第17章 沈黙の対話
夜の桜ヶ丘苑に、救急車のサイレンの残響が、まだ、かすかに残っていた。
看護師長は、緊急手術に入った。
生死は不明。
意識は、戻らない可能性が高い。
「転倒事故」
公式記録は、すでに、その一行で、まとめられ始めている。
だが。
誰ひとり、心の底から、それを信じてはいなかった。
*
施設長は、応接室に閉じこもったまま、電話をかけ続けていた。
弁護士。
理事長。
系列施設の管理責任者。
「……事故です……本当に、事故で……」
「……警察が、過剰に反応してるだけで……」
声は、震え、同じ言葉を、何度も繰り返す。
机の上には、監査資料と、事故報告書。
赤と黄色の付箋が、まるで、警告灯のように、並んでいた。
廊下では、職員たちが、完全に、口を閉ざしていた。
誰も、笑わない。
誰も、雑談しない。
そして――
誰も、施設長の目を、見なくなった。
*
そのころ。
女刑事は、ナースステーションの端の椅子に座り、
精密ドライバーを、何度も、指で転がしていた。
ビニール袋の中。
指紋は、まだ、採っていない。
(……本当に……この人が……?)
頭の中に浮かぶのは、
あの夜の光景。
歩く老人。
笑う口元。
影の中で、こちらを“感じ取った”視線。
だが――
証拠は、何もない。
動機は、ある。
機会も、ある。
だが、
「認知症の寝たきり利用者が、看護師長を事故に見せかけて転ばせた」
そんな話を、
誰が、信じる。
彼女は、ゆっくり、立ち上がった。
向かう先は、決まっている。
北尾憲治の、個室。
*
ノック。
返事は、ない。
扉を開けると、
いつもと同じ光景。
ベッドの上。
口を半開きにして、
ぼんやり、天井を見ている老人。
彼女は、椅子を引き、
ゆっくり、腰を下ろした。
しばらく、何も言わない。
時計の秒針の音だけが、部屋に、淡く、響く。
そして、低く、静かに、言った。
「……昨夜、あなた、起きてましたよね」
反応は、ない。
目も、動かない。
女刑事は、ため息のように、続ける。
「歩いてました」
「ドライバー、持ってました」
「……私、見てました」
沈黙。
それでも、
憲治の呼吸は、
ほんのわずか、間隔が、変わった。
彼女は、それを、見逃さなかった。
「……不思議ですね」
「ここで、事故が続いて」
「職員が消えて」
「看護師長が倒れて」
「……全部、あなたの周りで、起きてる」
彼女は、少し、声を落とす。
「でも」
「あなた、被害者ですよね」
その言葉で。
憲治の、右手の指が、
ほんの、数ミリ、動いた。
*
女刑事は、身体を、前に、少し、乗り出した。
「……誰に、何を、されたんですか」
「……ここで、どんな目に、あったんですか」
「……家族に、何を、言われたんですか」
その瞬間。
憲治の、喉が、かすかに、鳴った。
音。
言葉になる前の、
小さな、震え。
彼女の心臓が、強く、打つ。
そして――
ほとんど、声にならない、低い音が、
初めて、はっきり、部屋に、落ちた。
「……知って……いる……」
女刑事の、背筋が、凍った。
幻聴ではない。
はっきり、聞こえた。
彼女は、息を詰め、
ゆっくり、問い返す。
「……何を、ですか」
憲治の目が、
初めて、彼女を、正面から、見た。
濁りは、ない。
完全に、澄んだ、
鋭い、老人の目。
そして、口が、ゆっくり、動く。
「……全部……」
それだけ。
次の瞬間。
目は、また、虚ろに、戻り、
口は、開き、
涎が、垂れた。
「あ……あ……」
完全な、認知症の顔。
女刑事は、しばらく、動けなかった。
心臓の音が、耳の中で、うるさく、鳴る。
(……喋った……)
しかも、
はっきり、意識を持って。
だが――
録音も、証拠も、ない。
彼女は、ゆっくり、立ち上がり、扉の前で、振り返った。
「……あなた……自分が、何をしているか……」
最後まで、言えなかった。
憲治は、もう、彼女を、見ていなかった。
*
廊下に出た瞬間。
彼女の携帯が、震えた。
病院から。
「……看護師長ですが……」
「……意識が、戻りました……」
女刑事の、目が、細く、鋭く、なる。
「……話、聞けますか」
「……はい。ただ――」
「……混乱していて……誰かに、脅されている、と……」
通話が、切れた。
彼女は、ゆっくり、ナースステーションを見回した。
そして、心の中で、はっきり、言った。
(……もう、偶然じゃない……)
*
一方。
憲治は、天井を見つめながら、
ゆっくり、心の中で、笑っていた。
(……来たな……)
刑事。
ついに、気づいた。
だが――
まだ、遅い。
看護師長が、口を割れば、
次に、落ちるのは――
施設長。
そして、その次は――
「家族」。
彼は、指を、シーツの裏で、静かに、動かした。
もう一度。
名前を、書く必要は、ない。
すでに、
全員の順番は、
決まっている。
夜は、まだ、深かった。
――続く。




