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『記録されなかった罪 ――桜ヶ丘苑連続事故事件』  作者: キロヒカ.オツマ―


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第17章 沈黙の対話

夜の桜ヶ丘苑に、救急車のサイレンの残響が、まだ、かすかに残っていた。


看護師長は、緊急手術に入った。


生死は不明。

意識は、戻らない可能性が高い。


「転倒事故」


公式記録は、すでに、その一行で、まとめられ始めている。


だが。


誰ひとり、心の底から、それを信じてはいなかった。



施設長は、応接室に閉じこもったまま、電話をかけ続けていた。


弁護士。

理事長。

系列施設の管理責任者。


「……事故です……本当に、事故で……」

「……警察が、過剰に反応してるだけで……」


声は、震え、同じ言葉を、何度も繰り返す。


机の上には、監査資料と、事故報告書。


赤と黄色の付箋が、まるで、警告灯のように、並んでいた。


廊下では、職員たちが、完全に、口を閉ざしていた。


誰も、笑わない。

誰も、雑談しない。


そして――

誰も、施設長の目を、見なくなった。



そのころ。


女刑事は、ナースステーションの端の椅子に座り、

精密ドライバーを、何度も、指で転がしていた。


ビニール袋の中。

指紋は、まだ、採っていない。


(……本当に……この人が……?)


頭の中に浮かぶのは、

あの夜の光景。


歩く老人。

笑う口元。

影の中で、こちらを“感じ取った”視線。


だが――

証拠は、何もない。


動機は、ある。

機会も、ある。


だが、

「認知症の寝たきり利用者が、看護師長を事故に見せかけて転ばせた」


そんな話を、

誰が、信じる。


彼女は、ゆっくり、立ち上がった。


向かう先は、決まっている。


北尾憲治の、個室。



ノック。


返事は、ない。


扉を開けると、

いつもと同じ光景。


ベッドの上。

口を半開きにして、

ぼんやり、天井を見ている老人。


彼女は、椅子を引き、

ゆっくり、腰を下ろした。


しばらく、何も言わない。


時計の秒針の音だけが、部屋に、淡く、響く。


そして、低く、静かに、言った。


「……昨夜、あなた、起きてましたよね」


反応は、ない。


目も、動かない。


女刑事は、ため息のように、続ける。


「歩いてました」

「ドライバー、持ってました」

「……私、見てました」


沈黙。


それでも、

憲治の呼吸は、

ほんのわずか、間隔が、変わった。


彼女は、それを、見逃さなかった。


「……不思議ですね」

「ここで、事故が続いて」

「職員が消えて」

「看護師長が倒れて」

「……全部、あなたの周りで、起きてる」


彼女は、少し、声を落とす。


「でも」

「あなた、被害者ですよね」


その言葉で。


憲治の、右手の指が、

ほんの、数ミリ、動いた。



女刑事は、身体を、前に、少し、乗り出した。


「……誰に、何を、されたんですか」


「……ここで、どんな目に、あったんですか」


「……家族に、何を、言われたんですか」


その瞬間。


憲治の、喉が、かすかに、鳴った。


音。


言葉になる前の、

小さな、震え。


彼女の心臓が、強く、打つ。


そして――


ほとんど、声にならない、低い音が、

初めて、はっきり、部屋に、落ちた。


「……知って……いる……」


女刑事の、背筋が、凍った。


幻聴ではない。


はっきり、聞こえた。


彼女は、息を詰め、

ゆっくり、問い返す。


「……何を、ですか」


憲治の目が、

初めて、彼女を、正面から、見た。


濁りは、ない。


完全に、澄んだ、

鋭い、老人の目。


そして、口が、ゆっくり、動く。


「……全部……」


それだけ。


次の瞬間。


目は、また、虚ろに、戻り、

口は、開き、

涎が、垂れた。


「あ……あ……」


完全な、認知症の顔。


女刑事は、しばらく、動けなかった。


心臓の音が、耳の中で、うるさく、鳴る。


(……喋った……)


しかも、

はっきり、意識を持って。


だが――

録音も、証拠も、ない。


彼女は、ゆっくり、立ち上がり、扉の前で、振り返った。


「……あなた……自分が、何をしているか……」


最後まで、言えなかった。


憲治は、もう、彼女を、見ていなかった。



廊下に出た瞬間。


彼女の携帯が、震えた。


病院から。


「……看護師長ですが……」

「……意識が、戻りました……」


女刑事の、目が、細く、鋭く、なる。


「……話、聞けますか」


「……はい。ただ――」

「……混乱していて……誰かに、脅されている、と……」


通話が、切れた。


彼女は、ゆっくり、ナースステーションを見回した。


そして、心の中で、はっきり、言った。


(……もう、偶然じゃない……)



一方。


憲治は、天井を見つめながら、

ゆっくり、心の中で、笑っていた。


(……来たな……)


刑事。


ついに、気づいた。


だが――

まだ、遅い。


看護師長が、口を割れば、

次に、落ちるのは――


施設長。


そして、その次は――

「家族」。


彼は、指を、シーツの裏で、静かに、動かした。


もう一度。


名前を、書く必要は、ない。


すでに、

全員の順番は、

決まっている。


夜は、まだ、深かった。


――続く。

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