第16章 内部監査
朝の桜ヶ丘苑は、異様に静かだった。
テレビの音も小さく、談話室の利用者たちも、どこか落ち着きがない。
職員たちの声は必要以上に抑えられ、廊下を歩く靴音だけが、やけに響いていた。
前夜のことを知る者は、誰もいない。
だが、空気は、確実に変わっていた。
*
午前九時。
施設長室の扉が、ノックもなく開いた。
入ってきたのは、昨日の女刑事と、見知らぬ中年の男。
男は、県の福祉監査課の職員だった。
「本日より、臨時の内部監査に入ります」
施設長の顔色が、一瞬で失われた。
「……き、聞いておりませんが……」
「警察案件が絡んでいますので。記録と職員名簿、直近三か月分、すべて提出してください」
拒否の余地はなかった。
看護師長が呼ばれ、二人は並んで、無言で書類を運び始める。
女刑事は、廊下に出て、ゆっくりと施設内を歩いた。
視線は、自然に、北尾憲治の個室の方向へ向く。
彼は、車椅子に座り、いつものように、窓の外を眺めていた。
口は半開き。
目は、どこも見ていない。
完璧な、認知症の老人。
だが――
女刑事は、はっきり知っていた。
昨夜、この男は、歩いた。
立った。
笑った。
彼女は、わざと、部屋の前で立ち止まり、声をかけた。
「北尾さん、おはようございます」
反応は、ない。
近づいて、顔を覗き込む。
濁った視線。
涎。
完全に、壊れた老人の顔。
それでも、女刑事は、低く、囁いた。
「……あなた、起きてますよね」
憲治の瞼が、ほんの一瞬、震えた。
ただ、それだけ。
だが、それで、十分だった。
女刑事は、確信を、さらに深めた。
*
昼前。
監査は、想像以上に速く、深く、進んでいた。
夜勤記録の空白。
事故報告と医師診断の矛盾。
投薬量の改ざん。
中でも、多かったのは――
看護師長のサイン。
ほとんどすべての修正記録に、彼女の名前があった。
施設長は、何度も、額の汗を拭きながら、言い訳を繰り返した。
「……現場が忙しくて……」
「……新人のミスを、まとめて直しただけで……」
監査官は、無言で、淡々と、付箋を貼っていく。
赤。
黄色。
青。
机の上は、あっという間に、色だらけになった。
*
午後。
看護師長は、明らかに、様子がおかしくなっていた。
誰かが近づくたび、肩をびくっと震わせ、
手を洗う回数が、異様に増え、
ナースステーションの奥から、ほとんど出てこない。
その様子を、
憲治は、廊下の隅の車椅子から、静かに眺めていた。
(……いい……)
恐怖が、染み込んできている。
だが、まだ、足りない。
彼は、午後のリハビリの時間、わざと、手を痙攣させた。
「……あ……あ……」
担当の若い介護士が、慌てて、看護師長を呼ぶ。
「師長、北尾さん、様子が……」
看護師長は、苛立った顔で近づき、
脈を測り、瞳孔を覗き、乱暴に言った。
「……いつもの発作よ」
だが、その瞬間。
憲治の手が、
彼女の白衣の裾を、かすかに、引いた。
誰にも見えない角度で。
そして、
ほとんど、声にならない声で、囁いた。
「……見ている……」
看護師長の顔から、血の気が、すっと消えた。
「……え……?」
憲治は、すぐに、また、口を開け、涎を垂らした。
何事も、なかったように。
だが。
看護師長は、その場で、完全に、動けなくなった。
*
夕方。
監査官と女刑事が、施設長室を出た。
表情は、硬い。
「……かなり黒いですね」
「ええ……少なくとも、業務上過失致死の線は……」
そのとき。
廊下の奥から、悲鳴が上がった。
「師長――!!」
全員が、走った。
浴室。
床一面に、水。
湯気の中で、
看護師長が、仰向けに倒れていた。
後頭部から、血。
頭の横には、
外れた、手すりの金具。
医師が呼ばれ、
救急車が来た。
診断は、すぐに出た。
「浴室での転倒事故による、急性硬膜下血腫」
――典型的な、施設事故。
だが。
女刑事は、床の隅に落ちていた、
一本の、濡れた、精密ドライバーを見つけた。
誰も、気づいていない。
彼女だけが、拾い上げ、ポケットに入れた。
*
夜。
憲治は、ベッドに横たわりながら、
天井を、静かに、見つめていた。
看護師長は、今、手術中。
生きるか、死ぬか、
五分五分。
だが――
どちらでも、いい。
重要なのは、
彼女が、もう、
「何も隠せない側」に、行ったこと。
(……首は、落ちた……)
残るは――
施設長。
そして、
刑事。
彼は、ゆっくり、目を閉じた。
次の一手を、
もう、決めていた。
――続く。




