第18章 病室の証言
集中治療室の前の廊下は、夜でも白く、冷たかった。
消毒薬の匂い。
無機質な機械音。
命をつなぐ管の、微かな振動。
女刑事は、ガラス越しに、ベッドの上の女を見つめていた。
看護師長。
顔の左半分に、まだ、紫色の腫れが残り、
首には、固定具。
呼吸は、浅く、
意識は、断続的。
医師が、小さくうなずいた。
「短時間なら、話せます。ただ……混乱しています」
「刺激しないでください」
女刑事は、静かに、病室に入った。
*
「……看護師長さん」
呼びかけると、
女のまぶたが、ゆっくり、動いた。
焦点の合わない目。
しばらくして、
かすれた声が、漏れた。
「……わたし……落ちた……」
「覚えていること、ありますか」
沈黙。
酸素マスクの音だけが、続く。
そして――
突然、女の目が、見開かれた。
「……違う……!」
掠れた声が、強く、揺れた。
「……押された……!」
女刑事の、背筋が、硬くなる。
「誰に、ですか」
しばらく、沈黙。
唇が、震え、
目が、天井を、必死に、探す。
「……わから……ない……」
「……でも……」
呼吸が、荒くなる。
「……後ろ……影……」
「……声……」
女刑事は、身を、少し、近づける。
「……どんな声でしたか」
しばらく、迷い。
そして――
はっきりと、言った。
「……男の声……」
「……低い……静かな……」
「……笑ってた……」
一瞬、
部屋の空気が、凍った。
「……職員ですか」
首が、ゆっくり、横に、振られる。
「……違う……」
「……あの人……職員じゃない……」
女刑事の、脳裏に、
一人の顔が、浮かぶ。
老人。
車椅子。
虚ろな目。
(……まさか……)
*
女刑事は、声を、さらに、低く、落とした。
「……北尾憲治さん、覚えていますか」
その瞬間。
看護師長の、指が、
シーツを、強く、つかんだ。
呼吸が、乱れる。
目に、はっきりとした、恐怖が、浮かぶ。
「……あの人……」
喉が、鳴る。
「……あの人……見てた……」
「……ずっと……」
女刑事の、心臓が、跳ねた。
「……何を、ですか」
声は、ほとんど、叫びに、近かった。
「……全部……」
「……記録……」
「……事故……」
「……お金……」
涙が、こぼれた。
「……わたし……消した……」
「……石田の……メモ……」
「……施設長に……言われて……」
女刑事は、歯を、強く、噛んだ。
ついに、出た。
隠蔽。
改ざん。
共犯。
「……北尾さんが、何か、言いましたか」
首が、震えながら、縦に、動く。
「……何も……言わない……」
「……ただ……」
目を、ぎゅっと、閉じる。
「……夜……」
「……廊下に……立ってた……」
「……笑ってた……」
その言葉が、
女刑事の、胸に、深く、刺さった。
*
病室を出たとき、
女刑事の手は、わずかに、震えていた。
(……被害者が……加害者に……)
いや――
(……加害者が……被害者に……なっただけ……)
彼女は、すぐに、携帯を取り出した。
「……本部……緊急で、動いて……」
「……桜ヶ丘苑……組織的隠蔽……」
「……そして……」
一瞬、言葉を、探す。
「……北尾憲治……」
「……重要参考人として……マーク……」
通話が、切れる。
廊下の窓から、夜明け前の、青白い光が、差し込んでいた。
*
そのころ。
桜ヶ丘苑。
施設長は、事務室で、震える手で、書類を燃やしていた。
事故報告書。
夜勤記録。
拘束指示書。
灰皿が、すぐに、いっぱいになる。
「……クソ……」
汗が、額を、伝う。
電話が、鳴る。
看護師長の、家族から。
出ない。
また、鳴る。
今度は、刑事課。
画面を、伏せて、机に、叩きつけた。
(……終わる……)
(……このままじゃ……全部……)
彼は、ふと、思い出す。
あの老人。
天井ばかり、見ていた、
無反応な、北尾。
(……あいつ……)
背中に、冷たいものが、走る。
*
一方。
憲治は、個室で、
いつも通り、天井の染みを、見つめていた。
蛍光灯の縁。
薄茶色の輪。
三十七。
増えていない。
(……看護師長……喋ったな……)
だが、問題はない。
むしろ――
予定通り。
彼は、心の中で、ゆっくり、数を、数える。
一つ。
組織。
二つ。
施設長。
三つ。
家族。
そして――
四つ目。
(……刑事……)
口元が、ほんの、わずか、歪んだ。
だが、表情は、いつも通り。
完全な、痴呆老人。
誰にも、疑われない顔。
彼は、そっと、目を閉じた。
次に、崩れるのは――
「施設長」。
その男が、落ちた瞬間、
すべては、止められなくなる。
夜明けは、もう、近かった。
――続く。




