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『記録されなかった罪 ――桜ヶ丘苑連続事故事件』  作者: キロヒカ.オツマ―


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第16章 内部監査

朝の桜ヶ丘苑は、異様に静かだった。


テレビの音も小さく、談話室の利用者たちも、どこか落ち着きがない。

職員たちの声は必要以上に抑えられ、廊下を歩く靴音だけが、やけに響いていた。


前夜のことを知る者は、誰もいない。


だが、空気は、確実に変わっていた。



午前九時。


施設長室の扉が、ノックもなく開いた。


入ってきたのは、昨日の女刑事と、見知らぬ中年の男。


男は、県の福祉監査課の職員だった。


「本日より、臨時の内部監査に入ります」


施設長の顔色が、一瞬で失われた。


「……き、聞いておりませんが……」


「警察案件が絡んでいますので。記録と職員名簿、直近三か月分、すべて提出してください」


拒否の余地はなかった。


看護師長が呼ばれ、二人は並んで、無言で書類を運び始める。


女刑事は、廊下に出て、ゆっくりと施設内を歩いた。


視線は、自然に、北尾憲治の個室の方向へ向く。


彼は、車椅子に座り、いつものように、窓の外を眺めていた。


口は半開き。

目は、どこも見ていない。


完璧な、認知症の老人。


だが――


女刑事は、はっきり知っていた。


昨夜、この男は、歩いた。

立った。

笑った。


彼女は、わざと、部屋の前で立ち止まり、声をかけた。


「北尾さん、おはようございます」


反応は、ない。


近づいて、顔を覗き込む。


濁った視線。

涎。


完全に、壊れた老人の顔。


それでも、女刑事は、低く、囁いた。


「……あなた、起きてますよね」


憲治の瞼が、ほんの一瞬、震えた。


ただ、それだけ。


だが、それで、十分だった。


女刑事は、確信を、さらに深めた。



昼前。


監査は、想像以上に速く、深く、進んでいた。


夜勤記録の空白。

事故報告と医師診断の矛盾。

投薬量の改ざん。


中でも、多かったのは――

看護師長のサイン。


ほとんどすべての修正記録に、彼女の名前があった。


施設長は、何度も、額の汗を拭きながら、言い訳を繰り返した。


「……現場が忙しくて……」

「……新人のミスを、まとめて直しただけで……」


監査官は、無言で、淡々と、付箋を貼っていく。


赤。

黄色。

青。


机の上は、あっという間に、色だらけになった。



午後。


看護師長は、明らかに、様子がおかしくなっていた。


誰かが近づくたび、肩をびくっと震わせ、

手を洗う回数が、異様に増え、

ナースステーションの奥から、ほとんど出てこない。


その様子を、

憲治は、廊下の隅の車椅子から、静かに眺めていた。


(……いい……)


恐怖が、染み込んできている。


だが、まだ、足りない。


彼は、午後のリハビリの時間、わざと、手を痙攣させた。


「……あ……あ……」


担当の若い介護士が、慌てて、看護師長を呼ぶ。


「師長、北尾さん、様子が……」


看護師長は、苛立った顔で近づき、

脈を測り、瞳孔を覗き、乱暴に言った。


「……いつもの発作よ」


だが、その瞬間。


憲治の手が、

彼女の白衣の裾を、かすかに、引いた。


誰にも見えない角度で。


そして、

ほとんど、声にならない声で、囁いた。


「……見ている……」


看護師長の顔から、血の気が、すっと消えた。


「……え……?」


憲治は、すぐに、また、口を開け、涎を垂らした。


何事も、なかったように。


だが。


看護師長は、その場で、完全に、動けなくなった。



夕方。


監査官と女刑事が、施設長室を出た。


表情は、硬い。


「……かなり黒いですね」

「ええ……少なくとも、業務上過失致死の線は……」


そのとき。


廊下の奥から、悲鳴が上がった。


「師長――!!」


全員が、走った。


浴室。


床一面に、水。


湯気の中で、

看護師長が、仰向けに倒れていた。


後頭部から、血。


頭の横には、

外れた、手すりの金具。


医師が呼ばれ、

救急車が来た。


診断は、すぐに出た。


「浴室での転倒事故による、急性硬膜下血腫」


――典型的な、施設事故。


だが。


女刑事は、床の隅に落ちていた、

一本の、濡れた、精密ドライバーを見つけた。


誰も、気づいていない。


彼女だけが、拾い上げ、ポケットに入れた。



夜。


憲治は、ベッドに横たわりながら、

天井を、静かに、見つめていた。


看護師長は、今、手術中。


生きるか、死ぬか、

五分五分。


だが――

どちらでも、いい。


重要なのは、

彼女が、もう、

「何も隠せない側」に、行ったこと。


(……首は、落ちた……)


残るは――

施設長。


そして、

刑事。


彼は、ゆっくり、目を閉じた。


次の一手を、

もう、決めていた。


――続く。

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