ノック。
「……失礼します」
入る。
ベッドの上。
いつもの老人。
虚ろな目。
口を、半開きにし、天井を見ている。
「……北尾さん」
声をかける。
反応はない。
「あ……あう……」
意味のない声。
女刑事は、しばらく、その顔を、じっと見つめた。
(……この人が……本当に……?)
だが。
視線が、わずかに、動いた。
一瞬。
ほんの、一瞬。
彼女の名札を、正確に、追った。
女刑事の、背中に、ぞっとする感覚が走る。
(……今……見た……?)
だが、次の瞬間。
憲治は、また、完全な無表情に戻っていた。
「……特に、問題なさそうですね」
捜査員が、言う。
女刑事は、うなずくしかなかった。
証拠は、ない。
今のところ。
*
午後。
施設長は、別室で、任意同行の説明を受けていた。
「……参考人、という形です」
「……あくまで……」
声が、震える。
だが、誰も、信じていなかった。
ロッカーから、さらに、決定的な物が出てきた。
USBメモリ。
中身は、内部用の「事故管理表」。
公的記録には出ない、裏の一覧。
死亡者名。
原因。
「処理済」。
そこに、はっきりと、書いてあった。
――北尾憲治 拘束強化対象
――家族対応注意
――延命不要候補
女刑事の、拳が、ぎゅっと、握られた。
(……この人は……最初から……)
*
夕方。
ニュースが、地域に流れ始めた。
「高齢者施設で不正・事故隠蔽の疑い」
「警察が立ち入り捜索」
玄関の前に、報道車。
カメラ。
マイク。
職員たちは、俯いたまま、裏口から帰された。
施設長は、連行こそされなかったが、
そのまま、事情聴取に向かった。
戻らないことは、誰の目にも、明らかだった。
*
夜。
桜ヶ丘苑は、異様な静けさに包まれていた。
テレビも、消され。
ナースコールも、少ない。
職員は、最低限。
誰も、余計なことを言わない。
憲治は、ベッドに横たわり、
天井の染みを、いつも通り、数えていた。
三十七。
変わらない。
だが――
(……一つ、落ちた)
施設長。
大きな歯車。
予想より、早い。
だが、まだ、終わらない。
女刑事は、疑っている。
組織は、壊れ始めた。
そして――
家族。
娘は、入院中。
婿は、ひとり。
今が、一番、孤立している。
(……次は……お前だ……)
憲治の、心の中で、静かに、名前が、響いた。
婿。
金と、保身と、
一番、弱い人間。
彼は、ゆっくりと、目を閉じた。
もう、事故では、足りない。
次は――
「選択」を、させる。
逃げるか。
守るか。
裏切るか。
その瞬間から、
この物語は、「復讐」ではなくなる。
――続く。




